変形菌分類学研究者の紹介(日本)


朝比奈泰彦 (Asahina Yasuhiko, 1881-1975)

[変形菌に関する業績] 台湾などで変形菌を採集し、標本の一部は南方熊楠や小畔四郎を介して昭和天皇に献上された。
[略歴] 明治14(1881)年4月16日、東京府本所林町に旧士族の長男として生まれる。明治20(1887)年、父親の転勤に伴って熊本の一新小学校に入学。明治22(1889)年、東京に帰って本所江東尋常高等小学校へ転校。明治27(1894)年、広島県立第一中学校に入学。明治28(1888)年、東京府尋常中学校(現日比谷高校)へ転校。明治32(1899)年、第一高等学校(現東大教養部)に首席で合格し、第二部工科に入学。明治35(1902)年、同校を卒業して東京帝国大学医学部薬学科に入学。明治38(1905)年、同大学を首席で卒業し、恩賜の銀時計を授与される。同年、大学院に入学し、下山順一郎教授の助手となる。明治39(1906)年には結婚したが、翌年死別。明治41(1908)年、再婚。明治42(1909)年、チューリッヒ国立高等工芸学校のウィルシュテッター教授のもとに留学。明治43(1910)年、薬学博士となる。明治45(1912)年、ベルリン大学のフィッシャー教授のもとに留学。大正元(1912)年、帰国して東京帝国大学の生薬学講座担当の助教授となる。同年、漢薬成分研究で桜井賞受賞。大正7(1918)年、東京帝国大学医科大学教授、学術研究会議会員、日本薬局方調査委員会委員となる。大正10(1921)年、日本純薬研究所設立。大正11(1922)年、勲六等瑞宝章を授与される。大正12(1923)年、ケンブリッジで開催された国際化学会議に日本代表として出席。勲五等瑞宝章を授与される。漢薬成分の化学的研究で帝国学士院恩賜賞を受賞(註1)。武田薬品工業株式会社技術顧問。以後地衣類の研究に力を注ぐ。大正14(1925)年12月から翌年1月にかけて石館守三、緒方正資とともに台湾産の地衣類や変形菌類を採集した。昭和3(1928)年、勲三等瑞宝章を授与される。昭和5(1930)年、帝国学士院会員、日本薬学会名誉会員、日本植物学会特別会員となる。昭和7(1932)年、樺太産地衣類などの採集をする。昭和8(1933)年、『植物研究雑誌』主幹。台湾産地衣類などを採集する。昭和9(1934)年、朝鮮の金剛山の地衣類などを採集。昭和11(1936)年から15(1940)年にかけて『植物研究雑誌』に地衣成分の顕微化学的検出法を発表し、化学分類学の先駆者となった。その間の昭和13(1938)年に日本薬学会会頭となる。昭和14(1939)年、勲二等瑞宝章を授与される。昭和15(1940)年には中国の興安嶺で地衣類などを採集。昭和16(1941)年、東京帝国大学を定年退官し、同大学名誉教授となる(註2)。昭和17(1942)年、ドイツ化学々会名誉会員となる。昭和18(1943)年、文化勲章受賞。昭和21(1946)年、日本薬理研究会理事。昭和23(1948)年、正倉院薬物調査員。昭和25(1950)年、資源科学研究所々長。日本東洋医学会名誉会員。昭和26(1951)年、第一回文化功労者の一人に選定された。昭和27(1952)年、薬理研究会理事長、同研究所々長。昭和36(1961)年には分析化学会名誉会員となった。昭和50年、94歳で死去。

 根本(1966)は次のような記事を書いている。「漢薬成分の研究が帝国学士院恩賜賞の対象に内定したので、(朝比奈)先生は内祝に、生薬教室にビール一樽を寄贈された。・・・教室員では呑み切れないので、他の教室と呑み競べをやろうというわけで、われこそはと酒豪連が乗り込んで来た。ビーカーに満たしたビールを一気に呑み干す競争で、審判官が選手の咽仏を凝視して、勝負を決めるというルールに従って、熱戦の結果、薬化教室の同期の落合英二氏と高橋酉蔵氏が一等になった。」

 根本(1966)は昭和16年4月7日に催された還暦祝賀宴のことを、次のように書いている。「テーブルスピーチで、高木誠司京大教授は、<朝比奈先生の助手をしていた頃、せっかく縁談が持ち込まれても、研究の妨害になるとばかりで、一方的に、"君、断わっておいたよ"と涼しい顔には、開いた口が塞がらなかった・・・>とユーモア交じりに、二十年前の心残りを披露された。次に友人の粘菌学の大家、小畔四郎博士は、<朝比奈先生はマクワ瓜で顔を洗い、それを朝飯にした・・・>と、先生の勿体ぶらない一面を語るものとして、既述の仙台行の車中の出来事を、興味深く弁じて共感を呼んだ」。また、根元(1966)によれば、同年6月23日の薬学科主催の退職記念会で朝比奈は次のように述べたという。「私は中学時代にフランクリンの英文自叙伝を読んだが、その中の<ライフ・イズ・アート>、即ち<人生は芸術なり>という言葉に強く惹かれた。フランクリンはまた言う、<君はもし、同じ一生を再び繰り返すかと訊かれたら、喜んで繰り返すと答える>と。このフランクリンの人生訓に共鳴した私は、それ以来<人生は芸術即科学なり>を座右銘として、その達成を念願とした。」

安部世意治 (Abe Seiji, 1903-1943)

[変形菌に関する業績] 1930年代に東京や高知県の変形菌を採集して一部を報告した。1941年には江本義数と共著で高知県産変形菌の目録を発表した。
[略歴] 不詳。高知県を故郷とする女性変形菌研究者だと言われる。1933年以降に『植物及動物』や『東京文理科大学科学紀要』などに自ら採集した変形菌を材料として、粘菌アメーバの接合や胞子の発芽の研究などを発表した。

安部(1933)は「変形菌の有性生殖に就いて」の中で次のように書いている。「実験に用いた材料は1930年から1932年迄の3年間に、東京市内及びその付近にて採集した変形菌の中から次の5種を選択した。即ちFuligo septica Gmelin (14/VII、1931採集)、Erionema aureum Penz. (20/VII、1932採集)、Didymium nigripes Fries (15/IX、1932採集)、Physarum crateriforme Petch (20/IX、1932採集)、Stemonitis fusca Roth (14/VII、1932採集)である。」

江本・安部(1941)は「土佐産変形菌(第一報)」で次のように書いている。「吾等が郷土、土佐に産する変形菌は未だ世に紹介せられた事がない。そこで他の植物の豊富なことからおして、当地方産の変形菌の研究も面白い事と思い、安部は墓参帰省の折を利用して、昭和六年(1931)からこれの採集を始めた。職務の都合上帰省の時期が毎年大体定まっている事と、帰省できない年もあり、又滞在期間が短いという様なわけで、徒に年数のみ重なって、今日迄の収穫は至って僅かである。・・・尚、江本(義数)は標本全部を検鏡し、又嘗て吉永虎馬氏から江本へ送付された標本数種も、この目録中に加える事にした。この機会に同氏の御厚意を感謝する次第である。」

池野誠一郎 (Ikeno Seiichiro 1866-1943)

[変形菌に関する業績] 明治31年頃に変形菌を採集し、採集品は草野俊助によって発表された。また、明治39年刊行の『植物系統学』の中でMyxomycetesに「粘液菌」という用語を与えた。
[略歴] 慶応2(1866)年、江戸駿河台に生まれる。明治23(1890)年、帝国大学理科大学植物学科(現、東大理学部植物学科)卒業。翌(1891)年、同農科大学(現、東大農学部)助教授。明治29(1896)年、ソテツの精子を発見。明治39(1906)年にはローマ字で『Zikkenn-idengaku』を刊行した。1909-1927年、白井光太郎の後任として東京帝国大学農科大学の植物学講座の教授を勤めた。その間の明治45(1912)年、ソテツの精虫発見の業績で帝国学士院恩賜賞受賞。昭和2(1927)年、帝国学士院会員となる。昭和18(1943)年10月4日逝去。

草野俊助(1899)は「日本産変形菌」の中のジクホコリについて次のように書いている。「昨年七月池野学士駒場農科大学畑園に採集す。」

彼は極度の近眼だったせいもあって、色々な逸話が伝わっているという。篠遠喜人(1988)は次のような話を紹介している。「ある日、銀ブラをするつもりで行けども行けども銀座はなく、あったのは大きな永代橋であったよし。バケツを頭にかぶって雨の中を教室にいったり、洋服に下駄をはいて二等車に乗ったり、シシリーの山ふかく入りすぎて、山にねころび、宿のあるじに心配をかけたりもしたのは(池野)先生である」。また、木原均(1988)は次のような話を紹介している。「1926(大正15)年、私がベルリンでお会いしたとき、(池野)先生は<自分のことでいろいろ話題になっているが、あれは全部嘘である。けれど、一つ本当のことがある。それは土佐を旅行したときのことで、便器をまたぐときに縦にまたいだので、この便所は幅が広いと話したことである。これは本当だよ>と言われた。そのころ土佐ではキンカクシがなかったので縦と横とを間違えられたのであろう。」

石館守三 (Ishidate Morizo, 1901-1996)

[変形菌に関する業績] 変形菌を青森県や台湾などで採集し、標本の一部は小畔四郎らを介して昭和天皇に献上された(註1)。
[略歴] 明治34年1月24日に青森市大字新浜町二十五番戸で生まれた。大正2(1913)年、青森師範学校付属小学校を卒業。大正7(1918)年、青森県立青森中学校卒業。大正11(1922)年、第二高等学校理科二類を卒業し、東京帝国大学医学部薬学科入学、同年キリスト教の同志会に入会。大正14(1925)年、同大学を卒業し、無給の医学部副手となり、朝比奈泰彦教授の指導を受けた。同年12月から1926年1月にかけて、朝比奈と緒方正資と共に台湾に旅行し、変形菌も採集した。大正15(1926)年、教育召集で青森歩兵第五連隊に応召、同年結婚。昭和4(1929)年、勤務演習のため第五連隊に応召。昭和5(1930)年、薬学博士となる。昭和8(1933)年、「樟脳の強心作用の本態に関する研究」で服部報公会賞受賞。昭和9(1934)年に東京帝国大学医学部助手となる。昭和11(1936)年から13(1938)年まで生薬植物化学研究のためドイツ、オーストリア、チェコスロバキア、イギリス、米国へ留学。昭和14(1939)年、東京帝国大学医学部助教授。昭和17(1942)年に同大学教授となり薬品分析化学講座を担当。昭和18(1943)年、「樟脳の強心作用の本態に関する研究」の共同研究で帝国学士院賞受賞。昭和21(1946)年、キリスト教の同志会理事長。日本薬学会賞受賞。昭和24(1949)年、厚生省の中央薬事審議会委員。昭和25(1950)年には米国へ出張する。昭和28(1953)年、ヨーロッパ諸国へ出張。昭和29(1954)年、中南米諸国へ出張。昭和32(1957)年、ヨーロッパやアジア諸国へ出張。昭和33(1958)年、東京大学の初代薬学部長、日本分析化学々会々長となる。昭和34(1959)年、日本薬学会々頭となる。同年、スイスと米国へ出張。昭和35(1960)年、日本学術会議会員、東京生化学研究会理事長。昭和36(1961)年、東京大学を定年退官して名誉教授となる。同年、日本分析化学会名誉会員、東京生化学研究所々長。昭和37(1962)年、日本キリスト教海外医療協力会々長。昭和39(1964)年、日本薬学会名誉会員。日本クリスチャン・アカデミー理事長。昭和40(1965)年、共立薬科大学理事長。昭和42(1967)年にはパリ大学名誉教授となる。昭和44(1966)年、日本食品衛生学会々長。昭和45(1970)年、アジア薬剤師会連合会副会長、日本薬剤師会々長、食品薬品安全センター理事長。昭和46(1971)年、勲二等旭日重光賞を受賞し、米国薬剤師会名誉会員、石館商事株式会社取締役会長となる。昭和49(1974)年、笹川記念保健協力財団理事長。国際薬剤師連合会副会長。昭和52(1977)年、日本癌学会名誉会員。昭和55(1980)年、英国王室薬剤師会名誉会員。昭和57(1982)年、日本薬剤師会名誉会員で顧問となる。昭和60(1985)年、日中医学協会理事長。昭和63(1988)年、青森市名誉市民。平成元(1989)年、日本薬剤師研修センター会長。石館商事株式会社取締役名誉会長。タイ王国王冠勲章受賞。平成3(1991)年、中華人民共和国衛生奨を受賞。大韓民国の国民勲章・牡丹章受賞。平成6(1994)年、アジア薬剤師連合会・特別功労賞を受賞。平成8(1996)年7月18日、東京都杉並区高円寺の自宅にて95才で死去。彼はハンセン氏病の治療薬プロミンを国産化したり、制ガン剤のナイトロミンを創製したりして、上述のように数々の栄誉を受けたと言う。

南方熊楠(1927)のリストでは石館守一がStemonitis confluens(青森市外)、Stemonitis uvifera(同)、Lamproderma echinulatum(八甲田山)、Enteridium olivaceum(青森市外)の四種を日本で初めて採集したことになっている。しかし、原摂祐(1941)のリストでは石館守三がPhysarum columbinum var. umbilicatum Minakata & Ishidate(青森県)、Leocarpus fragilis(陸奥大葛温泉)、Stemonitis confluens(青森市外)、Stemonitis uvifera(同、石館宇三郎と誤記)、Lamproderma echinulatum(陸中八甲田山、石館宇三と誤記)、Enteridium olivaceum(青森市外)を初採集したとなっている。長尾チエ(1955)の論文では八甲田山でLamproderma echinulatumを採集した人物は石館守三となっている。

石館(1981)は東京青森県人会の機関誌『東京と青森』に次のように書いているという。「人はみな自分のふるさとを携えてこの世に来る。人はその与えられた環境によって育つ。与えられたものをいかに受けとめ、それを自分の成長の糧にするかは、その人の器量と選択にかかる。おのれの道をひとりで歩いてきたのではなく、多くの人々の犠牲と恩恵によって今日あるを知る。古里の山河はその揺籃の母である。海や河に魚を追い、春にはわらびを採り、夏にはほたる、秋にはぶどうときのこ狩りに歩いた山野。永い冬には雪と氷に戯れ、厳しい自然との戦いと交わりがある。そこに北の国の人を育てた厳しい父がいる。夜な夜なのいろりの語らいの中に美しい人生の芽生いがある。吹雪の戸を敲く声に、荒海の浪の音に歌がある。津軽三味線の哀調は心の琴線に深くこだまする。孤高を誇る岩木の山よ。みちのくの歴史を秘める八甲田の峰と十和田の湖よ。そこに<あすなろ>の文化が育つ。」

伊藤誠哉 (Ito Seiya, 1883-1962)

[変形菌に関する業績] 変形菌を採集し、南方熊楠や小畔四郎の研究を援助した。原摂祐(1941)によれば、日本でのミダレクモノスホコリの初採集は伊藤誠哉によるものとなっている。
[略歴] 明治16(1883)年8月、新潟市に生まれる。新潟中学校、札幌農学校予修科を終了して、明治41(1908)年、東北帝国大学農科大学農学科卒業。同年、宮部金吾教授の助手となる。明治42(1909)年には助教授となった。その頃に木原均が生徒として在籍していたという(註1)。1909年、日本産のイネ科植物に寄生するサビ菌について論文をまとめた。1915年ウドンコ菌の新属Typhulochaeta Ito & Haraを記載した。大正5〜6(1916〜1917)年には赤星病菌について論文を発表。大正7(1918)年、北海道帝国大学農学部教授。大正8年農学博士となる。大正10年から二年間はアメリカ合衆国、ドイツ、イギリス、フランスに留学。大正11(1922)年に日本産のサビ菌のUromyces類などをまとめた。昭和10年、「水稲主要病害第一次発生とその総合防除法」で日本農学会賞受賞。昭和16年、北海道帝国大学農学部長。昭和18-19年度日本植物病理学会々長。昭和20年、北海道帝国大学総長。昭和25年には日本学士院会員となり、同大学を退官して名誉教授となる。昭和34年、文化功労者に選定される。昭和37(1962)年11月逝去。著書に高名な大著『日本菌類誌』などがある。なお、のちに『日本菌類誌』を引き継いだ大谷吉雄は伊藤誠哉の女婿であるという。

木原均(1988)は次のような話を書いている。「伊藤先生について思い出すのは、先生が学生のとき、英語と国語の先生の排斥運動をされたことである。国語の先生の家に、学生の弾劾文を持って行ったら、読んで即座に、<わかったよ、よく書けている。明日から学校へは行かぬ>と言って、それきりその先生は学校を退いた。もう一人は英語の先生で、排斥を受けたら渡米してしまった由。」

江本・長尾(1960)は「東京大学北海道演習林に産する変形菌類」で次のように書いている。「北海道における変形菌類の採集は、伊藤誠哉・小畔四郎氏等によって行なわれており、南方熊楠・原摂祐氏によって記録されている。」

伊藤春夫 (Ito Haruo, 1910-?)

[変形菌に関する業績] 群馬県や兵庫県産の変形菌を採集して報告した。昭和9年には昭和天皇に変形菌についてご説明し、標本を献上した。
[略歴] 本籍は千葉県海上郡三川村上宿で、明治43年4月5日に生まれる。昭和3年旭農学校(現、千葉県立旭農業高等学校)を特待生で卒業し、宇都宮高等農林学校(現、宇都宮大学)へ入学。昭和6年、同校を卒業して朝鮮の公立実業学校に勤務する。昭和8年より群馬県立勢多農林学校に勤務。昭和9年には小畔四郎らの指導を受けて、「群馬県産変形菌目録」を発表し、同年には昭和天皇の御前で変形菌の説明をして標本を献上した(註1、2)。昭和13年より兵庫県立農学校(現、兵庫県立農業高等学校)に勤務。昭和19年から兵庫県青年師範学校に奉職し(註3)、のち大学改組に伴い神戸大学教授となる。その後、同大学名誉教授、神戸女子大学教授、学校法人須磨学園理事・評議員などをつとめた(註4)。没年不詳。筆者らが会った折に話されたところでは、オロナインH軟膏のHは春夫の意味だと言うことであった。

伊藤(1934)は「群馬県産粘菌目録」の中で次のように書いている。「昭和九年六月より九月の四ケ月間、群馬県下(前橋市郊外、勢多郡、吾妻郡、利根郡)において著者の採集せる粘菌八百余を検定の結果、二十三属・七十五種・二十一変種(異態を含む)総計九十六種を得たり。このほかに新種ならびに新変種の疑あるもの数種ありて目下調査研究中なり。・・・本目録を草するに当り、本校(群馬県立勢多農林学校)校長石田彰氏は著者に採集の機会を与え、調査研究にまた甚大なる援助を賜り、なお小畔四郎氏は標本鑑定の労を執られしのみならず、氏の貴重なる採集目録を貸与せられ、また菊池理一氏は採集その他に援助せらるること鮮かならず。因てここにこれら諸氏の懇切なるご垂教ご援助に対し、満腔の謝意を表するものなり。」

伊藤は昭和9(1934)年に、昭和天皇にご説明申し上げた時のことを次のように書いている。「私は丁度七番目にご説明申し上げましたので、ご説明奉仕の殿を承ったわけであります。ご巡覧の番の来るのをお待ち申し上げている間の私の心の中−−−それは到底筆舌で表現し得ない、全く純真無雑の境地であり、また真剣以外の何物でもなく、ひたすらにご説明の文句が幾度となく一瀉千里、脳裏を彷徨するのみでありました。そして極度の緊張に咽喉は妙に渇れ、背中には汗さえ覚えて身体のおののきを禁じ得なかったのであります。愈々陛下は粘菌標本の前までお進みになりお立ち停まり遊ばされました。金沢知事閣下まず、粘菌標本と私の姓名とを申して下さいましたので、私は陛下の御前に進み出て恭して最敬礼をしたる後、ご説明を始めたのであります。ご説明の要項を記してみますと、次のごとくであります。一、この粘菌標本は本年六月より九月までの四カ月間において、県下の中、主として勢多、吾妻、利根郡の各地において採集したる粘菌八百余を検定の結果、得たる二十三属九十六種および研究中のもの六種、また生態上興味ある標本などであること。二、この中研究中のもの六種については各特徴を申し上げ、新種または新変種の疑いあること、また基本種との比較について申し上げました。三、従来、本県の粘菌に関しては二、三の学者によって採集調査が行なわれたのであるが、未だ何らの学術的発表はなく、従って本目録は本県最初の記録であること、しかも本目録には著者採集品の外、従来採集せる小畔、菊池、上松氏などの採集目録(未発表、同氏らの好意により貸与せらる)を付録としたこと、これによって県下における粘菌の種類および発生分布の概要が明らかにされたこと。四、本県は地理的、地勢上より観て、山岳多く、殊に利根、吾妻両郡のごときは原始林的地帯ありて、粘菌の発生に好適であるばかりでなく、起伏変化に富む所多きによりてか、異態を呈するものが少なくないのである。水上、湯桧曽、藤原などの上越国境地方に特異態を呈するものなど多く産し、研究上なかなか興味が多いと考えられる。今後の研究調査によって、幾多の興味ある事実が発見されることと多大の期待をかけている等。この間、陛下におかせられては、ずっと標本箱の方にご上体をお傾げになって、一々私の指さす標品にお目を向け、いと審らかにご観察遊ばされまして、私の拙きご説明にお耳を傾けさせられて、言葉の句切れごとには、一々<ウン>とか<ソウカ>と仰せられお頷きになり、ご得心のご様子を拝したのであります。ご説明の際、標本の配列はこれを英国のリスター氏の分類式に従って行なった旨申し上げましたとき、陛下には特に玉体を私の方にお向き直り遊ばされて、龍顔をお崩しあらせられたのであります。これはリスター氏のことがお耳に触れて、ことのほか懐かしく思召されたためと恐察致したのであります。このリスターと申すは英国における世界的の粘菌学者でありまして、畏くも陛下ご採集粘菌の中で、いくつかの新種や本邦最初の種などがリスター氏の鑑定を経て決定、学会に発表されたることなどもありますので、陛下はリスター氏のことはご存じなのであります。陛下は自然科学にご興味深く渡らせられ、生物学、特に粘菌についてご造詣深きことは、専門の学者が斉しく敬服致しているところでありまして、実に畏き極みでございます。陛下が粘菌のご研究を始められましたるは大正十四年頃からでありまして、現在までに陛下ご発見の新種は実に十数種の多きに達し、学界に多くの貴重なるご寄与を遊ばされております。このようにご造詣深き至尊陛下の呎尺に侍して、白面の一書生に過ぎぬ私がご説明申し上げるのでありますから、ご下問を賜ったときはどのように致そうか?と言葉遣いも弁えぬ私の心配は一方ではなかったのであります。しかし、幸いにも無事以上のごときご説明を申し上げ、安堵の胸を撫でおろしたのであります。」

伊藤は昭和23(1948)年に菊池理一宛の手紙で次のように書いている。「私、昭和十九年から兵庫青年師範学校に転任し、育種学と病理学、蔬菜園芸学の講義を担当しております。なお、実験農場三町五反ありますので、その方の仕事もやっております。小畔四郎先生には戦前に数回お会いしておりますが、終戦後は全くご無音のまま失礼しております。そのうちにぜひお訪ねしてみたいと念願しています。京都大学には香川先生がおられますので、月に一、二度はお邪魔しております。先生とご一緒に和紙研究の方面をやっています。香川先生も拙宅には時折ご来遊下さいます。繊維植物の品種改良、糊麻の研究などに従事しているわけです。粘菌の方はサッパリ不勉強で汗顔の至りです。昭和十七年以来視力障害で、眼の酷使を極度に制限されましたことと、戦時中およびその後も食料増産関係で公私ともに多忙に取り紛れ、なかなか機会が得られません。なお標本も過般の水害で全部駄目にしてしまいました。返す返すも残念至極です。貴殿には最近粘菌ご研究に好適の境遇と環境に恵まれたる由、何よりとお悦び申します。中川(九一)兄も近くにお勤めのこととて、今後何かとご連絡の上ご研究に好都合のことと思います。今後微細気象と粘菌との関係について種々ご研究をお進めになられる由、永年のご宿望を存分に満たされますこと、そしてご成功を祈っております。私も余暇を見て、及ばずながら採集致しますから、よろしくご指導お願い申します。」

伊藤(1952)は「園芸作物に寄生する変形菌」で次のように書いている。「我が国に於いては鶴田(1917)、中田(1922)、中村(1931、1933、1934、1948)、及び著者(1940)等の研究により20数種が報告されているに過ぎない。著者は1940年以来調査研究の結果、ここに新たに園芸作物に寄生する変形菌10属15種についてその寄生作物、加害状況及び菌の特徴を報告する。この報告をなすに当たり、種々御指導を賜った故南方熊楠氏及び故小畔四郎氏並びに終始ご鞭撻下された菊池理一氏に対して衷心より感謝致します。」

猪熊泰三 (Inokuma Taizo, 1904-1972)

[変形菌に関する業績] 東京大学秩父演習林で若干の変形菌を採集し、一部は江本義数によって発表された。
[略歴]  昭和3(1928)年、東京帝国大学農学部林科卒業。昭和10(1935)年、同大学農学部林科の助手となる。昭和11(1936)年、同大学林科助教授。昭和18(1943)年より同大学森林植物学教室教授。昭和40(1965)年、同大学を定年退職し、名誉教授となる。昭和47(1972)年9月1日死去。

江本義数(1957)は「東京大学秩父演習林に産する変形菌類」で次のように書いている。「この演習林に産する変形菌については未だ調査・採集の業績がないようである。またこの地方に産すると知られた種類も僅少である。即ち昭和10年に小熊精一氏が埼玉県産変形菌の目録に24種を記録し、その内に三峯山に於いてArcyria cinereaを報じているばかりである。本演習林に産する変形菌類を採集するために、秩父郡大滝村栃本にある演習林作業所を根拠として、昭和30年8月4-10日、更に翌31年7月1-7日の二回にわたって採集することが出来たのは誠に幸いなことであった。そして、森林植物学教室の猪熊泰三教授の採集された標本数個を合わせて176個を得たのである。」

1972年9月に発行された『林木の育種』には次のように書いてある。「本会(林木育種協会)顧問猪熊泰三氏には療養の甲斐もなく、9月1日ご永眠されました。同氏は長く本会理事とし、また顧問として、育種発展のためにご尽力下さいました。ことにポプラについては大きな足跡を残され、林木育種賞を受賞されたことは耳新しいことと存じます。今後なおわが育種界は先生のご指導に俟つところが多かったのですが、まことに残念なことです。ここに謹んで哀悼の意を表します。」

上松蓊 (Uematsu Shigeru, 1875-1958)

[変形菌に関する業績] 小畔四郎らとともに変形菌を採集し、南方熊楠の変形菌の研究や生活上の援助をした。彼の採集品にはときに南方らと連名で著者名が記されているが、全て裸名であって、正式に発表されたものはない。
[略歴] 新潟県長岡出身で、小畔四郎と同郷で同年齢、また少年時代からの親友であったと言われる。立教大学卒業後、古河鉱業に勤務。その間の明治45(1912)年頃に、小畔が南方熊楠から上質の雲母を求められて探しあぐねた末、上松に相談したところ、上松はかねて敬慕している南方先生のお役に立つならと、雲母を買って費用を小畔と折半して贈呈したのが南方との交際の始まりだと言われる。四十才前に古河鉱業の下関支店長で退職し、東京で製紙業などで自営したと伝えられる。大正11(1922)年には南方が上京の際、南方、平沼大三郎、六鵜保らと一緒に日光の変形菌を採集した。大正15(1926)年の小畔らによる摂政宮への変形菌標本献上に際してはその邦字表啓文を上松が書いた。昭和3(1928)年、平沼大三郎と一緒に南方家を訪問し、平沼が帰宅したのち南方と一緒に川又官林と妹尾官林の変形菌を調査した。香道の研究家で、書道にも優れていたと言わる。

南方熊楠は昭和6年1月6日付の大江喜一郎宛書簡で、上松について次のように書いている。「上松氏も多能の人ながら、先年震災以後とんと運が向かず、ぶらぶら致し居り、昨年九月より十月末まで、上州上利根郡より下野足尾奥の深山を経て、岩代国尾瀬沼へゆき候て採集し居る四、五間さきを、大きな熊が悠々と歩みし由、其所で世界中に類例なき珍しき粘菌を発見致され候。これは発表後大評判となる事と楽しみ居り候。」

南方熊楠は昭和6年2月23日の上松宛書簡で次のように書いている。「リスター女史より昨日午後3時15分に来信あり。小生は順序を追うて事を行なう規則で、只今かかりおることをすませたる上、女史の状を見るつもりなり。故に何をいうてきたかさらに分からねど、本状は必ず早晩来たるべしとまちおりたるもので、近来怪しき連中がややもすれば粘菌粘菌新種新種と、何とも分からぬ落第点に近い記載文を出し、図を出さぬ等のこと多きより、どうせ小生へ聞き合わさねば判断付かず、何とも査定のしかたなきよりの来信と存じ候。これが来たれるは発表を開始すべき絶好の機会なるにより、三、四日内にいよいよ始むるつもりに御座候。まず誰が見ても判然新種として一点の疑いなきもの、すなわち貴下と小生とにないもちのCribraria gratiosissima Minkata & Uematsuより始むることに候。」

上松は平野威馬雄(1944)の『博物学者・南方熊楠の生涯』の序文の中で次のように書いている。「傲岸なる欧米人を屈服さすには、学術をもってせねばならぬとは、常に吾々を戒められた(南方)先生の言葉である。もちろんそれは平和時代の事に属する。今や大東亜聖戦のまっただ中、皇軍の武威をもってそのことは成し遂げられている。世紀を背負う中堅級の読者諸君、諸君は南方先生が愛誦、かつ実践せられた東海散士の言<一尺の我威を国内に振るうよりは、一寸の権を海外に振るえ>を咀嚼吟味して、大東亜の盟主たる大日本の臣民たるべく如何なる方面にも琢磨錬成せられんことをこいねごうてやまぬ。けだし著者の狙いもソコにあろう。」

宇野確雄(Uno Kakuo, 1895-1984)

[変形菌に関する業績] 南方熊楠と交際し、贈られた変形菌標本を保存し、のちに倉敷市に寄贈した。標本は倉敷市立自然史博物館に保存されている。
[略歴] 明治28年、岡山県倉敷市浅原に生まれる。大正4年、岡山師範学校卒業。その後岡山県内の小学校の訓導を歴任する。大正8年、文検(植物科)に合格。大正9年、和歌山県立海草中学校教諭となる。同年8月には南方熊楠、小畔四郎、川島友吉(草堂)らと一緒に高野山に行き、植物採集をする。大正10年、文検(動物、生理衛生科)に合格。その後、神戸や京都などの中学校の教諭として勤務する。昭和17年、神戸高等商業学校助教授。昭和20年倉敷に帰り、旧制倉敷中学校教諭となる。昭和24年、倉敷青陵高等学校教諭。昭和28年、ノートルダム清心女子大学講師。昭和40年、同大学の職を辞す。昭和53年、倉敷市に約五万点の植物標本を寄贈する。同年、倉敷市文化賞を受賞。昭和59年死去。

狩山俊悟(1987)は「宇野植物コレクション」の中で次のように書いている。「大阪府泉南郡犬鳴山では、ササの新種を発見し、牧野富太郎氏によってカンサイザサの和名とともにSasa unoi Makinoの学名が発表されている。宇野氏が最も活発な採集を行なった時期は、大正11年に神戸に移ってから終戦直前に倉敷に帰るまでである。・・・代表的な採集旅行は、昭和9年(1934)の台湾、昭和11年(1936)の北海道、昭和12年(1937)の樺太南部、昭和13年(1938)の朝鮮南部である。また昭和11年以降数度にわたりアメリカのハーバード大学から資金援助を受け、採集旅行に必要な経費として利用している。さらに、この期間はアメリカの著名な研究者と多数の標本を交換した時期でもある。」

榎本宇三郎(Enomoto Usaburo, 1875-1944)

[変形菌に関する業績] 和歌山県で変形菌やその他の菌類を採集して南方熊楠の研究を援助した。
[略歴] 1875(明治8)年、和歌山県田辺町栄町(現、田辺市)に生まれた。旧姓は玉置氏で、榎本家の婿養子となって新庄村(現、田辺市)で木炭業を商売とした。同村の村長を明治41年から大正9年までと、昭和7年から1年間勤めた。明治の末頃、田辺湾の神島の樹林を南方の主張にしたがって保存したと言われる。1944(昭和19)年、69歳で死去した。榎本幸治は彼の長男で、父親同様に変形菌などを採集して南方の研究を援助したと言う。

南方熊楠は1929年10月17日付けの榎本宇三郎宛の書簡に次のように書いている。「今日神島タチバナの木の辺にて御採集の紫色の粘菌は、従前世界中に前例なき物にこれあり。・・・この粘菌はアルクリア・カンナメイ(かんなめ祭のアルクリア、これはこの粘菌の属名)と命名し、昭和4年神嘗祭日、榎本宇三郎発見、南方熊楠命名、として世界中へ伝え申すべく候。・・・小畔氏が島にて見しときは標本ぬれており、何でもなき平凡のものと思い帰りしが、拙宅でみると乾きおり、初めて珍物とわかり申し候。」

南方熊楠は1929年10月19日付けの大江喜一郎宛書簡で次のように記述している。「去る十二日夜十時半小畔氏来田(田辺のこと)、拙宅に泊り、十三日朝より小畔氏岩田村大字岡にゆき採集、雨多かりしため粘菌多くは流失して、珍品とてはただ一つ下三栖村にてペリケーナ・コールチカリス・アッフィニスというを見出だし候。・・・十七日には朝7時過ぎ小畔氏一人拙宅を出で新庄にゆき、村長・・・等と神島にゆき採集、やはり粘菌は雨のため少なかりしも、最も新米の榎本氏が新種一つ発見、小生昨夜取り調べていよいよ新種とわかり、神嘗祭の日の発見ゆえアルクリア・カンナメアナと命名致し候。近日図説ともども聖上へ献上のはずにござ候。」

南方熊楠は1929年10月24日付けの榎本宛書簡で次のように書いている。「標本は貴息御発見の趣き、貴息の御名を御一報願い上げ奉り候。聖上へ進献には、正確に発見者の名を書き上げざるべからず」

江本義数 (Emoto Yoshikadzu, 1892-1979)

[変形菌に関する業績] 最初は服部廣太郎の指導を受け、のち南方熊楠、小畔四郎、グリエルマ・リスターらと文通して研究を深め、90編ほどの変形菌に関する論文や本を発表した。彼が初記載して現在認められている変形菌は8分類群ほどある。また外国の変形菌調査や、海外の学者との標本の交換も行なった。戦後は日本における変形菌分類学の権威となった。彼の変形菌標本は大谷吉雄らの尽力で国立科学博物館に保存されている。
[略歴] 明治25(1892)年10月28日に東京本所荒井町に生まれる。学習院高等科卒業後、大正6(1917)年に東京帝国大学理科大学植物学科を卒業した。大学では三好学らに学んだと言われる。続いて大学院に進学したが、そこで服部廣太郎に植物園で採集した変形菌を示されたことなどが、変形菌研究の動機となったという(註1、2)。大学院卒業後は徳川生物学研究所々員となる。大正12(1923)年から昭和9(1934)年まで東京帝国大学理学部講師などとして勤めた。その間の大正15(1926)年から変形菌に関する論文を発表した(註3)。昭和4(1929)年には昭和天皇の採集品に基づいてアミクビナガホコリとミカドホネホコリを新分類群として記載した(註4)。昭和6(1931)年、マレー産とジャワ産変形菌について報告 (註5、6)。また、同年に昭和天皇の採集品を調査して新種ナスフクロホコリを発表した(註7)。昭和9(1934)年、「硫黄酸化細菌の生理」の研究で理学博士号を取得し、同年から学習院大学教授を勤めた。その間の昭和10(1935)年に行われた昭和天皇の南九州行幸の折には、宮崎県産変形菌を高等女学校や中学校の教員らと共に採集して標本を献上した。その際の参加者は、阿部本生、安藤秀一、伊福三雄、小山田定敬、加藤富司雄、桐山英利、木村益水、小林年行、佐保護、鮫島頴、島田弘、立野良一、鷹野周道、外山定美、中島魁、則松菊彌、浜田昌人、藤田正信、藤本亨、古家幸元、吉田義江、渡辺清一らである(註8、9、10)。昭和33(1958)年、学習院大学を退官後は学習院女子短期大学教授、国士館大学教授、国立文化財研究所調査研究員などを勤め、日本植物学会特別会員、日本温泉科学会名誉会員に推薦され、昭和46(1971)年には日本菌学会名誉会員となった。昭和52(1977)年、戦前に描かれていた図が『The Myxomycetes of Japan』として出版された(註11、12、13)。昭和54(1979)年5月18日に86才で死去した。彼は温泉生物や文化財に生じるカビなどについても研究したが、一般には変形菌の研究が最もよく知られている。

江本(1977)は次のような回想録を残している。「大学院にはいって、暫くすると服部広太郎先生が変形菌を植物園内で採集されて、私に示された。これが私にとって最初のもので、教室には微生物の図書が少なく、先生はリスターという人の本があるそうだとの事で、全く困った。その内に書名も判り、早速英国に注文して『A Monograph of the Mycetozoa』を入手することが出来たが、なかなか取りつくのに苦心した。220以上の着色図があり、図版はなかなか難解であったが、どうやらこなすことが出来ると、日本で南方熊楠・小畔四郎両氏がおられることが判り、他方G. Lister女史の住所も判明して、標本を送ったり、ご意見を承ったりしてどうにか目が開くようになり、他方東北帝大に招かれたH. Molisch教授に師事した際に変形体の流動を指導されて、その運動を興味深く観察、ますますこの菌類にみいられ、また同教授も日本では研究されておらぬからぜひ研究せよといわれてその決心をしたのである。」

江本(1972)は「思い出(10)」の中で次のように述べている。「私の変形菌研究の発端は東京大学理学部大学院時代にさかのぼる。小石川植物園内、続いて上野公園での採集であった。この時には参考書も知らず、誠に困りぬいたもので、めくら滅法、四苦八苦したが、その内にListerのMonographがあることが判り、やっとこれを入手することが出来て、次第に活動することを得たわけ、それでも、南方熊楠、小畔四郎両氏と、他方英国のG. Lister女史とも連絡を取って、次第に目があくようになったのである。・・・日光で忘れ得ない印象は前白根登山道の途中の白根沢で、紫色の胞子嚢の集落を発見したことで、早速採集した。どうもPhysarum newtoniらしい、小畔四郎氏と相談したが、南方氏に確かめて貰うことになり、やはり同種であると決まった。早速同種の命名者である米国のMacbride教授に通知したところ、御返事があり、<これまで何処からも発見の知らせがない>、と喜んで頂いた、そして<自分はもはや老いた、若い君は大いに研究して呉れ>と激励された。・・・また那須御料林にも温泉植物と共に変形菌採集をなし得た。・・・この地域は陛下が御採集なさるので御遠慮申し上げた。ただ御用掛服部広太郎氏からお話があったので、参考に赴いたのである。・・・北海道での採集は・・・暑中休暇を利用して二回、長尾(チエ)助手を同道、函館の大淵亮三氏に迎えられ、・・・山部村に着いた。・・・私は1959年にお許しを得て数回にわたって、(生物学御研究所の)標本全部を拝見、また日本産として初めての種を拝借、写生させていただくことができて誠に有難い仕儀であった。」

南方熊楠は大正15(1926)年10月10日付の上松蓊に宛てた手紙で江本について次のように書いている。「先日(註:小畔四郎)が、江本という男に標本を見せしと聞きてより、甚だ気分面白からず。未発表の品を人に見するは大禁物にて、diagnosis(判決点)をつかまれては何ともならぬものにて、これより色々と大口舌を生じ、発見者、創立者かえって模倣者の位置に押し下さるること多きものにござ候。」

江本(1929)は「新しき変形菌に就て」の中で新変種アミクビナガホコリと新種ミカドホネホコリを記載した際に次のように書いている。余はさきに本誌に<本邦において新たに知られたる変形菌について>と題して記述したるが、近時宮城内の生物学御研究室御所蔵の変形菌標本十数個を借覧して、その内に未だかつて記載せられておらぬ品種および変種と認めらるるものがあるを知った。しかしてこれらをここに発表することができるのは、余の最も光栄とするところである。・・・擱筆するに当り、上文に記載せる変形菌の鏡検について便宜を与えられたる、宮内省御用掛服部広太郎博士、ならびに大原農業研究所所蔵のWingateの論文を閲覧することのために斡旋の労を執られたる、同研究所の西門義一博士に謝意を表す。」

グリエルマ・リスター(1931)は「マレー産粘菌ノート」の中で次のように書いている(原文英語)。「江本博士はご親切に<マレー産粘菌>と題した論文の原稿を読むことを許して下さった。その論文の中で1929年の夏、シンガポールとマレー半島で滞在した四週間の内に、彼と友人が採集した43種のリストを掲載している。彼はサンダーソン氏から送られた論文<マレー産粘菌覚書>と、論文発表後にペタリング付近でサンダーソン氏が発見した9種のことにも言及している。サンダーソン氏は、以前観察した若干の粘菌の習性についてフィールド・ノートを送って下さった。その中に更に4種(ウルワシモジホコリ、アカフクロホコリ、ワガタカタホコリ、マルヒモホコリ)のマレー新産種が含まれていた。以下は彼のノートからの引用である。江本博士はこの引用には反対しないと思っている。それは私どもが採集の際には、殆ど見ることができないものです。」

江本(1931)は「ジャワ産粘菌」で次のように書いている。「同時にアワホネホコリとナバカタホコリの同定に関し、親切な援助を頂いたG・リスター嬢にも感謝する。」

江本(1931)は「二三の変形菌に就て」で、ナスフクロホコリ(新種)とアミクビナガホコリとオオギミヌカホコリについて次のように書いている。「昨秋、余は宮城内生物学御研究室御所蔵の変形菌標本数個を借覧したが、其中に<Physarum lateritium類似、疑問品>とした一種があった。其れは未だ嘗て記載せられて居らぬ品種と認められるものであったが、其標本には完全に成熟を遂げたと思われる胞子嚢が極めて少数であった。然るに今回再び本年八月の新御採集にして完全に発生を遂げた標本数個を借覧し、之を基礎として昨年の考えを確定することを得たので、ここにこれを発表することとした。・・・次に<Clastoderma debaryanum var. imperatoria(?)>と記入ある本年八月那須所採の一標本をも借覧したが,之は一昨年三月余が本誌に新変種imperatoriaとして発表した者と正に同一の者であった。余が此変種を発表した当時、英国のG. Lister女史は、書信の序に此変種の特徴とする細毛体先端の小板にある網目は、果して常に存在するか否かと疑を抱かれたことがあったが、之も此度借覧した豊富の材料によって、該変種には常に此特徴を有する事を精確にする事を得たのである。即ち蘚上に夥しく発生した胞子嚢(1平方粍に就き5-7個あり)から総計163個を取って検鏡したが、此中網目の明瞭なものは105個、稍不明瞭なものは43個、網目なしと認めたものは15個であった。此結果から、網目の稍不明瞭なもの及び之を欠くものは、恐らく発生期の状態如何に因て生ずるものと考えるのが至当であらう。尚一昨年、G. Lister女史が記載したHemitrichia imperialisに関して少しく述べようと思う。此種は初めて赤坂離宮御内苑にて採集せられたのであるが、昨年10月、柳原正氏が之を札幌市で採集した。何れの場合に於ても未だ其変形体に就ての記載が無かったのであるが、余は本年10月栃木県日光に於て、幸にも此種の変形体を得、其色は乳白色である事を知り得た。」

南方熊楠は、1935年11月23日付けの上松蓊宛書簡で、次のように書いている。「小畔氏が多年同人発見の粘菌を、さしたる事もなき輩が色々といいちらし、・・・毛の縮んだのも新人種、足の趾のそったも新人種として一々命名するような事多く、既に今度の鹿児島県進献の目録にも既に其輩(註:江本のこと)が発表した以上は丸で知らぬ顔で通すも異な物故、そんなものを二点迄(小畔は不認ながら)載せ居り候。」

江本(1977)はこの時のことを「思い出」の中に次のように書いている。「当時(1935年)秋季特別大演習が宮崎、鹿児島両県に行われ、陛下は変形菌を熱心に研究遊ばされていたので宮崎県下に出向、宮崎駅で出迎いを受け、翌朝小、中、高校教員諸君に一応変形菌一般の話をしてから出発、・・・皆々見当がつかず困っていたようだ。・・・多数の標本を送付されて種の同定に一カ月の日限りで送り返さねばならず、ずいぶん忙しく面食らった。」

江本(1936)は「宮崎県産変形菌(其一)」で次のように書いている。「九州宮崎県に産する変形菌については、未だ学会に報告せられたものが全くなく、如何なる種が産するかは甚だ興味あるところである。しかるところ昨年秋に宮崎、鹿児島両県下にわたって特別大演習が挙行せられ、聖上陛下親しく両県下に行幸遊ばさるるに際して、宮崎県当局が同県下に産する変形菌の調査を行われたが、筆者も招かれてこの事業に関係し、幸いに各地において採集、かつ研究するの機会を与えられたのである。・・・かくの如くにして県下五十個所以上において採集された材料は二千個以上に達し、これらを検査した結果、十一科、二十五属、九十二種、二十変種を得たのである。しかしてこの内二種および一変種は未だ記載せられなかったものであり(Diachea miyazakiensis、Diderma concavumおよびLindbladia effusa var. cribrarioides)、また二種は本邦産として学会に未だ報告されておらぬものである(Physarum aeneum、Fuligo muscorum)。なおここに報告せんとする変形菌は前述のように、甚だ短期間の採集に止まるのであるが、今後継続して採集したならば、その結果は大いに期待すべきものがあると信ぜられるので、この点採集者各位に採集を続行せられるよう切に希望する次第である。」

江本(1973)は「思い出(12)」の文中で、図譜『The Myxomycetes of Japan』のことについて、次のように書いている。「念願の図譜もようやく印刷にかかるようになった。思えば長年月が経過してしまった。服部、Molisch教授から研究を勧められてから半世紀以上である。よくも体がもったものとつくづく感じる次第。顧みると日光、富士山、木曽の森林を始め、北海道の原始林、山では日光男体山、北海道大雪山黒岳、宮崎県双石山など、さらに小笠原島などを採集することができたのは幸せで、他方ジャワ・クラカトア島やマレー半島で、虎におびやかされながらのAlwisia bombardaを発見した時の嬉しさは格別で忘れられない。さて日本産変形菌図譜について、ことの経緯を記さねばならない。余程以前からこの類を研究するには、色彩図でなければと決心した。しかし第一に画師の問題であった。幸いに標本画家として第一人者であった佐久間文吾画伯を得たのである。・・・私は畏友三井高遂氏を介して三井高公(現八郎右衛門)氏の援助を受けて仕事に着手した。・・・佐久間画伯が推薦していた高弟、坂本貫一(池田)画伯によって継承、昭和17年に124枚を完成、あたかも大日本植物誌第八冊出版の縁を以て三省堂から出版しようとしたが、戦争激化のために原図原稿が返却され、丁度学習院図書館から貴重図書を疎開する機会に、土浦に運搬、写生図、原稿は戦火から免がれ得た。・・・昭和25年秋には写生図を天皇陛下に御覧に入れ、約一ケ月後に御研究室で拝謁して種々御下問があった。・・・昭和40年東大農学部応用微生物研究所の飯塚広君の胆入りで、産業図書株式会社が動き、・・・ついに同社が単独引き受けて出版することになり、これでやっと軌道に乗ったのである。この間生物学御研究所から二標本の借用をお許し下さって、太田洋愛画伯が写生した。・・・この間昭和44年12月皇太子殿下御誕辰祝賀パーティーの節、殿下から<本はどうしましたか>と御下問があって全く驚いたのである。・・・昭和46年に叙勲があり、翌年5月両陛下御主催の園遊会に御招待あり、赤坂離宮内苑で島式部長官の御先導、長官の言葉で私の前にお立ちになり、<本はどうなったか>と御言葉を頂いた。それで当時の状態を言上、<それはよい>と仰せられ、続いて皇太子殿下も<久し振りです。本はどうなりましたか>、・・・重ね重ねの光栄、天気も上々で全く晴々しい幸運の日を送らせて頂いた。」

江本は昭和52年10月5日付けの、筆者宛の手紙で次のように書いている。「拝呈、大変御無沙汰しております。ますます御勇健に御精励のこととお喜び申し上げます。やっと図譜も出版でき、重荷をおろしました。先般宮城内生物学御研究所の御研究室で、天皇陛下に拝謁、献上致し、皇太子、常陸宮両殿下にも献上、東宮御所にお召しあり、お祝詞、夕食を賜り、誠に幸いの一夕を過ごし得ました。見本刷りをお送り致します。またこの頃書きました拙文別刷と目録(これらは家が狭く収容しきれず、科博分館(新宿)に、標本は筑波の研究室に贈りました。御参考になれば幸甚です。できれば高校で一本を願いたくお願い申し上げます。匆々。)

昭和52年10月23日付け高知新聞に「老学究60年の成果出版−−陰に匿名高校生の励まし−−病床で<お礼を>−−」と題して江本の図譜に関する記事が掲載されている。「江本教授が戦前から地味な研究を苦しい経済事情のなかで続けていることを新聞で知った一高校生が<出版の一助に>と広島・糸崎局の消印(三十四年八月十一日付)で五百円を匿名で送ってきたのは十八年前のことだった。ロックフェラー財団にも断わられ、失意のどん底にあった江本教授にとって、この激励は骨身にしみてうれしかったという。<三十五、六歳の社会人となられているだろう。ようやく念願が果たせたことを報告し、感謝をこめてその方に一冊贈呈したい。そうしなければ死に切れない。ぜひ名乗り出ていただきたい>と、病床に身を横たえながら老学究は祈るようなまなざしで返事を待っている。・・・"同学の士"である天皇陛下は五月二十三日、皇居内の生物学研究所に江本教授を招いてその完成を祝われ、皇太子、常陸宮ご兄弟も七月八日東宮御所に同教授、飯塚教授らを招いて労をねぎらわれた。」

遠藤吉三郎 (Yendo Kichisaburo, 1874-1921)

[変形菌に関する業績] リスター父子によって1906年に『英国植物学雑誌』に発表された論文を日本の『植物学雑誌』に、「リスター氏〈日本産粘菌類〉」として紹介した(註1)。この際、変形菌に対して「粘菌」という訳語を創案して使用した。
[略歴] 越後で明治9(1874)年8月30日に生まれた。のち仙台の第二高等学校で学び、明治33(1898)年に東京帝国大学理科大学に入学した。明治34(1901)年に日本産の有節サンゴモ類を卒業論文として同大学を卒業し、同年カナダのバンクーバーに海藻を研究に行き、1903年にはシムシル(占守)島で三カ月調査したという。1907年には札幌農科大学付属水産専門部(のち北海道帝国大学)の海産植物学の教授となった。翌年には理学博士の学位を授与された。1912年から二年間は欧州のノルウェーなどに留学して研究を行なった。その後は同校を大正8(1919)年に病気のために退官するまで教授を勤めた。大正10(1921)年3月14日、46歳で病死した。彼はスポーツ万能で、特に水泳は得意であったので、海藻の研究には役に立ったという。

遠藤(1906)は「リスター氏<日本産粘菌類>」で次のように書いている。「日本産粘菌類はかつて三好教授が、マーシャル、ワルド氏に送致したる十八種の標本につき研究せられしことあり。その種名は本誌第二百十一号にあり。今回南方熊楠氏が紀州において採収したる二十九種を再び著者の手によりて調査せられし結果、九種は三好教授の送品中にあるものと同種に属し、二十種は新発見に係るものとす。ゆえに日本産粘菌類の総数は三十八種となる。ただし今回の送品中にも新種と目すべきものなけれども稀なるものは即ちこれあり。今増加したる種名を挙ぐること左の如し。」

大江喜一郎 (Ooe Kiichiro, 1881-1948)

[変形菌に関する業績] 勤務先などの各地で変形菌を採集して南方熊楠に送り、その研究を援助した(註1、2、3、4)。
[略歴] 明治14(1881)年、和歌山県西牟婁郡二川村(現中辺路町)に生まれる。明治37(1904)年、補習学校卒業後、和歌山県巡査になり、のち二川村収入役となったという。大正5(1916)年から昭和20(1945)年まで、和歌山県田辺、岐阜県船津、福井県などの営林署に勤務したと言われる。昭和23年死去。

南方熊楠は昭和3年12月4日付の上松蓊宛の手紙で、次のように書いている。「大江氏眼力至って鋭く、かつ平沼氏より送られたるレンズを用い、多く(小生より多く)菌や粘菌を見いだされ候。・・・粘菌はおよそ三十種とりたるが、これは大江氏眼がよいばかりで何たる学識なきによる。小生自分捜したら必ず六、七十種は集むべしと存じ候。どこにもあるという訳に参らず、風と光線の影響によると見え、多種ある処は定まりおり、なき所にはいかに捜すも一種もなきことに候。」

南方熊楠は昭和4年12月31日付の上松蓊宛の手紙で次のように述べている。「飛騨にある大江喜一郎氏より粘菌到着、今日夜あけてその鏡検にかかると、その内の一つが新種らしきゆえ、また二、三日もそれにばかりかかるかもしれず、平沼(大三郎)氏へちょっと手紙を差し上ぐることならぬやもしれず。」

南方熊楠は昭和5年4月15日付の大江宛書簡で次のように書いている。「粘菌集まらば、何卒お送り下されたく候。春の氷雪とけぎわの粘菌は当県などでは手に入らぬもの多く候。」

南方熊楠は昭和6年1月6日付の大江宛書簡で次のように書いている。「貴下、妹尾と飛騨にて御発見のものが六種ばかりこれ有り候。ほかに既に世に知れ居るものながら貴集の標品ことのほか見事なるゆえ、今年進献するもの四品ほど、計十品はこれあり候。これらは既に小箱に装置し、名称、産地、年月日、大江喜一郎という姓名悉く神戸で活字にすらせ整頓しおわり、凡そ進献品は一切地方長官を経て差し上ぐべしとの一昨年よりの成規ながら、この粘菌の品彙だけは小畔(四郎)首勲者なるをもって同氏より侍従官の手を経て進献のはずにて、その節、小畔自身宮城まで持参のはずに御座候。」

緒方正資 (Ogata Masasuke, 1833-1944)

[変形菌に関する業績] 小笠原諸島や台湾などで変形菌を採集し、一部の標本が朝比奈泰彦らを介して昭和天皇に献上された。
[略歴] 明治16(1883)年、熊本県で生まれる。九州薬学専門学校(のちの熊本薬学専門学校)を卒業。東京帝国大学医学部薬学科の朝比奈泰彦教授の介補となる(註1)。昭和3(1928)年から15(1940)年にかけて精密な『日本羊歯類図集』を刊行した(註2)。

根本(1966)は、緒方と朝比奈泰彦との地衣類の採集品などについて次のような記録を残している。「ヘラゴケ(学名略)。大正十四年六月、同年卒業の岡見清二氏、石館守三氏らの学生と、介補の緒方正資氏と一緒に、秩父三峰山に採集旅行した際、岡見氏が山中で発見したものである。・・・ヤイトゴケ(学名略)。大正十四年(1925)の暮から正月にかけて、当時助手であった石館氏や緒方氏を同伴して、台湾遠征の折り、十二月二十六日、標高九千尺の阿里山の頂上を極め、大得意の(朝比奈)先生は、図らずも路傍の粘土中に本地衣の群落を発見して、<日本最初の発見!>と大驚びで、思う存分採集された。・・・Phylliscum japonicum A. Zahlbr.本品は大正十五年五月十六日、緒方正資氏が丹波国大山村で初めて採集したもので、これは正真正銘、フィリスクウム属の日本産一号の折紙付である。」

緒方(1928)は『日本羊歯類図集』第一輯の巻頭の牧野富太郎と朝比奈泰彦の序文に続く「著者序言」の中で、次のように書いている。「余は余の浅学非才を顧みず、このたび『日本羊歯類図集』を著わしてこれを世に問うこととなったが、これは余が羊歯類研究の本来の目的ではなかった。恩師朝比奈泰彦先生が<今日まで羊歯類で薬用に供せられているのは至って鮮ないから、手当り次第に羊歯の解剖をやってみたら、あるいは綿馬のような薬用になるものを別に発見するかもしれない。そしてまた君の趣味として、根茎などの構造によって分類でも試みたら、更に何か発明するところがないとも限らないから、やってみてはどうか>ということであった。早速先生のご意見に従って研究を続けていた。その研究した羊歯そのものについてはその形態を一々記載しておく必要がある。しかるに羊歯類は顕花植物と異なって、その外観が互いに酷似しているものが多いので、その各種間の区別を文字で書き表すことは頗る困難を感ずる。それで余は文字をもってそれらを記載する代わりに図をもってしようと企てた。これは画の素養なき余にとりては面倒でまたかなり困難なことであった。暑き夏間は墨が乾いて意の如く書けず、また始終採集に出かけるので忙しくて思うように筆が運ばず、今書いている数百種の写生図はおもに寒い冬の間、しかも夜なべ仕事に書いたものである。ある時、朝比奈先生が余の宅に来られて余の書いていた写生図を見られ、<こんなに書いているならこれを本にして出そう>と言われたのがそもそもこの図集を出版する動機となったのである。本研究をなすために余は北は北海道より南は四国、九州の諸山を跋渉し、また台湾に航すること数回、また琉球、小笠原諸島、八丈島に渡り、ほとんど全国にわたって絶えず採集旅行を試みた。そして自ら採集し得るに従ってこれを写生し解剖した。また集め来たった生植物はこれを培養して日常その生態の観察に勉めた。この研究をなすにあたり朝比奈先生は終始懇篤なる指導をされ、また溢るるごとき温情をもって絶えず励まされた。・・・次に大阪の武田長兵衛氏の義気ある援助を深く感謝せねばならぬ。・・・また余がこの羊歯の研究をなすにあたって常に熱心なるお世話と教示を与えられたる牧野(富太郎)先生に満腔の謝意を表するとともに、その描法の範を同先生著の『新撰日本植物図説』中の先生自ら描かれたる羊歯の写生図に取ったことをここに付言しておきたい。」

奥昌一郎 (Oku Shoichiro, 1898-1992)

[変形菌に関する業績] 昭和13(1938)年に「変形菌雑記」と題して岩手県産の変形菌を記録した(註1)。
[略歴] 本籍は岩手県二戸郡福岡町字五日町66番地。明治31年1月16日生まれ。大正4年、岩手県立福岡中学校卒業。大正5年、東京帝国大学農科大学農学実科入学。大正8年、同大学卒業。大正10年、二戸郡福岡実業補習学校教師。大正14年、福岡実科高等女学校教師や福岡尋常高等小学校代用教員などを勤めたのち、同年、岩手県立福岡中学校教諭。昭和19年、正七位となる。昭和20年、同校依願免職。以後、福岡高等学校同窓会々長、福岡町史談会々長、文化財保護委員長、岩手県選挙管理委員、福岡町ロータリークラブ会長などを務める。平成4年4月26日に死去。

奥(1938)は「変形菌雑記」に次のように書いている。「曾て自宅裏の薪からBadhamia affinis、また食用菊の支柱にした木の枝からムラサキホコリカビの一種Stemonitis flavogenitaの子嚢体を採ったことがある。昨年八月の末、石切所村の奥山から米沢へ出ようとして強阪の急坂にさしかかり坂下の林の中で休んだ時、ふと落葉に点々とついている子嚢体が目についたので、その落葉の幾片かをポケットに収めて来たが、それは途中で失ってしまった(Diderma hemisphaericumであったように思う)。たまたま外山下る時に迷い入った雑木林で、栗の落葉や枯草の上に夥しくついているPhysarum melleumの子嚢体が目にふれた。さがせばさがすほどにいくらでも見つかるのに興が乗って集めにかかった所が、猛烈な薮蚊に襲われて、つい我慢がならずに飛び出してしまった。」

小熊精一 (Oguma Seiichi, 1903-?)

[変形菌に関する業績] 昭和10(1935)年に「埼玉県産変形菌目録」を『植物研究雑誌』に発表した(註1)。
[略歴] 不詳。昭和10年当時、熊谷高等女学校に勤務。

小熊(1935)は「埼玉県産変形菌目録」の中で次のように書いている。「筆者は数年来埼玉県下で該菌類を採集調査して、昨年十二月までに約40種を知り得たので、ここにこれらを報告し、今後も続いて調査をなし、完全なものとしたいと考えている。斯学研究の一助ともなれば筆者の幸いとするところである。本調査に際して、懇篤な指導と援助とを与えられた理学博士江本義数氏のご好意に対して感謝の意を表する。」

落合英二 (Ochiai Eiji, 1898-1974)

[変形菌に関する業績] 大正15(1926)年、ジクホコリを東京から報告した。薬学研究の傍ら、小畔四郎、石館守三、菊地理一らと交流して変形菌の研究の輪を広げた。
[略歴] 明治31年6月26日、埼玉県浦和で教育者の落合初太郎の三男として生まれる。明治44(1911)年、千葉師範学校付属小学校卒業、同年千葉県立千葉中学校に入学。幼時は虚弱であったが植物採集に熱中して健康になったという。大正5(1916)年、千葉中学校卒業。同年仙台の第二高等学校二部乙類入学。二年生のとき安田篤教授の指導で地衣の新種を発見したという。大正8(1919)年、同高校を卒業し、東京帝国大学医学部薬学科入学。大正11(1922)年、同大学を卒業し、薬化学教室の近藤平三郎教授の副手となる。大正12(1923)年、研究資料用の植物採集を大和、四国、九州で行なう。大正14(1925)年、東京帝国大学薬学科助手。大正15(1926)年、「シロジクウツボカビ依然として東京に産す」を『植物研究雑誌』に発表する(註1)。同年12月から翌年1月にかけて台湾の研究用植物採集。同時に台湾産変形菌を採集した。この頃までに菊池理一らとの交際があったものと思われる(註2)。昭和3(1928)年、シノメニンの構造研究で薬学博士号を受領。同年結婚。昭和5(1930)年、東京帝国大学薬学科助教授。ドイツに二年間留学を命じられ、同国フライブルク大学のStaudinger教授などに指導を受ける。昭和7(1932)年留学から帰国。昭和9(1934)年、千葉医科大学付属薬学専門学校講師を兼任。昭和13(1938)年、特許局技師、特許局抗告審判官を兼任。同年東京帝国大学教授となって薬化学講座を担任。昭和17(1942)年、陸軍技術本部第七研究所兼務。昭和19(1944)年、「芳香族複素環塩基の研究」により帝国学士院賞を受賞。昭和20(1945)年、爆撃により自宅が被災(註3、4)した。昭和26(1951)年、トリカブト類を那須地方で採集。以後トリカブト属のアルカロイドなどを研究する。昭和28(1953)年、日本薬学会副会頭。昭和30(1955)年、チューリッヒ大学で開催された国際会議に日本学術会議代表として出席。昭和31年、日本薬学会会頭。昭和32(1957)年、通商産業技官併任。同年Staudinger博士が来日して講演する。昭和33(1958)年、高分子学会理事となる。昭和34(1959)年、東京大学を定年退官して名誉教授となる。同年財団法人乙卯研究所々長。昭和35(1960)年、理化学研究所招聘研究員嘱託。日本薬学会およびドイツ薬学会名誉会員となる。昭和38(1963)年、皇居での講書始の儀で「アルカロイドについて」をご進講。同年財団法人乙卯研究所理事長。昭和39(1964)年、理化学研究所相談役委嘱。昭和40(1965)年、日本学士院会員、バイエルン科学アカデミー準会員となる。昭和41(1966)年、アメリカ薬学アカデミー名誉会員に推挙される。昭和42(1967)年、藤原賞受賞。昭和43(1968)年、勲二等瑞宝章受賞。昭和44(1969)年、文化勲章受賞。昭和49(1974)年11月4日76歳で逝去し、従三位勲一等瑞宝章受賞。鎌倉に葬られる。彼の標本の一部は現在、神奈川県立宇宙の星・地球博物館に保存されている(註5)。

落合(1926)は「シロジクウツボカビ依然として東京に産す」の論文の中で、次のように書いている。「シロジクウツボカビ(Diachea leucopodia Rost.)は理学博士草野俊助氏が明治三十二年の夏、駒場の農科大学(今の東京帝国大学農学部)の園圃に栽培せるオランダイチゴの葉上に発見し『新撰日本植物図説下等隠花類部』第一巻の第四十五図版に詳細図説せられたるにより知らるるに至れるものなるが、その後東京に存在するやいなや誰人もこれを報ぜしものなかりしが、武蔵高等学校高等科理科一年生、山本篤氏が本年十月本種を東京郊外なる椎名町路傍において端なく採集せり。余親しくこれを検するに胞子嚢多くは破壊しおりたるも、なお少数の完全なるもの残存せるにより、本種に相違なきを認め得たり。然してその着生物はサワラ及びヒムロの枯枝なりき。すなわち知る、本種はなお広く東京付近に分布しおるものなるを。由来本種は世界共通の種にしてあえて珍とするにたらずと雖ども、また決して随処に見るを得べき普通種にあらざるは事実なり。また本種の朝鮮にも産することは同地よりの標本を牧野富太郎氏に得てこれを蔵する人あるをもって知るを得たり。本属はLister氏によれば現時粘菌分類学上フィサルム科(Physaraceae)[故安田篤氏のいわゆるモジホコリカビ科] に属するも,往時はSpumariaceae(シロジクウツボカビ科)に配属せしめしこともあり.されば故斎田功太郎博士『内外普通植物誌下等植物篇』、故安田篤氏『植物学各論隠花部』等には何れも草野博士と均しくSpumariaceae中に包含せしめたり。なお本属はCalcarineaeとStemonitaceaeとの連鎖をなすべき形態性質を有することは既にLister氏の唱道せし所にして、粘菌学上甚だ興味ある次第なりとす。また本属中本邦に産するものは南方熊楠氏の調査によれば、現時四種一変種にして、東京付近に産するは、本種と麹町区小畔四郎氏宅にて同氏が一昨年創めて採集せしDiachea cylindrica Bilgramとの二種以外未だ発見ありしを聞かず。米国は五種二変種、また英国は三種のみにして世界中の合計は八種二変種なりという。」

小畔四郎は昭和2年9月23日付けの落合宛の手紙で次のように書いている。「小生が標本を検定したことは決して人に語らざるよう願います。南方氏に知れると大目玉で、今後差し支えあり候ゆえに候。」

落合は昭和22(1947)年4月13日付けで、菊地理一へ宛てて次のような手紙を書いている。「その後は絶えてご無音に打ち過ぎ候ところ、益々ご健勝、賀し奉り候。その後の粘菌採集いかがに候や。小生、例の横着と多忙のため、疎開を怠り候ため、植物関係の雑誌も標本も悉く灰にし、心残りに候。最も残念なのは昔集めた粘菌標本を焼いたことにこれあり、もし貴君のコレクション中、名前の確実なもの少し宛ご分与の件、ご無心可能なら何より有難く存じ候。小生昨今化学の方が多忙にて、粘菌を顧みる閑もこれなく、かつはルーペ類も失い候も、ときどき眺めて心の楽しみと致したき希望に候。幸いにListerの『Mycetozoa』は友人に貸しありしため、焼け残り候。」

菊池理一は上の手紙に応えて数回に分けて標本を送っている。最後の標本は昭和42(1967)年に送られているが、この年の6月14日付けの菊池が落合に宛てた手紙には次のように書いてある。「一昨十二日、ご芳墨と共に先生のご芳志として、金員25,000円に加うるに荷造り送料として金1,000円をご恵送賜り、只々恐縮の至りであります。先生のせっかくのご厚志と存じ、今回はお言葉に甘えまして有難く拝受させていただきます。胆に銘じ厚くお礼申し上げます。このご厚情に対し最高に生かすよう、今夏は採集旅行費にあてたいと考えております。今日私が粘菌を趣味として生かし、身につけることのできましたのは、ひとえに先生が最初からのご指導の賜物と存じ、忘却しないようにと胆に銘じております。従って本来ならば私の方から感謝の意を表すると共に、先生のご依頼のお言葉がなくも、私の方から標本をどしどしお届け申すべきでありますのに、いつも逆になり、面目次第もありません。このこと何卒ご寛容願い上げます。今後はかようのお心づかいなさいませんよう、切望致します。そしてご遠慮なくどしどしご用命あらんことをお願い申し上げます。いくらかでもご報恩ができますればと念じている次第であります」。この標本は落合コレクションとして、現在は神奈川県立生命の星・地球博物館に保存されている。

出川(2000)は落合コレクションについて次のように書いている。「晩年、(落合)先生はお住まいの鎌倉市でみちくさ会という植物愛好会の指導に当たっておられましたが、この会のメンバーであった森脇美武・大野久良夫先生(当時聖光学院中学高等学校教諭)は落合先生と親交を深められ、<研究所に保管してしまっては、変形菌類の標本が子供達の手に触れることは少ないだろうから、あなたのような現場の先生の手元において若い人達の為に活用して下さい>とことづけられて標本を譲り受けました。私が中学生だった頃、学校の生物室で、見事に箱の中に並んだ、この宝石のようなコレクションを見せてもらったときの鮮烈な印象を今でもよく覚えています。そして時が経ち、私は学芸員となり、今度は私が、恩師の森脇、大野先生から<より多くの子供達に触れさせてあげるように>と、一昨年、このコレクションをお預かりしました。責任重大です!」

香月繁孝(Katsuki Sgigetaka, 1911-?)

[変形菌に関する業績] 昭和30(1955)年、米谷平和とともに「夏蔬菜に発生する変形菌」を発表した(註1)。
[略歴] 不詳。論文発表当時は東亜農薬株式会社勤務。「日本産サーコスポラ属菌の分類学的研究」で昭和45年度日本植物病理学会賞を受賞した。

香月・米谷(1955)は次のように書いている。「小倉市におけるナス栽培は企救長ナスの産地として有名である。ところが昭和27年から、当地産のナスに変形菌が発生して栽培者の注目するところとなっていたが、昭和29年は特にその発生が激しく、ナスのほか、トマト、キュウリにも発生を見、その被害は大きかった。中でもナスの被害は甚だしく、植え替えを余儀なくさせられたものも相当あった。また県下糸島郡においては生育中のスイカにも発生を認めた。変形菌の種類はPhysarum cinereum (Batsch) Persoon及びDidymium squamulosum (Alb. et Schw.) Friesの二種であったが、後者の発生はごく軽微であった。夏蔬菜の変形菌病害については、わが国ではその記録を見ないので、観察や調査の結果を報告しておきたい。」

菊池理一 (Kikuchi Riichi, 1899-1971)

[変形菌に関する業績] 大正15(1926)年以降、栃木県や岩手県の変形菌の採集を続け、同定は落合英二や江本義数、のちには小畔四郎に依頼した。昭和3(1928)年、「宇都宮並に其付近に於て採集せる粘菌類」を発表した(註1)。中川九一や伊藤春夫などの研究者を育てた功績は大きく評価される。
[略歴] 明治32(1899)年1月10日、岩手県盛岡市に生まれる。大正6(1917)年に岩手県立盛岡農学校卒業。翌年から青森県農業試験場勤務。大正12(1923)年より宇都宮高等農林学校で作物学を指導。昭和4(1929)年に栃木県経済部農務課の農林技手となる(註2)。昭和5(1930)年より栃木県立農事試験場勤務。昭和6(1931)年には昭和天皇に変形菌標本を天覧に供し、目録を献上した(註3、4、5)。昭和8年には関西に小畔四郎と南方熊楠を訪問した(註6)。昭和14(1939)年、農林技師で従七位となる。昭和16(1941)年、正七位叙勲。昭和22(1947)年より栃木県農業会那須開拓実験農場、岩手県立六原農場、岩手県立雫石農場勤務。1956-1959年、栃木県農務部嘱託として新農村計画の指導をする。1960年から1968年までは千葉大学薬学部嘱託研究員を勤めた。昭和46(1971)年7月29日に72才で国立ガン研究所にて死去。

菊池(1928)は「宇都宮並に其付近に於て採集せる粘菌類」で次のように書いている。「ここに列記せんとする粘菌類は、大正十五年四月以来、宇都宮市およびその付近において余の採集せるものなり。これらは既に南方熊楠氏によりて発表せられたる本邦産粘菌類に比すればわずかにその十分の一にも満たず。しかも既に知られたる種のみに過ぎざれども、当地方に発生せし粘菌類の一部として記することのあえて徒労にあらざるを信じ、列挙することとせり。本菌類の種名は専ら小畔四郎氏のご好意によりて鑑定命名せられたるものなり。なお東京帝国大学医学部薬化学教室、落合英二氏は浅学なる余のためにご指導の労を賜り、また北海道帝国大学農学部農学博士伊藤誠哉先生には参考文献その他につき有益なるご教示を、荒井清武氏は採集その他に関し甚大なる助力を割かれたり。よって本文を記するに当りこれら諸氏の懇切なるご高教助力に対し深甚の謝意を表するものなり。」

昭和4年6月2日付け東京朝日新聞には次の記事がある。「菊池技手光栄−−−紀州田辺に行幸遊ばされた聖上陛下のお召し艦に招かれて生物学の御進講をする光栄に浴した南方熊楠氏は粘菌の標本を天覧に供した際、粘菌研究家として中沢博士、小畔四郎氏と共に本県農務課技手菊池理一氏をご紹介申し上げたが、菊池氏は盛岡高等農林学校の選科を卒えて同校助手となり、その後宇都宮高等農林に転じて嘱託として研究を続けている篤学者である。」

昭和6年9月8日付けの下野新聞には次のような記事が掲載されている。「菊池理一氏採取の粘菌二十九種、目録を宮内省へ−−−聖上陛下がかつて和歌山県へ行幸遊ばされし時、現本県農務課勤務の菊池理一氏の研究採取せし粘菌を天覧遊ばされたが、この度県下小中等学校生徒職員謹製品を陳列した際、やはり菊池氏の採取せる粘菌二十九種をも陳列したが、陛下におかせられてはこれにお目とめ遊ばされた。しかして右目録は宮内省へ差しだし、実物は県の出張所へ渡した。ちなみに右二十九種の内にはなかなか得難いものが数種あるとのことである。」

上記のことについて鈴木英男はのちの栃木県立博物館のパンフレットに、1999年10月21日付けで次のように書いている。「(菊池)氏の粘菌新種の研究が、この粘菌研究にご造詣の深い昭和天皇のお目に止まり、粘菌新種・研究資料を献上することになりましたが、代わるべきもない貴重な資料を取り上げるには忍びないという、陛下の温情あふれるお言葉で差し戻されたと菊池氏から聞かされ、当時の新聞掲載を見せられました。天皇陛下の研究者としてのご自分を通して一つの研究を遂げるまでの苦労を下々の研究者までに思いやり下された優しいお心をしみじみと感じとったことを今もなつかしく心にとめています。」

南方熊楠は昭和6(1931)年9月11日付けの上松蓊宛の書簡で次のように書いている。「数日前、菊池理一という人、日光の極北なる上芳賀郡栗山村という処へゆき、その小さき温泉宿よりハガキを寄せ来たり候。・・・この人先年より粘菌を集め、度々小畔氏へ送り来る。今度も一珍種手に入れたらしく候。」

菊池は昭和8(1933)年に福田鉄雄らに宛てた手紙の中で、小畔四郎や南方熊楠に会ったときのことを次のように書いている。「今回の旅行中最も有益なりしは南方、小畔両先生にお会い致し、直接ご高教を得たことであります。最初、小畔先生を神戸市の近海郵船会社にお訪ねし、午後四時より六時まで社長室に、以後は自宅にて各種多数の標本につきご指導を仰ぎました。先生はただ今福井県にて採集せられし粘菌千余点を、一とおり精査を終了せられ、目録作成中であります。その内十数種の珍種と、新種に属すべき数点を得ております。この晩これら珍種は小生依頼を受け、南方先生のご鑑定を仰ぐべく持参致しました。小畔先生が今回、福井県の粘菌を研究せらるることになった理由は、同県下の博物学関係(教育会)の教師方から依頼を受けられ、夏期数回にわたって採集を試みられし由、これも断わられたそうでありますが、再三の依頼があったので、研究に着手せられたのだそうで、しかし、これら博物関係の先生が甚だ不熱心で、熱のないのには驚き入った、中等学校や小学校の先生にはお調子者が多くて、いやな感を懐かしめられると申しておられました。そしていくら粘菌の研究者が雨後の竹の子みたように続出しても、物になりそうな人間はおらぬ。貴君は専心この方面の研究をやってもらいたし、など申され、今回小生の持参せし標本をご覧下され、いつも良い標本で、整理がよくできて、非常に喜ばしいと。しかし、そう賞せられるほど上出来ではないのです。丁度奥様もお手伝いのためご来神中で、私ども三人で色々のお話ができました。<菊池さんもよろしゅうございましたね。南方先生にお会いできることになりまして、本当に名誉でございますワネ。よほどお気に入りと見えますネ。先生にお会いになりましたなら、よろしくお伝え下さいませ>など申され、なお中川、伊藤両君(当地高農卒業生)をも話題の中心に上らせられ、誠に有難いことと、無言の感謝を致しておりました。両君とも、私が学校在職中に粘菌、その他菌類関係の手ほどきとでも申すべきことを致しました関係を有するので、私も非常に愉快でありました。もちろん両君とも真面目な人々ですから、小畔先生も期待しておられるようであります。晩の九時大阪発和歌山に出発しなければならないので、先生のお見送りを受け、神戸三宮駅に向かう途中の自動車中およびホームにて、時間の来るまで、南方先生にお会いするばあいの色々のご注意やら先生の人格、粘菌関係の事柄につき、種々ご教示下さいました。今日まで師弟としての感受し得ざりし温情を、初めて思う存分味わうことができました。即ち、先生より受くる有難さは色々ありますが、先生としての有難さを初めて知ったとでも申すべきでしょう。」

昭和10(1935)年3月22日付けの下野新聞には次のような菊池に関する記事が出ている。「世界的学者としてわが国粘菌(変形菌)研究の権威、南方熊楠、小畔四郎両氏の門下生で、県下にただ一人、同研究に過去十数年来あらゆる苦心と努力を捧げている人に、宇都宮市東塙田町103、農林技手菊池理一氏がある。同氏がこの研究に趣味を持ち始めたのは大正十二年頃からで、その後官職にありながら、私費をもってあらゆる方面から材料を蒐集し、研究を重ね、標本として採収した粘菌類は今では千数百点の多数に上っており、いかに熱心に努力をなしたかを物語っている。従って、氏の研究がわが国菌学上また農作物の栽培上、幾多の功績を残すものと、この珍しい研究は多くの人々から注目されている。なお同氏は絶えず今も、南方、小畔両氏並びに高農香川教授らの指導を仰ぎつつこの研究に専心している。その話を聞くべく同氏を訪れると、氏は非常に円満そのものごとき人で、静かに、<この粘菌と言うのは多くの菌類に比して短時日に、しかも非常に変化が早く面白いところから、これが研究を始めたもので、当時は一般の人からもあまり問題にされていなかったが、最近畏れ多くも聖上陛下がこのご研究を、専門家も及ばぬほどご熱心に遊ばされる由漏れ承り、多くの人が注意するようになったが、今では農作物特にタバコの苗の仕立て、軟化栽培上床に発生するこの粘菌が多大の被害をもたらすため非常に重視されており、この研究では英国のリスター女史が分類方面に世界的の権威者で、米国でも相当多くの学者が研究している。日本では和歌山県の南方熊楠、神戸の小畔四郎両氏が最高権威であり、本邦粘菌研究を開拓されたものであるが、この粘菌はごく微細な菌類で、その変化が非常に面白く、その分別変化は丁度ホウセンカ(植物の一種)の莢が熟したばあいその種子が飛散するのと類似した作用をなすもので、色彩の変化、形態の変化は、到底人間の力では作り得ない美しさと巧妙さを持っている。全国各地に散在している門下生十五名は何れも自分の研究した粘菌を前記、南方、小畔両氏のもとに送り、一緒にしては数回献上の光栄に浴したことがある>と語っていた。また、県農事試験場、森本技師は<菊池君は長年の間この種の研究をしているが、これを除いては他に何一つとして趣味も道楽もなく、暇さえあれば粘菌を顕微鏡で見ている努力家であり、研究心の強い不言実行の人である。この研究は今のところ県下においてただ一人であろう>と語っている。」

沼宮内耕作(1959)は「セイヨウハコヤナギの朽木に生じた粘菌植物(第一報)」の中で次のように書いている。「調査に当たっては宇都宮市宮原町、菊池理一先生に種々御教示を賜り、且つ、標本の大部分について精密な鑑定をして戴いた。ここに謹んで謝意を表するものである。」

沼宮内耕作は平成5年7月22日付けの、筆者宛ての手紙で次のように書いている。「(私は)若いころ、昭和20年代後半から30年代前半にかけて、いささか粘菌の分類を勉強した者です。家内の伯父にあたる菊地理一に指導を受けました。ずっと続けていればよかったのですが、もともと虫屋であり、また生来の浮気者で、手当たり次第あちこちに首を突っ込むもので、粘菌は昔の話になっておりました。・・・現在、幼稚園の園長をしており、3歳から5歳の小さい子供達に自然教育をするのが主な仕事です。その合間に、週一回、岩手県立博物館のボランティアとして、蘚苔植物の分類整理を手伝っていますので、今のところ粘菌に向かう時間は全然とれません。・・・お申し出の『小畔四郎:御研究所Stemonitis疑問種検定解説』は、私のために菊地理一氏が書き写してくれたものです。昭和9年度分とありますので、全体のうちどの範囲のものか不明です。5頁がありませんが、書き写した際の頁の打ち間違いだと考えられます。」

草野俊助 (Kusano Shunsuke, 1874-1963)

[変形菌に関する業績] 明治時代に、おもに東京近辺で変形菌を採集して標本を英国に送付した。標本はマッシーやリスターによって同定され、彼はその結果を『植物学雑誌』に報告した。
[略歴] 明治7年、福島県相馬に生まれる。仙台の第二高等学校を経て、明治29に東京帝国大学理科大学に入学。明治32(1899)年、同大学植物学科を卒業し、大学院に入学して三好学教授のもとで植物生理の研究に従事し、同年東京帝国大学農科大学講師となる。以後は白井光太郎教授のもとで研究した。彼が同(1899)年に発表した「日本産変形菌」の種の同定は英国のマッシーによってなされている(註1)。明治37(1904)年には「日本産変形菌類」を発表したが、これはリスター父娘によって同定されたものである(註2)。明治37(1904)年から五年間は菊や梅のサビ菌類などについて論文を発表した。明治40(1907)年、農科大学助教授となる。1911-1913年、フクロカビ属とサビフクロカビ属の生活史の研究を発表した。この研究で大正2(1913)年に理学博士の学位を得た。この研究は外国の菌類の教科書などにも引用されたと言われている。大正4(1915)年マーシャル、カロリン、マリアナ諸島の植物調査に従事。大正11(1922)年から二年間欧米に留学。大正14(1925)年から昭和9(1934)年まで白井光太郎教授の跡を継いで東京帝国大学農科大学の植物病理学講座の教授を勤めた。この間の大正14年度には日本植物病理学会々長。また昭和5-17年度にも同会長を勤めた。昭和6(1931)-昭和12(1937)年には東京文理科大学教授を兼任、また広島文理科大学講師と京都帝国大学の講師も一時兼任した。その間の昭和8(1933)年、壷状菌類の生活史に関する研究で帝国学士院東宮御成婚記念賞を受賞。昭和9(1934)年、定年退官して東京帝国大学名誉教授となる。その後も昭和15(1940)年まで東京文理科大学講師。昭和20(1945)年、帝国学士院会員となる。昭和31(1956)年には日本菌学会が設立され、初代会長となり、1962年まで三期会長をつとめた(註3)。昭和37(1962)年5月死去。草野の標本は国立科学博物館に保存されている(註4)。

草野(1899)は「日本産変形菌」の中で次のように書いている。「変形菌の世界に知らるるもの四百余種、決して僅少となさず。しかも本邦産該菌に至ってはその瞭知されたるもの一、二に過ぎず。これけだしその体甚だ細微にして人の注意を惹かざるによるならんか。余の手許に存するもの数種、客年三好教授の手を経て英国専門家マッセー氏に種類の検定を請い、今その種名を明かにするを得たれば、記して以て本邦隠花植物フロラの参考に供す。」

草野(1904)は「日本産変形菌類」の中で次のように述べている。「本年四月発行の『英国Journal of Botany雑誌』に専門家リスター父子が調査せる十八種の本邦産変形菌を載せたり。これは全く余が採集品にかかり、かつて三好博士よりマルシャル・ワード博士へ送られたるものなり。今参考のためにその種名を左に掲ぐ。」

倉石衍(2001)は「草野俊助先生のお教え」の中で次のように書いている。「1953年8月26日より9月4日まで、日本菌学会の前身である日本菌類談話会がFungus Forayを日本で初めて行い、場所としては八甲田地域が選ばれ、(東北大学八甲田山高山植物)実験所が基地となった。<偶然は貴し之を捕らえよ。昭和二十八年九月三日。草野俊助>ここに示された一文はForayの終わる前日、当時の所長神保忠男教授が、御出席の草野先生(その三年後に設立された日本菌学会の初代の会長で植物病理学者)にお願いして書いていただいたものである。この時の墨をすり、草野先生が書いておられるのを目の前で見ていた私は40年以上前のことが昨日のように思い出された。この年は実験所の近くのぶな林の中に多数のたまごたけが生えていた。小林(義雄)先生がそれのすまし汁をつくってくださったが、毒が入っていないかと頂くのが恐かった。」

土居祥兌(1990)は『日本菌学会ニュース』に草野の標本について次のように書いている。「草野俊助コレクションには、本人をはじめ、白井光太郎、吉永虎馬、さらにその他何人かの東京大学に関わりのある植物病理学者の標本が含まれる。」

小畔四郎 (Koaze Shiro, 1875-1951)

[変形菌に関する業績] 日本、朝鮮、台湾、樺太、中国など各地で変形菌を採集した。その業績から見ると、戦前における東洋最高の変形菌採集者と言える。これらの採集品は初期にはおもに南方熊楠によって同定され、後には自身で同定した(註1)。昭和の初期には昭和天皇に、南方や上松蓊らと共に標本を多数献上して研究を助けた。また変形菌の同定や採集指導などの依頼に応えて多くの研究者も育てた。日本の研究者のために一万点以上の変形菌標本を残した業績は非常に大きい。
[略歴] 明治8年に新潟県長岡市千手町300に生まれる(註2)。明治27(1894)年、横浜商業学校卒業後に日本郵船に勤務。のち近海郵船会社の小樽・神戸支店長、内国通運専務、石原汽船専務などを務めた。その間、日露戦争と第一次世界大戦のときは軍務に従事し、陸軍中尉、従六位勲五等功五級となった(註3)。長期にわたって神戸に単身赴任して、仕事と変形菌分類学の研究を両立させた。変形菌の研究は明治35(1902)年に南方熊楠と那智で偶然出会ったことが縁で始めたと言われている(註4、5)。大正9(1920)年、南方を訪問して南方らと高野山で変形菌を採集した。大正13(1924)年には台湾阿里山でも変形菌を採集しているが、これが台湾で採集された変形菌の最初の記録となっている。大正15(1926)年11月10日には東宮御所に出頭し、変形菌90種を進献した。この献上については同年の『植物学雑誌』に「粘菌標本の献上」と題して紹介された(註6、7、8)。このとき献上した変形菌標本の日本人の採集者は朝比奈泰彦、上松蓊、金崎宇吉、楠本秀男、小畔四郎、柴田桂太、中道等、平沼大三郎、南方熊楠、六鵜保、和川仲治郎である。のちのことになるが、彼の同(1926)年の台湾五城での採集品のうちに、後日になってミナカタホコリを見出して中沢亮治に分与し、Nakazawa (1931)がその報告をした。昭和2(1927)年には東北帝大で植物・動物学会があり、南方の名代として出席した(註9)。昭和3(1928)年、渡辺篤と一緒に南方を田辺に訪問。昭和4(1929)年6月8日には南方が昭和天皇にご進講したのち、小畔が神戸に入港した戦艦長門艦上で御前講演し、変形菌150種を進献した(註10)。この時の日本人の変形菌採集者は朝比奈泰彦、石館守三、上松蓊、緒方正資、落合英二、菊地理一、小畔四郎、柴田桂太、中川九一、中沢亮治、久内清孝、平沼大三郎、南方熊楠、渡辺篤である(註11)。昭和7(1932)年には進献のことなどで田辺に南方を訪問した。同年11月14日には大阪にて侍従武官を通じて変形菌30種を進献した(註12、13)。この時の変形菌の標本採集者は、榎本幸治、大江喜一郎、金子直枝、菊地理一、北島修一郎、小畔四郎、小畔正秋、中川九一、松田某(註:英二?、正夫?)、南方熊楠である。[この中の小畔正秋は小畔四郎の子息である。彼は父親の研究を援助し、高知県を含め各地で採集を行なったが、1971年に若くして亡くなったと言われている。この採集当時には東京府立高等学校生徒であった。] 昭和8(1933)年には昭和天皇が福井県行幸の折、福井県産変形菌を調査して、標本を献上した(註14)。この時の変形菌標本の採集者は石徹白岩左エ門、岩田良昌、小畔四郎、小畔正秋、佐板常一、下中野栄蔵、菅岡文太郎、西尾侃一、波多野国孝、藤田衛、紅谷進二、堀芳孝、本田隆成、前川徳松である。昭和10(1935)年には昭和天皇の鹿児島・宮崎への行幸にあわせて、鹿児島県産変形菌を調査した(註15)。この時の変形菌標本の採集者は内藤喬、堀金義、小畔正秋、島袋俊一、細山田良康、松山径雄、今掛壽造、小畔四郎、大庭秀景、長井実孝、下森喜代一、紅谷進二、小堀喜三郎、一條守二、鮫島鉄夫、逆瀬川助熊、田中太、武山宮定、実吉忠夫、西ノ園源一、鮫島文夫である。昭和11(1936)年には昭和天皇の江田島行幸にあわせて、変形菌の図柄のネクタイを製作して天覧に供したりした(註16、17)。また、同年広島県産変形菌を、小畔と内藤喬が中心となって広島県下の中学校や高等女学校の教諭らと一緒に採集した(註18、19、20、21)。この時の変形菌採集者は井谷正巳、伊藤博、井上正純、岩橋八洲民、加藤正光、川崎徳、北川虎雄、楠本政衛、国信玉三、久米寿三郎、倉本幸雄、黒木福松、小畔四郎、小畔正秋、渋谷源治郎、末田修二、末広賀治、杉田茂、竹本貞一郎、田中正一、田辺義忠、得能武一郎、内藤喬、中村至徳、野口彰、花谷一作、藤田豊、古川一明、細川澄、堀江和七、前谷正男、前田栄、松永実三、丸林譲一、村部トメ、森澤人、守屋勝太、結城次郎、湯出原勉、横山宗登である。昭和12(1937)年には東京の自宅が火事で焼失したという(註22)。小畔の戦時中の経歴はよく判らない。昭和23年には公職追放となり、6月19日から11月19日まで、那須の開拓農場にある菊池理一の家に滞在して研究した(註23、24)。その間の夏には菊池の提案で中川九一らを交えて、那須で三日間変形菌の採集をした(註25)。これから三年後、小畔は昭和26年に76歳で東京で死去した(註26)。また多数の標本を大切に保存し、死後には家族から中川九一に標本の整理を託され、1978年には同標本が筑波の国立科学博物館に寄贈された(註27)。1995年には小畔の孫の光一より整理ノートが寄贈された。

南方熊楠は1924年8月24日付けの杉田定一宛書簡で次のように述べている。「内国通運会社の専務取締役小畔四郎(日露役に宇品より軍馬を運輸せし人にて陸軍中尉なり。父は有名なる河井継之助の門下にて剣客たりしが西南役に戦死せり)は多忙の身をもって、内地、朝鮮、台湾、北海道、樺太に旅行し、集むるところ多く、今月に入りてより、小生方へ二百二十余点送り来たり、小生十三昼夜かかりて鏡検せしところ、日本に従来知れざりしもの二十二種ありし。実に多忙中の寸暇をよく使いしものにて、小生ロンドンにて発表せんと起稿中にござ候。」

南方熊楠は1929年3月13日付けの山田栄太郎宛書簡で、小畔の家族について次のように書いている。「小畔氏は七歳ばかりの時父に離れ、父は越後長岡藩の有名な剣客にて、河井継之助、外山修造氏等に従い戦争し、敗軍の後非常に困りおりたるところ、十年の西南戦役に復讐のため志願出陣し、豊後の竹田辺で薩人六人を切りたる後討死致し候。三男ありてことごとく貧乏中に勉強し、長兄は東京で大なる銀行の頭取となり、次男は尺八を始めて西洋の音楽通り譜を作りて吹くことを教え、高名の人なりしが、二人とも五、六年前死亡。三男四郎氏は英和学校卒業後船員となりて久しく郵船会社外国船に乗り込みメルボルン、香港等の下宿におびただしく蘭類を植え、今より三十年ほど前に華頂宮殿下や大隈侯よりも多種の蘭類を集めありし。・・・那智山へ始めて行きし次の年(明治35年)の冬、小生一の滝の下にて浴衣一枚に縄の帯で石に生えたる地衣を集めおるところへ、船員らしきもの一人来たりいろいろ話すと、その人は蘭を集めにこの山へ来たりしという。・・・ずいぶん苦労せし人だけあって、悟りも宜しく、むやみに金を積んでも何にもならずとて多忙の余暇に謡曲を稽古し、素人としては東京に一、二の謡曲家・・・なりしが、蘭の栽培家として有名なりしこと上述のごとし。」

南方熊楠は1929年10月9日付けの山田栄太郎宛書簡で次のように書いている。「小畔氏は、申さば一代身上にて、舟の事務員より近海郵船の神戸支店長までなりたる人なるが、長女丙午の生れにて縁談思わしからず、一昨年ごろようやく銀行員へ嫁したるところ、例の銀行取り付け一件起こり、その婿発狂し、小畔氏娘も精神病となり帰宅、ようやく今度再縁調い、今月末にヨメにゆくはずの由。」

南方熊楠は1925年1月31日付けの矢吹義夫宛書簡で次のように書いている。「那智に在りし厳冬の一日(明治35年1月7日のこと)、小生単衣に縄の帯して一の滝の下に岩を砕き、地衣を集めるところへ、背広服をきたる船のボーイごときもの来たり、怪しみ何をするかと問う。それより色々話すにこの人は蘭を集めることを好み、外国通いの船にのり、諸国に通うに至るところ下宿に蘭類を集めありという。奇なことに思い小生の宿へつれゆき一時間ばかり話せり。それが小畔四郎氏にて、そのころようやく船の事務長になりしほどなり。・・・それよりのち、ときどき中絶せしことなきにあらざるも、小畔氏が海外航路から内地駐在に落ちついてのちは絶えず通信し、その同郷の友、上松蓊氏も小畔氏の紹介で文通の友となり、種々この二氏の芳情により学問を進め得たること多し。」

平野威馬雄(1944)は南方を偲ぶ座談会の席で、小畔の語った南方との出会いに関する話を次のように書いている。「それは(明治35年の)十二月か一月かの寒いときでした。菜っ葉服を着てワラジをはいて那智山へ行ったのです。やがて滝を見ようと一、二町手前まで行ったときに、和服を着た大坊主が岩角で何かを一心に見つめている。ちょっと見ると中学校の博物の先生のような感じがした。私は蘭に趣味を持って研究していたので<どうですか>と話しかけたが、<フン>とか<ウン>とか言って、一向相手になってくれない。それで蘭の話を持ちかけると、やっと話に乗ってきた。蘭の学名などもよく知っている。これは話せそうだと、私は名刺を出して郵船に勤めているのだと言うと、その大坊主先生<ワシはここで微生物の研究をしているのだが、郵船の連中ならロンドン時代によく知っている>とロンドンの話が出た。・・・段を降りるときに私に何か入ったふろしき包を持たせてやおら立ち小便だ。そしてしばらく行くと立ち止まってまた小便。まるで犬のようだ。おかしな人だと思っていると先生は<いやこれはまことに失礼した。君は生意気に洋服を着ているので、英語などをしゃべるとワシはラテン語で応接し、まかり間違ったら、これで殴ってやるつもりだった>と私に持たせたふろしき包から取り出して見せたのは金槌、いやどうも危ないところでしたよ。私の泊まっていたのは大阪屋で、そこまで先生が送ってくれた。そして先生は早速二合買わせてグイと飲んだ。実に見事な飲みっぷりでしたよ。それから私は勝浦から船に乗って帰るのだと言うとまた送ってくれた。途中また茶屋で二合買ってグッと飲んだ。そしてケロリとしているのです。」

南方熊楠は1926年2月13日付けの上松蓊宛書簡で次のように書いている。「大王(註:小畔四郎)今日申し越せしは、服部とかいう博士、毎週摂政宮殿下に生物学のご講釈を申し上ぐる由、その人大王の高名を欽し、所集の粘菌拝見ときたので(博士の甥が大王の幕下の由)、この機を逸せず粘菌四、五十種集め、殿下へ奉献の儀を申し出づべしとのことなり。ついては貴下先年湯本にて成熟品、それから数日後、小生鉢山麓にて未熟品を発見せるCribrariaの新種はいっしょに奉献しては如何とのようのことなり。よって小生これをnov. sp.(新種)として台覧に供し(図説共に)、台覧すみの上これをCribraria gratiosissima Minakata et Uematsuとして発表印行せんと欲す。どうなるか知れぬが、大王より指図あり、台覧許可あり次第、さっそく図説を仕上げ、大王までおくり届けんと存じおり候。・・・小生もなるべく大王の面目を全うするため、手許にいっちょうらいの稀品Minakatella等までおくることゆえ、なるべくは大王自集のもののみならず、平沼、貴下および小生、また朝比奈博士の所集をも多少編入されたきことなり。日本にある属で、Dianemaには二種日本にあり、しかるに二種とも標品きわめて小さく、また二つずつしかなく、何ともなりがたし。よってこれのみはその一種をリスター自身の所集品より採用しておくるはずなり。」

1926年発行の植物学雑誌に掲載された記事「粘菌標本の献上」には次のように書いてある。「今回、摂政宮殿下ご台覧の御命により、本会々員小畔四郎氏は本邦産粘菌の標本の中、代表的のもの九十種を献上せられたり。同標本は同氏が南方熊楠氏指導下に、過去数歳にわたり、本邦各地において採集せられたるものにして、同氏は同標本に下記のごとき表啓文を付せられたり。」として、南方の書いた表啓文を小畔四郎の名でその下に掲載した。(次註参照)

小畔四郎(1926)の「本邦産粘菌諸属標本献上表啓」には次のように書いてある。「粘菌の類たる、原始生物の一部に過ぎずといえども、その大気中に結実する故をもって、一見植物の一部たる菌類の感あり。これをもって動植物学者輩互いにこれを自家研究域内の物と思わず、相譲り避けて留意せざりしこと久し。西洋にありては、承応三年(西暦1654年)ドイツ人パンコウがルコガラ属一種の発生する状を図して速成菌と名づけたるが粘菌最初の記載なるも、その後二百年間著しき科学的研究をなさず。安政六年(西暦1859年)ドイツ人デ・バリー粘菌説を著わしてその本性を論じ、その門に出でたるポーランド人ロスタフィンスキーが明治八年(西暦1875年)粘菌譜を作ってその分類を講じてより、諸国ようやくその専攻の学者を出し、研究随って盛んなるに及べり。支那にありては、唐の段成式の『酉陽雑俎』に<鬼矢は陰湿の地に生じ、浅黄白色にして、あるいは時にこれを見る。瘡を治すに主し>の短文あり。その詳を知るに由なしといえども、多分はフリゴ属の粘菌の原形体が突然発生して形色すこぶる不浄に似たるより、この名を負わせしなるべく、果たして然らば西洋人に先だつことおよそ八百年、支那人すでにこの一類を識りて記載したりしなり。しかるに爾後一千年の間、東洋人一言を粘菌類に及ぼしたるを聞かず。帝国産するところの粘菌に至りては明治の初年外人が小笠原島に産する僅々数種を採り去って調査定名せしことあるも、明治三十五年理学博士草野俊助集むるところの十八種をケムブリッジ大学に贈り、故英国学士会員アーサー・リスターがその名を査定して発表せしを、秩序整然たる本邦産粘菌調査報告の嚆矢とす。和歌山県人南方熊楠は、明治十九年海外に渡り欧米諸国に遊ぶこと十四年、その間西インド諸島粘菌等を採集して創見するところあり。故英国学士会員ジョージ・モレイの勧めにより、帰朝後粘菌の研究を続けて倦まず、新種新変種は固よりその発生、形態、奇病等についても創見するところ少なからず。大正二年<訂正本邦産粘菌目録>を出して一百八種の名を列し、大正十年かつて英国菌学会長たりしグリエルマ・リスター女は南方発見の一種に拠って新たにミナカテルラ属を立てたり。臣四郎熊楠の指導により内外諸国に採集すること歳あり。よって獲しところに右の<目録>出でてのち熊楠および同志諸人が集めしところを合わせ現時帝国産粘菌を点検するに、実に三十八属一百九十三種を算し、うち外国に全くなきもの約七種あり。現今世界中より知られたる粘菌すべて五十三属約三百種の中に就いて、英国は四十四属二百種ばかり、米国は四十一属二百二十三種を出だすに対して遜色ありといえども、帝国にこの類の学開けて日なお浅く人少なきを稽うれば反ってその発達の著しきを認めずんばあらず。今回台覧の恩命を拝戴し、一種あるいは数種の標本をもって邦産粘菌の各属を表わし、すべて九十品を撰集して献じ奉る。ただし邦産三十八属の内、ラクノボルス属の標本は解剖し尽したるをもってこれを闕き、オリゴネマ、ジアネマの二属は邦産の標本きわめて微少なれば英国生の品を代用せり。こいねがわくは嘉納あらんことを。臣四郎恐惶謹んで言す。大正十五年十一月。従七位勲五等功五級、小畔四郎。標本献上者、小畔四郎。品種撰定者、南方熊楠。邦字筆者、上松蓊。欧字筆者、平沼大三郎。」

南方熊楠は1927年8月10日付けの宮武省三宛書簡で次のように書いている。「去る七月二十九と三十日、仙台東北大学にて植物学会、動物学会の大会あり。小畔四郎氏小生の名代として出席、粘菌二百四十点ばかり携出、一般の縦覧に供え演説をやらかし、一部分(七十点)を動物学会へ貸し縦覧。三十日夜の宴席にてアマチュールの学問の国家に必要なる所以を演説し、南方先生の一点張りで、アッと言わせて帰り候。地震にあわざりしは幸いなり。この人は大正十二年の東京大震の時も札幌日本郵船支店長をやめられ東京本店へ転任の帰航中、東京に大震あり。留守宅(この田辺旧藩主安藤男の旧邸)も四、五軒さき迄火事襲来の後、止み候て、まことに運のよき人に候。 右大会の最中、小畔、朝比奈博士、落合、久内等、粘菌を東北大学構内にて採集中、徳川義親侯の植物研究所員、江本義数という人、日本に従前なかりしCienkowskia属を採集致され候。また前月、服部広太郎博士(聖上生物学御師範)が赤坂御所にてPhysarella属を採集致し候。これも日本に従前無かりしものに候。どこに何があるやら分からず候。これにて本邦の粘菌属数はおいおい英米においつき申し候。貴地などもあまりかけ回らずとも、ゆっくりかからば色々と珍品新種あることと存じ候。」

小畔は昭和4(1929)年の昭和天皇への御進講について、次のような記事を残している。「申し上げました説明は大変拙いものでありましたが、終始ご熱心にご聴取あそばされ、鋭いご下問が引ききりなしにありました。一通り終って感激に満ちて御前を退出致しました。この時間まさに四十五分、人臣無上の光栄に浴しました。私の標本は粘菌でありますから非常に小さいものばかりで、標本についてご下問になり、それに奉答する際には、ともすると私の汚い頭髪は陛下の御髪と触れんばかりになります。恐れ多くてこまりました。ご熱心なる御態度には申すもかしこし、敬仰の外はありません。只今もなお玉音朗々として耳底に響くのであります。<小畔は思うがままに採集に出かけることができて幸福だよ>とのお言葉を拝聴致しましたことは恐懼おく能わざる次第であります」。

小畔は1929年6月10日付けで、御進講の際の南方を除いた標本提供者12人に礼状を送っている。手紙は活字で印刷され、次のように書いてある。「聖上陛下阪神ご行幸に際し、はからずも粘菌標本献進のご内意に接し候につき、その選定は全部南方先生のお指図を仰ぎ、また先生のご主旨を体し、努めて先生門下各位の採集品を多数選出することに致し候ところ、標本の大部分は田辺と東京にあり、当地にはただその一部分のみに過ぎず、かつまた天覧までの時日差し迫り、各位にご送付を乞うの暇これなく候が、お召しの前夜までに漸く別表の通り各位ご採集の品を選出し、天覧に供すると同時に、ご前において各位の標本とその氏名につき、一々身分職名および粘菌採集・研究せられたる年数、その他をできうるだけ詳細にご披露申し上げ候。例えば<この朝比奈(ご前なるゆえ姓を呼び捨てとす)は東京帝大教授薬学博士で、地衣の研究採集で有名でありますが、日光で大正十三年粘菌採集して以来、粘菌も採集しています>、<この平沼は色々の研究家でありますが、十余年南方の指導を受け、粘菌も熱心に採集しております>と、一々その標本を指し言上申し上げ候ところ、その都度ご熱心に標本にある採集者の名と標本を御覧遊ばされ、かつ全部進献ご嘉納あいなり候。時間少なかりしも、ともかく各位十二氏全部を前例同様にご披露致し、もって南方先生のご主旨に添い得たることは、誠に至高の至りに存じ候。右ご前のご説明はご座所において、陛下お一人と小生のほかは土屋侍従時々ご用のため出入りせられたるのみにつき、思いのまま言上でき候次第に候。かかる無上破格の光栄は、一に南方先生多年懇篤なるご指導の結果にほかならず候も、また各位におかれて多年不肖をご愛顧ご援助下され候賜と感激に堪えず、よってお礼かたがた当時の模様ご報告申し上げたく、かくのごとくにござ候。」

1932年11月10日付けの大阪毎日新聞掲載の小畔談話は次のように紹介されている。「先年御前御講演の光栄を担い畏き御言葉を拝し奉って以来、愈々微才を顧みず、将来ともに粘菌蒐集に務める念を深めましたが、このほど世界的驚異の新発見であるコッコデルマ新属が、上松君の手で発見されたのは実に日本の誇りとも云うべきでありまして、畏くも聖上陛下、大阪行幸に際して、この世界に希な粘菌を御覧に供し得ますればと存じて居りましたところ、侍従の方々のおとりなしもあり、上阪、具さに侍従武官に御執奏方を御願い申上げる次第であります。」

南方熊楠は1932年11月18日付けの上松蓊宛書簡で次のように書いている。「軍国多事の際とて、一切民間よりの献納品を今回は受けさせられぬ由なるに、小畔よりの粘菌標本を受納とあらば、いろいろのひがみ根性のものが誤解を生ずることもあるべしとて、絶対に秘密にすべしとの内約なりしときくに、15日の夕、大毎の当地記者拙宅へ来たり、何か貴方より進献するというがいかなることかと問われ、小生は電報にまで<ヒミツコウ>とあった小畔がなにか洩らせしにやとはなはだ不審に存じおりたるに、昨17日零時半に、16日午後2時出の状を受け取り、また大阪時事の切り抜きを入れあり。・・・秘密ならば絶対に秘を守るべきに、大阪時事通信者に途中で執えられ(会社支店員より洩れたるならん)、右様に吹きたる上は、コッコデルマは大いに評判となるべし。」

南方熊楠は昭和8(1933)年に上松蓊に宛てた書簡の中で次のように書いている。「大王(註:小畔四郎)は福井県庁より招かれ二回行き向い、白山へ上りしもさしたる珍品なく、先はArcyria praestigiosa Koaze(小生命名)なる一新種くらいのものなりしが、県庁受けが甚だ宜しく、今回礼金をくれたるに一切の旅費を差し引いて百七十二円残りしとかにて、昨日百円小生へ送られ候」。

南方熊楠は1936年11月7日付けの上松蓊宛書簡で次のように述べている。「大王(註:小畔四郎)粘菌の図記なかなか上達致し候。先年鹿児島の粘菌ことのほか聖慮に合い候由にて、そのときの鹿児島県知事が今広島県知事たり、八月九月の候、小畔氏を招致しいろいろ指導の末、県下の教員を総動員し採集せしめたるところ、驚くに堪えたり、小生方へ送来せし標品ただ十点ばかりの内に二千七百八十番というのがありし。おそらくは三千点も集まりしことと察し候。大王の妻子三人神戸に踏み止まり、ルペーにてよい加減にこれを淘汰し、さて大王九月中これを精査し図記を作りて小生へ十点ばかり贈り来たる。小生いろいろ助言の上、冊子に印刷し標品に添えて、大演習前広島県江田島に御駐輦中、県知事よりこれを進献せし由。・・・小畔氏の鹿児島、広島の分発表の直後、貴殿在来の集品図説を朝比奈博士の雑誌かまたはニューヨーク植物園の報告にて、来春中に出すべく候。」

平野威馬雄(1944)は1936年4月8日付けの、次のような大阪毎日新聞に掲載された小畔の談話記事を紹介している。「粘菌の名は畏れ多いが、聖上陛下の御研究を俟って有名になった。・・・面白いのはこの研究が沿革的に専門学者の研究室以外の、アマチュアの<変り学>として進められてきたことで、現在その一人者といわれるリスター女史は英国の百万長者で、世界菌類学の大家A・リスターの娘だが、その他会社の社長、弁護士、僧侶といった顔ぶれが多く、学者もあるにはあるが、その業績はとてもアマチュアの敵ではない。と、いうのは粘菌というものは全く経済的価値がゼロ、人間にとって毒でも薬でもない。だから教壇にとり上げる必要がない。だからアマチュアの一義的な好学心に待つほかない、というわけだ。・・・今日発見されている粘菌は、世界中三百二、三十種あるが、英国の二百余種、米国の二百二十種に対して、日本にある種類は未発表のものを合わせて二百四十余種に上って居る。そのうち半数は南方氏の発見、また四分の一が私の発見、残り四分の一が十五、六人の研究家の業績となっている。その研究家には、聖上陛下の御研究にお相手役の光栄を持つ服部博士、学習院の江本博士、台湾の中沢博士、東京帝大の朝比奈、石館、落合各博士、鹿児島高農内藤教授など、すべて学者としての本職以外の研究である。・・・日本は私の考えでは世界一の粘菌国だと思う。と、いうのは気候が粘菌向きだし、それよりも原始林や処女林が比較的保存されているからだ、たとえば私がやっただけでも、福井県を踏査して新種五つを発見したし、昨年は鹿児島県で変種もこめて十種ほど新しい収穫があった。こんなふうで調査が進めばまだまだ世界的新種は出てくるはずだ。だが同時に文化の進みにつれて採取が困難となり、種ぎれになるおそれがないとはいえない。そこで私達の粘菌に対する努力の目的は二つになる。一つは調査研究、他は現在採取した標本の後世研究の資料とするため永遠に保存するということだ。その為に私は現在二万五千−三万の粘菌を持ち保存の為に苦心している。・・・ただ恐ろしいのはカビと虫だ。だから、私は東京の家族と別れて標本貯蔵に一番適している乾燥地の神戸に独身生活を甘んじている。そして粘菌のためには茶を呑む五分間でも惜しいほどの思いだ。」

平野威馬雄(1944)は次のような昭和11年10月31日付けの『神戸新聞』の記事を紹介している。「素人粘菌研究家として有名な石原産業の小畔氏が、過般大阪高島屋をして図案を作成せしめ、これをネクタイに応用、遂に成功したので同店をして9種27本を謹製せしめ、これを、聖上陛下江田島兵学校行幸の御砌り、出光同校々長を通じ天覧に供したところ、陛下には自然生物を図案に応用するは非常に興味あることと御感あり、同ネクタイ全部を御召上げ遊ばされ給うた旨、28日出光校長から通知があった。同氏は、昭和4年、陛下神戸行幸の御砌り軍艦長門で粘菌に就て御説明申し上げ、今又粘菌を図案に応用しネクタイ模様に新機軸を開き、重なる光栄に浴し、深く感激している。」

平野威馬雄(1944)は1936年9月30日付けの『神戸新聞』の次のような記事を紹介している。「しめきった硝子戸の内を覗きこんだ。なるほど粘菌は暗いところに出来るんだなと奥まで目のとどいた時、モクモクと白いものが動きそれに手足がつき顔が乗り、動いて来たのが小畔四郎氏の全裸体に猿股のついた姿だった。さっそくこっちも上衣を取る。シャツにネクタイは畳み込んでしまった。裸体は小畔氏の師南方熊楠氏と同じく微分子の微分子粘菌研究家のタイプなのである。<この箱が献上見本の粘菌、見たまえ>。拡大鏡の中は実に褐色の大森林だ。異様な美観。<こういう順序に採集選択分類する>。ウルトラパークの顕微鏡をのぞく素裸の小畔氏の肌がシャツを着た体にふれると人並のこちらが妙に恥しくなる。此処はミリの百分の一ミクロンの世界。・・・いま、小畔氏のもとに三千種の粘菌が広島より献上品指揮のため送られている。氏も採集のため出張せねばならぬ寸刻を惜しむ時だった。」

原紺勇一(1998)は、1936年に広島県産変形菌の調査に参加した、当時広島市第一高等小学校訓導であった横山宗登の次のような言葉を記録している。「小畔四郎先生は船会社の社長さんで、チョークを持って教壇に立つ先生ではありませんでした。先生のお宅は神戸のとても大きい自宅で、奥さんと子供さんは東京で勉強していらした(子供さんのお世話をなさっていたと思います)。標本はホコリが一番いけないものですから、先生の研究室や寝室は掃除を許されませんでした。人がいることが一番ほこりを立てるので、訪問なども許されませんでした。私もお宅に泊り込んで仕事をしましたが、ホコリは大禁物で動作もお流儀でやらねばなりませんでした。先生の寝床も上げ下ろし一切なしの万年床でした。でも、ふつうのオッサンよりきれいでした」。

南方熊楠は1936年11月4日付けの上松蓊宛書簡で次のように書いている。「広島県では小学教員等を総動員して二千七百八十点も蒐集せしめ小畔氏一家四人総がかりにてしらべ、最後に小生校閲せしも、新品と申すべきは纔かに六点、其内確かな新種は一点。従前新種か新変種か分らざりしもの、今度完全なる品を得て愈よ新種と定りたるもの一点、新変種四点(この内一はあるいは新種かも知れず。)むやみに多く集むるのもよい加減なものと分り候。」

広島県編(1936)の「広島県産粘菌」には次のように書いてある。「本県下に於ける粘菌は、昭和二年一月小畔四郎が、厳島の山林中よりTrichia verrucosa Berk.ほか十二種を採集し、その他数人の採集を聞くも、未だ全般の状態を知るに由無かりしをもって、本年七月より十月初めに至る約三ケ月間にわたり県下全般の調査を試み、採集数三千余点を検査の結果、下記の成績を得たり。28属109種38変種。上記の中未だ世に知られざるものは、新種3(Physarum属1、Diderma属1、Arcyria属1)、新変種2(共にPhysarum lilacinum種)にして、其の他希品数種を得たり。厳島島内のみに得たるもの、60種17変種に達し、其の中希品と称すべきものも少なからず。本年夏季、本県の天候は粘菌採集に適せざりしにも拘わらず前記の成績を得たるを以て、蓋し本県は粘菌豊富の地と云うを得べし。」

南方熊楠は1937年6月1日の上松蓊宛書簡で次のように書いている。「昨日小畔氏より来信あり。小生は初耳乍ら元日の夜、氏の東京宅失火焼亡し了り、粘菌焼失せる由(但し陣笠品のみ)・・・小生もよい加減に見切りをつけ、早く粘菌譜を(小畔氏の分から)出板し、朝比奈博士の雑誌へ小畔の分を出すにつづき、ニウヨルク植物園より交渉ありしを幸い、貴下等の分の粘菌と自分の帽菌と淡水藻を同植物園の報告で出板し、自分専門に非る嚢子菌以下と地衣、輪藻等は分らぬ分は同園で審査しもらい、小生で分った分は校閲しもらい、自分の所見通りなる分は自分の名、多少の校閲を経るものは校閲した学者と小生の連名、その他は小生発見の旨を明記して彼方の学者単独の名で発表せしむる事にかかるべく候。」

小畔が昭和23(1948)年1月31日に菊池理一に宛てた手紙には次のように書いてある。「小生貴地に参上につき、食事向きまでご配慮のこと千万有難く感謝致します。数日の滞在では十分のことできませんが、一カ月、六カ月となるとご迷惑でありはせぬかと存じますが、如何ですか。実は小生、本一月限りで失職(公職追放)となりましたので、今後は粘菌に一生を打ち込むことにして、着々進行しております。神戸に標本の全部と諸書類の大部を置きましたが(東京は戦災全滅)、そのうち東京でできる範囲の調査資料をおいて、今寸暇を惜しんで進渉しておる次第ですが、どうしても好適の採集地で、発生やその環境などを詳細研究致したいので、貴地のごときは、それには最も適当かと思いますから、お言葉に甘え罷り出でたく、楽しみでおります。なにとぞ貴ご都合お洩らし下されたし。」

菊池理一の長男の勉は、小畔が那須で過ごした頃の思い出を、1999年に次のように書いている。「外国製の紅茶を出され、ご馳走にあずかりました。紅茶へブランディを数滴いれることにより、豊潤な香と味がでることを教えてくれましたことがなつかしく思い出されます。・・・先生は採集用のノミとか剪定鋏、ナイフ等は、いずれも外国製のすばらしいものを使用されておられました。そのいずれにも赤色の長い房付きの紐を使用して、もし紛失しても直ぐ発見しやすいようにしておられるようでした。」

中川九一(1981)は昭和23年の採集会のことを次のように書いている。「小畔さんはかくしゃくとして足腰も強く、山登りは我々と全く変わらなかったが、視力の減退は争えず、山頂近く大きな倒木にPhysarella oblongaがびっしり生えている所へどっかと腰を下ろし休憩されるので、<先生oblongaですよ、oblongaクッションの座り心地は如何ですか>と言ったら初めて気付かれ、<イヤ・・・これは君オブロン木だね>というようなこともあった。」

菊地理一は昭和26(1951)年の小畔四郎の追悼文の中で次のように書いている。「私が先生に直接お教えを乞う光栄に浴し得ましたのは、大正15年落合英二博士のご紹介により、爾来絶大なるご指導をかたじけなくして、今日に至ったものであります。すなわち二十有六年間の久しきにおよびました。その間、私に垂れたまわりしご温情は、一に社会人としてのありかたと、二に科学者としての心構えとでありました。ここにその事例を列挙するご無礼はあえて致しませんが、ただ那須野ケ原の一角に、半年を私のために、先生の貴重な時間を空費されながら、ご指導くだされし当時の思い出として、一、二例だけをお許し願いとうございます。先生には昭和23年6月19日から11月19日に至る満半年にわたり、愚輩のため、また家族のためご教導下さいました。しかも、あの最も不完備きわまる開拓地において、いかなる粗食に対しても、<これはなかなか美味だ>、<珍しい>、<初物だ>、<食物というものは、必ず、それぞれの味を有するものだから、一つ一つ生かして、味わうべきです>、など申され、そして、食後は必ず、一時間にわたって、色々有益なるお話をして頂けました。この一時ほど我々一家に意義あらしめたことはありません。月並みな言葉かはしれませぬが、団らんとはかくあるべきことかなと、思いのまま味わいひたることができました。妻は先生には相済まないと申し続けておりました。無分別な子供両人も、それ以来ぴったり食に関する限り、不平を言わないようになりました。<今日も良きお話を承った。どうして先生はかくもお話がご豊富なのかなァー>と、両人おそれいりながら、食後の一時を待ち通した次第であります。」

中川九一(1996)は小畔の標本などについて次のように述べている。「(小畔)先生の未亡人ふみ子氏は、この時(昭和46年)すでに89才の高齢に達しておられたにも拘らず、気丈にも<洗足のうちの粘菌標本に異常がないかどうか、一度中をよく調べてみて下さい。カビや虫つきなどの異常がなければどこか博物館のような所へ納めましょう>とのことだった。日ならず調査に伺った結果、紙製標本箱にアラビアゴム糊で固着し、ナフタリンで防虫し、更に外を鉄板ブリキ箱に納められた標本は美事な状態で確かめることができた。当初菊池理一さんも健康であったので、二人で整理を始める予定であったのに、その菊池さんが同年7月29日癌の悪化により他界を急がれてしまった。それ以来、(小畔)先生の孫の光一氏の協力の下に、洗足の小畔標本庫より逐次国分寺市中川宅に移しつつ、昭和53年9月漸く一応の整理を終わることができた。記録標本数約16000点余、記帳ノートブック48冊であった。」

小林勝 (Kobayashi Masaru, 1896-1981)

[変形菌に関する業績] 1930年頃に若干の南満州産の変形菌を採集し、他の採集者の標本とともに江本義数に送った。論文は江本(1931、1933)が発表した。また1952年と1962年には福島県産変形菌を江本に送り、江本(1964)が福島県産変形菌として発表した。
[略歴] 明治29年8月23日、福島県大沼郡高田町字安田の農家の長男として生まれた。会津若松にある私立会陽義塾を終了し、北会津郡大戸村小学校の准教員となった。大正3年、18歳のときに福島県師範学校本科一部に入学。大正7年同校を卒業し、北会津郡川南小学校訓導となる。大正10年、文部省検定試験(植物科)に合格。大正11年、福島県立白河中学校へ博物学教師として赴任。この学校に在職中に結婚し、文部省検定試験の生理衛生と動物科に合格した。この時の生徒の一人に竹類の研究で有名な鈴木貞雄がいたという。昭和2年には満州の大連一中に赴任。この学校在職中には様々な植物を採集し、種子植物は大井次三郎と北村四郎と北川政夫に、シダ類は田川基二に、コケ類は笹岡久彦と外山礼三に、変形菌類は江本義数に送って同定されたという(註1)。とくにコケ類は笹岡を介して英国のDixonに送られ、彼の標本をタイプとして12種が新種として発表されたという。昭和17年、鞍山中学校教頭、昭和18年にはチチハル中学校々長となった。この学校に在職中にソ連軍が侵入して略奪し、三万点を越す植物標本などは中国軍が持ち去った。また、長男と次男は栄養失調と敗血症で死亡したという。昭和21年に帰国。昭和22年、福島師範学校教授、昭和25年、福島大学学芸学部講師、昭和32年、同校教授となり植物分類学と形態学を教えた。昭和34年、視力低下と体力衰弱のため同校を退職。昭和41年、私立緑ケ丘女子短大教授となる。昭和49年、同校退職。昭和56年4月5日、85歳で老衰のため死去。

江本義数(1933)は「日本に未だ知られなかった変形菌に就いて」の中のモモイロモジホコリについて次のように書いている。「本種は一昨年小林勝氏が筆者に送付せられた南満州産の標本を調べたとき、旅順老鉄山のカワラボウフウ、禾本科植物の葉または葉柄上に発生したものについて命名記載したものであるが、その後大連でダイレンシダの葉または葉柄に発生したのも知られた。

江本義数(1934)は「満州産変形菌に就いて」の中で次のように書いている。「満州産の変形菌に関しては1931年にSkvortzowが、北満ハルビン、二道江子及び臨江県付近で採集した29種を報告したのが最初のもので、次いで江本が大連の小林勝及び北川政夫両氏から南満産標本を得て、同年に17種を報告し、更に上記小林勝、安東の藤田謹次及び奉天の福田八十楠諸氏から再び材料の送付を受けて1933年に26種を報告する事を得たのである。」

小原敬(2003)は1月15日付けの「茅ヶ崎自然の新聞」の中で次のように書いている。「筆者(小原)は1928年から1949年まで南満州に住んでいた。当時在満日本人生物研究者の間では、年間降水量が少ない南満州には変形菌は分布しないだろうと言われていた。ところが、そのころハルピン在住の白系ロシア人生物学者スクヴォルツオフ氏が、北満州の変形菌を調査研究し、フィリピンの博物学雑誌に発表した。白系ロシア人とは、ソ連の十月革命の時、帝政ロシアを支持した人たちのことである。このことは在満日本人研究者の間に大きな衝撃を与えた。大連第一中学校(旧制)の生物担当であった小林勝先生は、このことを教室で話された。それを聞いた生徒の一人であった渓正夫(たにまさお)氏(のち松田に改姓)は、校庭の落ち葉の下から変形菌を見つけて小林先生に報告した。松田氏は富山高校(旧制)在学中に父親を亡くされた。筆者の父・小原敬介が所長をしていたことがある南満州鉄道株式会社(満鉄)熊岳城農業実習所を卒業され、満鉄中央試験所有機化学課有機試験室で元素の微量分析を担当されていた。植物に関しても非常にくわしかった。筆者は中央試験所に勤務していた折、昼休みには毎日のように松田氏の研究室をたずね、植物について色々と指導を受けた。昭和天皇が那須で採取した変形菌を取りまとめた服部廣太郎先生の著者を見せて頂いたこともある。また、戦後、横浜国立大学の教養学部や教育学部の教授であった北川政夫先生が、学生時代に大連に帰省された時、変形菌の調査をされたということも伺った。1934年ごろ、第一次満蒙学術調査が行われた。この調査で植物学関係を担当されたのは、東京帝国大学理学部植物学科の中井猛之進教授、本田正次助教授、北川政夫理学士であり、その報告書には、変形菌のムラサキホコリカビ類が一種、掲載されている。

小林義雄 (Kobayasi Yoshio, 1907-1993)

[変形菌に関する業績] 1950年に日本人として初めて変形菌に寄生する菌を報告した。大台ケ原山産のヘビヌカホコリに寄生したその菌は、新種Hymenostilbe glandiformis Y. Kobayasiと命名された。また、南方熊楠の菌類標本の整理・研究にも携わった。
[略歴] 1907年5月17日、熊本県で生まれた。1911年には家族が東京に転居したため、以後関東で成長し、東京帝国大学理学部植物学科を卒業した。その後は東京文理科大学の草野俊助教授のもとに助手として勤務。1931年以後、アリューシャン列島、サイパン、トラック、ポナペ、小笠原諸島などを調査。1940年、冬虫夏草菌の研究で学位を得る。1941年、満州国々立博物館推任官となる。1947年に帰国して国立科学博物館に勤務。1956年には日本菌学会が創立されたが、その創始者の一人でもある。1967年より同館植物学部長となる。1968-1969年度の日本菌学会会長。1972年には国立科学博物館を退職し、船橋市の自宅に小林菌類研究所を開設して研究を続けた。1972-1976年には国際菌学連盟副会長をつとめた。1982年、日本菌学会名誉会員となる。1993年1月6日、85歳で死去。彼の研究は多岐にわたり、記載した新分類群は1科2属80種以上であるという。彼は上記の他に世界各地に調査旅行に出かけ、オーストラリア、ニュージーランド、ニューギニア、ヨーロッパ、アフリカ、旧ソ連、北米、南米、ヒマラヤ、インドネシア、アラスカ、台湾、北極圏、南極圏などを調査したという。

小林は小林・清水(1983)共著の『冬虫夏草菌図譜』の序文に次のように書いている。「小林が50年間続けてきたこの研究は、本年春にいちおう完成することができた。・・・日本では明治より大正、昭和の初めにかけて、梅村仁太郎、原摂祐、川村清一らの諸先輩が、この菌類(註:冬虫夏草菌)に大きな関心を抱かれ、二、三の業績を残された。またペッチ氏は今世紀の初めより、セイロン島のぺラデニヤ植物園にあって研究報告を発表し、1948年までに35篇を発表した。しかし、残念ながらその年の秋に逝去された。」

小松崎三枝 (Komatsuzaki Sanshi, ?-?)

[変形菌に関する業績] 大正時代頃に四国産変形菌を採集し、安田篤らに送って同定された。また自身でも論文を発表した。
[略歴] 不詳。茨城県師範学校卒業後、文部省検定試験で植物科の免許状を得たと言われている。明治40年愛媛県師範学校教諭となり、大正7年滋賀県師範学校に転勤したと言う。

安田篤の「菌類雑記(63)」の中のホコリタケモドキ(現在のマンジュウドロホコリ)の項には「伊予国松山に産す、大正五年十月五日、小松崎三枝氏の採集に係る」とあり、これが記録にある四国で最初の変形菌の記録であろう。また、変形菌ではないが、「菌類雑記(70)」のガマタケ(Polyporus Komatsuzakii Yasuda, sp. nov.)(1917)の新種記載文には、「学名の種名には、本邦最初の発見者、小松崎三枝の姓を付し」とある。また同論文のカゴメホコリカビ(現在のクモノスホコリ)の説明文には、「伊予国松山に産す、大正六年六月二十五日、小松崎三枝氏の採集に係る」ともある。

佐々木甚英 (Sasaki Jin'ei, ?-?)

[変形菌に関する業績] 東北地方の変形菌を採集し、小畔四郎らの手で標本が昭和天皇に献上された。
[略歴] 不詳。

菊地理一より佐々木へ宛てた昭和4(1929)年の手紙には次のように書いてある。「貴兄昨年八月二十五日豊間根村にてご採集の(今年六月二日献上申し上げたる)粘菌は新変種なる由、次のごとく本日南方熊楠先生よりご通信これあり候間ご一報申し上げ候。南方先生ならびに小畔先生は、貴兄、中川、永沢のご三君に対し非常に期待致しおり候。この夏小畔先生ご来宇(宇都宮のこと)の節、貴兄方のご活動を聞かれ候。以上の次第なれば、なにとぞ粘菌方面のご研究も将来ご努力願い上げ候。南方先生のご文面そのまま、<前日進献せしTrichia alpina Meylanは従来なき珍品にて佐々木甚英氏の発見なり。貴下この人の住所ご承知ならばこれは来年ロンドンにて発表すべきTrichia alpina Meylan var. Hemitrichia Minakata et Sasakiとなしおく旨ご伝達を乞い奉り上げ候>、以上のこと申し参り候間、貴兄より直接先生へ単にお礼状今後のご指導とを懇切にお認めの上お出しなし下されたく候。」

佐藤清明 (Sato Kiyoaki, 1905-1998)

[変形菌に関する業績] 岡山県産の変形菌を採集して小畔四郎や南方熊楠らの同定などを受け、リストをリムルス学会に発表した。これはガリ版刷りであるが、かなり多数の変形菌が記載されている。
[略歴] 明治38年5月9日に岡山県浅口郡里庄町里見に生まれる。1923(大正12)年、金光中学校(現、金光学園)を卒業し、第六高等学校助手をしながら教員免許を取得する。大正14年、福岡県小倉中学校の理科教師となる。ほぼ1年後に結核を患い帰郷する。昭和6年、清心女学校(現、ノートルダム清心学園清心中学・清心女子高等学校)の教師となり岡山市に居住。昭和8年に結婚し、二男一女をもうける。その後、清心女専・清心女子大講師、岡山県立保育専門学校・岡山県立岡山工業高校・関西学園高校・岡山労災看護学院非常勤講師などを務める。昭和20年、里庄町に帰る。昭和23年、岡山県文化財保護審議会委員となる。昭和26(1951)年には倉敷昆虫同好会の設立に尽力する。昭和26年から43年まで岡山女子短大講師。また昭和37年から47年まで作陽女子短大講師、昭和33年から60年まで岡山大学農学部講師、昭和45年から49年まで同大学医学部講師、昭和50年から58年まで同大学薬学部講師などを務める。その間の昭和52年、岡山県知事から同県私立学校永年勤続表彰を受ける。昭和53年、文化庁長官功労賞受賞。昭和54年、私立学校連合会理事長表彰。昭和55年、勲五等双光旭日章受賞。昭和58年、山陽新聞賞受賞。その間には岡山県土地利用開発審査委員、国土利用開発審査委員、自然環境保全審査委員、緑化推進審議委員、ふるさと村研究審議員、吉備路風土記の丘開発委員、岡山博物同好会会長、倉敷昆虫同好会顧問、岡山自然愛護協会会長などをつとめる。平成10(1998)年9月17日、93歳で逝去。趣味は華道(池坊流)であったという。著書に『博物科叢話』(文京書院)、『岡山県博物風土記』(山陽新聞社)、『岡山県植生図』(文化庁)などがある。

佐藤は『博物科叢話』で次のように書いている。「聖上陛下は畏くも夙にこの粘菌学に最も趣味を有し給い、多数の新種をも御発見遊ばされている。中にもデイデルマ・イムペリアリス・エモト、ヘミトリキヤ・イムペリアリス・リスター等の如きは世界独歩のものであり、且つ種名には畏くも御発見の意味が記入されている。」

澤田兼吉 (Sawada Kaneyoshi, 1883-1950)

[変形菌に関する業績] おもに台湾の変形菌を採集し、標本の一部は小畔四郎らによって昭和天皇に献上された。
[略歴] 岩手県盛岡市上田東組裏132で明治16(1883)年12月26日に生まれた。明治36(1903)年、岩手県立盛岡中学校(現、盛岡一高)卒業。同年、盛岡高等農林学校の山田玄太郎教授の植物標本製作助手となり、以後は早地峰山など、岩手県産の高等植物の標本を採集する。明治41(1908)年、台湾総督府農事試験場の植物病理学担当の技手となる。大正3(1914)年には宮部金吾によって命名されていたウドンコ菌を新属Sawadaea Miyabeとして正式に記載した。大正9(1920)年、台湾総督府農事試験場の植物病理学部長心得となる。昭和2(1927)年、台北高等農林学校教授。昭和6(1931)年、台北帝国大学司書官(図書館長)。同年に『台湾産菌類目録』を出版し、その中に中沢亮治の「台湾産粘菌類目録」を再掲した。昭和16(1941)年、勲四等瑞宝章受賞。昭和17(1942)年、台北帝国大学司書官を退職して理農学部講師となる。昭和22(1947)年、帰国して盛岡農林学校嘱託となる。この頃には台湾から持ち帰った文献を古本屋に売り払った金で標本台紙やラベルを買って、植物標本を整理したという。昭和23(1948)年、林業試験場好摩分場助手となる。昭和25(1950)年4月17日、67才で脳溢血のため逝去。

柴田桂太 (Shibata Keita, 1876-1949)

[変形菌に関する業績] 変形菌を採集し、一部の標本は小畔四郎らによって昭和天皇に献上された。
[略歴] 若年期不詳。明治32(1899)年、東京帝国大学理科大学植物学科卒業。この時に明治天皇が卒業式に行幸され、柴田を含む優等生に銀時計を下賜されたという。同年日本で初めて細胞性粘菌ムラサキカビモドキ(Polysphondylium violaceum)の発生を『植物学雑誌』に発表した(註1)。翌年にこの種は『新撰日本植物図説・下等隠花類部』に図説された。明治40(1907)年、一高教授となる。明治41(1908)年、東北帝国大学農科大学の第二講座(植物生理学)の担当となった。明治43(1910)年、東京帝国大学講師となり、同年ライプチヒに留学、またブリュッセルで開催された第三回国際植物学会に出席した。明治45(1912)年、帰国して東京帝国大学の助教授となった。大正7(1918)年、同大学教授となり第二講座(生理学)を三好学と分担し、第三講座(形態学)を藤井健次郎と分担した。同年、「植物界におけるフラボン体の研究」で帝国学士院恩賜賞を受賞した。大正11(1922)年、『Acta Phytochimica(植物生理化学雑誌)』を創刊する。大正13(1924)年、植物生理化学講座が増設されて担任となり、第二講座を分担した。大正15(1926)年、米国コーネル大学で開催された第五回国際植物学会議に出席。昭和13(1938)年、62才で定年退官。昭和13(1938)年と14(1939)年には日本植物学会々長。昭和14(1940)年、帝国学士院会員となる。昭和16(1941)年、資源科学研究所の初代所長となった。昭和17(1942)年から昭和20(1945)年までは再び日本植物学会々長となった。昭和24(1949)年11月19日死去。細胞呼吸など生理化学の開拓者として評価されている。

小林義雄(1962)は次のように書いている。「草野(俊助)先生が東大の植物学科を卒業せられて間もない1899年の夏の話である。その頃、同級の柴田桂太博士が三好教授の指導下に生理の実験をして居られた。偶々実験材料に選ばれた小石川植物園内のモミジの樹幹にイヌノフグリを拡大したような異様な菌を発見し、当時の草野学士に伝えた。これが変形菌類中の珍種チチマメホコリの発見の機縁である。爾来半世紀の間、この菌は日本の誰によっても再び採られて居らないようである。外国でも稀品に属し、Macbride & Martinによれば変形菌中で最大で、最も著しい種であり、ミシシッピー峡谷ではサトウカエデの切株につくとある。ところで日本に於ける最初の発見から丁度50年経った1949年8月20日に、草野先生は福島県相馬郡八幡の御自宅でモミジの上で再び見出だされたのである。」

昭和天皇 (Showa Emperor, 1901-1989)

[変形菌に関する業績] 東京の皇居や栃木県那須や神奈川県逗子などで変形菌を採集し、服部広太郎御用掛の助言や援助を受けて研究を進められた。その後、南方熊楠、小畔四郎、江本義数などを中心とした変形菌研究者の標本献上や同定で、いっそう研究を深められた。その過程で得た日本新産種などを含む成果の発表は、服部と江本に任された。また発見された新種や新変種の記載については、Gulielma Listerと江本に委ねられた。献上標本の保存なども含め、日本における変形菌の分類学上に残された業績は大きい。昭和天皇が発見され、他の学者によって正式に記載されたものは次の5新種3新変種で合計8品である。オオミマルウツボホコリ(G. Lister 1933、那須産)、アミクビナガホコリ(Emoto 1929、逗子神武寺産)、ミカドホネホコリ(Emoto 1929、逗子神武寺産)、ハイキラボシカタホコリ(G. Lister 1933、那須産)、コウキョカタホコリ(G. Lister 1931、皇居産)、オオギミヌカホコリ(G. Lister 1929、赤坂離宮内苑産)、スミレヒモホコリ(G. Lister 1931、那須産)、ナスフクロホコリ(Emoto 1931、那須産)。また、次の5種は昭和天皇採集の日本新産品と認められている。リスポードスワリホコリ(那須産)、ハーベイイトホコリ(那須産)、ホソコホコリ(那須産)、チョウチンホコリ(赤坂離宮内苑産)、カワリモジホコリ(赤坂離宮内苑産)。
[略歴] 明治34(1901)年4月29日、皇太子よしひと嘉仁親王(のちの大正天皇)とさだこ節子妃(のちの貞明皇后)の第一男子として誕生し、みちのみや迪宮ひろひと裕仁親王と命名された。慣例に従い、生後70日目にご養育掛・海軍中将川村純義伯爵邸に預けられた。明治38年、伯爵の死後は青山の皇孫御殿に移った。明治39年、学習院幼稚園入園。明治41年、学習院初等学科に入学した。当時の院長は乃木希典大将であった。明治45年7月30日、明治天皇が59才で崩御され、嘉仁親王が32才で即位して大正と改元され、裕仁親王は皇太子となった。大正3(1914)年、学習院初等学科を卒業し、同年開設された東宮御学問所で帝王学などを学んだ。当時の御学問所総裁は東郷平八郎であった。博物学の御用掛は服部廣太郎が任命された(註1)。大正10年、東宮御学問所終了。同年、軍艦香取で訪欧。同年、大正天皇の健康が優れず皇太子が摂政に就任。大正13年、くにのみや久迩宮くによし邦彦王の第一女子、ながこ良子女王(のちの香淳皇后)と結婚し、赤坂離宮が東宮仮御所とされた。大正14(1925)年、赤坂離宮内に生物学御研究所が設置され、服部が引き続いて御用掛を拝命した。大正15(1926)年11月10日には小畔四郎が東宮御所にて変形菌標本を献上した。同15年12月25日、大正天皇が静養先の葉山御用邸にて47才で崩御され、裕仁親王が25才で皇位を継承し、昭和と改元された。昭和3年、赤坂離宮から宮城(皇居)へ転居し、同年宮城内に生物学御研究所を設置した(註2、3)。昭和4(1929)年6月1日、南方熊楠が昭和天皇関西行幸の折、和歌山県寄港の戦艦長門艦上にて御進講し、変形菌標本を献上した。同年6月8日には小畔四郎が神戸にて変形菌について御進講して標本を献上した(註4、5、6)。昭和7(1932)年11月14日、小畔四郎が大阪にて侍従武官を経て変形菌標本を献上(註7)。昭和8(1933)年、小畔四郎らが採集した福井県産変形菌を福井県知事より同県行幸の折に献上。昭和9(1934)年11月12日、伊藤春夫が陛下の北関東行幸の折、群馬県産変形菌を展示して説明し、標本を献上した。昭和10(1935)年、南九州行幸の折、県知事より小畔四郎や江本義数らが採集した変形菌標本を献上した(註8、9)。同年服部廣太郎が陛下の研究をまとめたとも言える『那須産変形菌類図説』を刊行。昭和11(1936)年10月、広島県江田島へ行幸の折に同県知事より変形菌標本を献上。昭和16年12月8日、宣戦の詔書を発表して太平洋戦争が始まった(註10)。昭和17年、皇居内の吹上御苑に御文庫(防空壕)完成。昭和19年には皇太子(現天皇陛下)が日光に疎開した。同年、両陛下は御文庫に移られた。昭和20(1945)年8月15日、終戦の詔書が放送された(註11)。昭和21年には年頭詔書で人間宣言をした。同年から昭和29年まで各県を地方巡幸した。昭和22年からほぼ毎年、国民体育大会に行幸啓される。昭和23年、宮城を皇居と改称(註12)。昭和25年、勅語をおことばと改める。同年から全国植樹祭に行幸啓する。昭和36年、吹上御所が完成し、御文庫から移転する。昭和37年、初の共著『那須の植物』出版(註13)。昭和39(1964)年、生物学御研究所編『増訂那須産変形菌類図説』が出版された(註14、15)。昭和42年、初の著書『日本産一新属一新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討』を出版。昭和43年、皇居宮殿落成。昭和46年、両陛下訪欧(註16)。昭和50年、両陛下訪米。昭和63年、8冊目の自著『相模湾産ヒドロ虫類』出版。同年9月19日、大量吐血され重体になり、緊急輸血。昭和64(1989)年1月7日、昭和天皇崩御(註17)、皇太子つぐのみや継宮あきひと明仁親王が皇位を継承し、平成と改元。

服部広太郎(1922)は「東宮御所内の博物学標品陳列館」の中で次のように書いている。「大正3年の春東宮御所内に東宮御学問所を御開設になりし当時から、爾来数年間余は博物学科の御用掛を拝命した関係上、今回御所内に在る博物学標品陳列館の模様を記述する機会に接した事は、余の光栄とする所である。のみならず此陳列館内には、東宮殿下の御手づから御採集になったり、或は御買上げになった標品以外に、国民が熱誠をこめて蒐集し、若しくは製造して、台覧に供する為に献納した、多数の標品模型の類も陳列せられて居るのであるから、此等の品々が如何に丁重に保存せられて居るか、又之が如何に殿下の御趣味にかない、御愛好の資料であるかを世間に報ずることを、更に欣ばしく想う次第である。・・・要するに殿下は何事にも御趣味深くして徹底的に御修得になる御資性であらせらるる所から、苟も多少御参考の資料となるべきものは、必ず御保存になって決して之を廃物になさる様なことはない。嘗て箱根の山々を御跋渉の折、余も亦供奉の一員に加わり、御採集の植物などに就き、品名用途などを何心なく有り合せの紙片に書き付けて差出したものが、他日御調製になったさく葉を拝見すると台紙にその紙片が丁寧に貼り付けられてあったり、又札紙上のインキが水ににじんで退色したものなどは、其文字の上を御自身で御書添えになったりして迄、御保存になるのを親しく拝見して、如何にも恐縮に堪えない事が多かった。斯様な訳で人々の献上品なども、毎年両三度は係りの者に防腐、防虫等の手入れをさせ、永久に保存されるのは如何にも有難い次第である。」

服部広太郎(1928)は「日本に知れざりし変形菌の一種に就て」の中で昭和天皇の変形菌の観察について次のように書いている。「近年来、赤坂離宮の内苑や、那須御用邸の付近において、主上が御余暇に親しくご採集になり、ご研究室にあってご鏡検になりし種類は、すこぶる多数に上ったがその種類の中には、新種というべきものではなきも、日本の領域に産することが、未だ学術誌上に報告されておらぬ者が、数種あることを拝見した。その著しきものの一種をここに報告するのお許しを得たことは、余が特に光栄に感ずる次第である。その種類はPhysarella oblonga Morganと称するもので、現今では未だ属中ただ1種である。以下少しくその形態を記述して参考に供しようと思う。・・・この菌の変形体は、胞子を蒔いて培養して得たものに、淡黄色のと深黄色のとあった。これから子嚢体が出来上がるまでに約四十三日間を要した。」

服部広太郎(1928)は「側近に奉仕して」の中で次のように述べている。「御実験の目的で動物を飼う時に、主上が御親ら餌を御与えになったり、其生育の状を御親ら御覧になって、御慈しみなさるるのを拝して感に堪えぬ次第である。近くは去る8月15日に、那須の朝日、三本槍に御登山の折、雨を衝いて御帰路に向わせられ、途中から御乗馬に召されて、坂路を御降りになった。然るに此坂路は火山の泥濘に腐植土の混じたもので、雨後に泥濘深くして歩行困難な通路である。馬は蹄を支うるに由なくして兎角滑り勝ちにて、流石に困却せる様をみそなわして、遂に御馬よりおりさせられ、しばし疲れし御乗馬を御労わりになり、ここより御用邸迄はまだ小一里もあり、しかも雨は猶降りてやまず、途はますます泥深くなりしにも拘らず、遂に此悪路を御徒歩にて、御帰還になったことを拝したら、如何に御仁慈の大御心の尊さが窺わるるであろう。聖徳禽獣に及ぶとは之をしも申すのである。」

グリエルマ・リスター(1929)は「日本産ヌカホコリ属の1新種」で次のように書いている(原文英語)。「1928年春、日本の東京にある皇居の生物学研究所の服部博士から、二つの粘菌標本を受け取りました。標本はガラス蓋付きの箱に収められていて、粘菌の特徴を示す顕微鏡写真が付属していました。二つの標本は日本の天皇ご自身によって皇居で採集されたものです。天皇は粘菌を特に研究されていて、フィールドでこの生物を多く観察されているので、偶然の発見ではありません。全ての国の粘菌研究者はこのような著名な仲間がいることに大きな興味を抱くことでしょう。標本のうちの一つはよく成長したチョウチンホコリで、日本産の記録がなかったものです。他の一つはヌカホコリ属の標本で、服部博士が書いておられるように、同定はやや難しいものです。・・・1928年夏、このヌカホコリの追加標本を服部博士から受け取りました。それは以前に採集された胞子を研究室で培養して得られたものです。彼はこう記録しています。<胞子は1928年2月1日に、注意深く殺菌した腐木の上に播かれ、21℃に保たれた。4月11日以降は室温に曝され、4月30日に子嚢体が形成された。>これは完熟品で全ての点で親株に似ています。・・・服部博士から新種として記載する許可を頂いたので、日本の天皇が最初に採集されたことを記念して、Hemitrichia imperialisと光栄にも命名することを提案します。天皇は恵み深くも標本を大英博物館に寄贈されたことを付け加えます。」

原摂祐(1930)は「御聖徳と粘菌」の中で次のように述べている。「聖上陛下には御政務御多端に渉らせらるを特に本県の産業、教育、民情の上に軫念を垂れさせ給い、今茲清和新緑の五月二十八日から一週間の久しきに亘って、鳳輦を嶽南参州に進め給い、特に御釜を牧野原茶園に抂げさせられ、又製茶の工場、農学実習或は牧牛所に臨光の栄を垂れ給いたるは、斯業に従事する者の面目と感激とは絶えて地上に譬うるものは無い。特に陛下に於せられては天城山に行幸の節は、全く生物学者として粘菌の御採集に御従事遊されたとのことである。恐れ多くも陛下の御専門に遊されて在ます、粘菌は朽木や古木の樹皮面、又は蘚苔の間などに着生して居るもので、専門学者の他は極めて採集することが出来ないものである。故に恐れ多き極みであるが、陛下におかせられては、或は樹に御よじ登りになり、又は朽木の下や雑草の間をかきわけて、子細に御採集遊されたとのことを漏れ承ったのである。又内相や知事に対して何くれとなく粘菌につき御物語りあらせられたとそく聞する。其時の御物語りの内にも陛下が賢くも今迄粘菌の新しいものを3種迄も御発見遊されたことや、又粘菌の研究の方法につきても、何呉れと御説明遊されて、粘菌の種類を知るには現今リスターの世界粘菌譜が完全して居るから、之と比較すれば容易にそれを知ることが出来る。尚お同書に無きものはリスター女史が同定すれば、世界の学者は皆認むる状態であると御説明あらせられたと漏れ承った。・・・英国ロンドンにはエー・リスターが世界の大家であった。今は第二世ジー・リスター女史が其衣鉢を受けて居る。日本ではリスターに師事した南方熊楠老がオーソリチーである。かつて欧州大戦の初頭に、ドイツ軍が飛行機襲撃を行うた時に、リスター女史は若しも此粘菌標本が戦禍の為に失われる様なことがあったなれば、世界的の大損害であると云うので、此標本を二分して一部を南方老人に託せられたと云う事は、私が直接同老人から聞いた話である。従って私は粘菌を調査するには、日本位恵れた都合のよい所は他に無いと信ずる。粘菌研究の学者としては、南方老人の高弟に小畔四郎氏があり、服部宮内省御用掛の下に江本義数氏がある。世界に存する粘菌の総数は300余種であるが、此内本邦には43属210有余種発見されている。世界に産するものの3分の2以上も明らかにされて居ると云うが如きは、粘菌を措いては他にはあるまい。又以て陛下の御聖徳の程を偲ばるる。」

グリエルマ・リスター(1931)は「日本産粘菌の新種」の中で次のように書いている(原文英語)。「有難いことに、今春、日本の東京にある皇居の生物学御研究所の服部博士から同定依頼の粘菌の小包を受け取りました。標本は全て天皇陛下ご自身が採集され、調べられたものであると書いておられました。標本は厚紙に貼付されて、ガラスの上蓋付きの箱に収められ、虫害を防ぐためにナフタリンが沢山入っています。送られた4種のうちの2種は今まで記載されていなくて、服部博士から記載するように頼まれました。」

グリエルマ・リスター(1932)は「日本産粘菌の新変種」の中で次のように書いている。(原文英語)「日本の東京、皇居の生物学研究所長の服部廣太郎博士から、昨夏、栃木県那須で天皇自ら採集された興味深い粘菌の標本数点を拝受しました。それはキラボシカタホコリと、マルウツボホコリの変種で、今まで記載されたことがないものです。標本は完全な状態で到着しました。そして細毛体と胞子の顕微鏡写真が付属していました。」

江本義数(1972)は1935年に行なわれた南九州産の変形菌調査について次のように書いている。「昭和年代の初期は、明治、大正年代と同じく秋には国内二、三県を併せて陸軍特別大演習が行われるのが常であり、陛下が御統監なさるのであった。1935年には九州鹿児島、宮崎両県下で行われた。当時陛下は変形菌を研究遊ばされていたので、両県の知事はそれぞれの県内に産するこの菌類を採集して御覧に入れ、献上することになって、鹿児島県には小畔四郎氏、宮崎県には私が採集の依頼を受けたのである。私は暑中休暇を利用して同県に向かった。宮崎市に着いてみると、高校、中学校または小学校の先生方が待っておられ、例の如くに、菌の生活史を一通りお話してから、青島、都井・・・など約一週間にわたって、数人一団となって採集して廻り、暑いので一同ずい分疲労したが、その甲斐あって多数の標本を得た。」

小畔四郎(1935)は昭和天皇の変形菌研究について次のように述べている。「先年静岡県下に御行幸あらせられたとき、現本県知事、白根竹介閣下が当時同県知事で、県下各地にご随行の際、<粘菌は動物でありますか、あるいは植物でありますか>との意味をお伺い奉ったところ、陛下は白根知事にご所信をお洩らしに相成ったとの事で、その事は私は本誌に記載を差し控えたいのですが、私はただ白根知事のお話を伺って、まことに学者といえどもかかるご卓論を為し得る者があるであろうかと恐懼した次第であります。これはただ一つの例に過ぎません。その他色々と承る事に就きましても<御趣味>などと申すは誠に畏れ多い言葉で、日本に於いて果して陛下の御相手となり得る学者は幾人在りましょうか、最早無いのではなかろうかと、心密かに敬畏しておる次第であります。昨昭和8年福井県で御行幸を機とし県下の粘菌を調査し、御参考に供する企てをせられ、同県知事の御依頼がありましたので、御影師範の紅谷君と愚息正秋と数回出掛け、県下の中小学教師や視学連と共に各地に採集しました。幸い収穫が相当あって、採集標本約300余種を天覧に供することとしました。その時私は、聖上のご研究は単に標本をご調査になるばかりでなく、生態や分布や色々と各方面にわたり、極めて細密に自然の状態をご調査に相成る。即ち生物という自然科学のご研究によって、其の地方の産業に特種の関係を生ずる原因とか、又は気候、地味、風土の異なる事が生物に如何なる影響がある等の事まで、ご研究相成るやに気が付きましたので、其の発生状態の写真やら、又全県下を調査しまして得たる粘菌分布の地図に、特種のものの発生地等を記載してご参考に供して置きましたところ、これらは単に天覧の栄を賜わりましたのみならず、全部を御研究所の御参考品として御嘉納あらせられ、県知事は無上の光栄として感激したと承りました。我々生物学の研究に従事するものが、とかく面白半分に標本を集めてその多きを誇ったり、または新種を発見したと云うて、鬼の首でも取ったように自慢をしたりすることは、学問を弄ぶと云うもので真の学問ではない。」

昭和16(1941)年12月8日の太平洋戦争開始に当たっての詔書は次のように発表された。「朕ここに米国および英国に対して戦いを宣す。・・・東亜安定に関する帝国積年の努力はことごとく水泡に帰し、帝国の存立またまさに危殆に頻せり。事すでにここに至る。帝国は今や自存自営のため蹶然起って一切の障礙を破砕するのほかなきなり。」

昭和20(1945)年8月15日に発表された終戦の詔書の一部は次のように発表された。「朕は時運のおもむくところ、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す。・・・よろしく挙国一家子孫相伝え、かたく神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを思い、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操をつよくし、国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。」

田中徳(1949)は昭和天皇の変形菌の採集方法などについて、次のように記述している。「変形菌の採集は那須が多かった。八月になると那須に行かれたが、御採集の日は、すがすがしい朝の九時頃御用邸を出て、側近とくつわを並べて、途中まで乗馬でお出かけになる。それからの山路は危険で、あとの小一里を歩いて行かれるが、そこは御採集に適した余笹沢である。温度や湿度が変形菌に適しているらしく、百種以上の変形菌がこの付近の雑木林の中で採集されている。一行には侍従の他に、助手として顧員がピンセットやはさみ、ナイフ、のこぎり、採集瓶などを胴乱に詰めてお供している。陛下は一休みなさる間もなく、長靴で草深い林の中に入って行かれる。山にはあぶが多く、服の上から刺すこともあるので、これには皆注意している。陛下は枯枝をのぞき、落葉を拾って変形菌を探して巡られる。・・・陛下がうす陽さす木陰にかがんで、熱心にル−ペをのぞかれてから何か発見されると、<これを採ってくれ>と呼びかけられる。助手はナイフで枯木の一部を削り取って、ピンセットで大事に採集瓶に採集する。」

昭和37(1962)年5月23日、昭和天皇は『那須の植物』の出版について記者団に次のように語っている。「今度初めて本を作って恥ずかしいような感じもしたが、みんなも喜んでくれるのでうれしく感じています。」

江本義数(1972)は『那須産変形菌類図説』などについて次のように書いている。「当時は御名で御研究結果を発表されることは全く封ぜられており、御用掛服部広太郎博士の発表の形式となって、『那須産変形菌類図説』となった。そして数年前にこの第二版が御研究所編となった。最近では御名で発表されるようになったことは誠にうれしいことで、『那須の植物』などがそれである。実は<陛下御採集>と記すことも当時は問題となっていた。」

江本義数(1968)は「陛下と変形菌」と題して次のような記事を残している。「陛下は、既に1931年(昭和6年)10月22日LondonのLinneon Society(リンネ学会)の特別総会において、全員一致で同学会の名誉会員に推薦されておられる。その当時はわずかにノーベル賞に関して有名なSweden国王だけであった。そもそも一国の元首が科学されているということは、はなはだ希であって、モナコ国王の海洋学の研究が知られており、生物学に深い造詣をもたれた方は、わが陛下だけと思われる次第で、・・・天下に誇る事柄であると確信するのである。・・・『那須産変形菌類図説』第2版・・・は、やはり御研究所編として公表された。しかも陛下は服部御用掛の米寿を記念されて刊行されたもので、聖慮のあるところ深く感銘したのである。・・・陛下には大正の終り頃から変形菌の研究を初められたと記憶する。赤坂離宮内苑、宮城内苑は申すまでもなく、栃木県日光、ことに那須地域はほとんどくまなく御採集のために足跡を留められ、親しく採集、検鏡あそばされ、既に専門家であられる。そして標本を拝見すると、昭和2年から5年頃に最も盛んに採集されたことが判るのである。・・・かつて軍艦に召されて小笠原父島に御上陸、変形菌御採集ということになっていた。ところが行幸というので変形菌がどういう所に発生するかを知らない人々が自然のままにおく御希望を、森の小径に至るまでただお道筋がよごれていてはとの善意から、全く清掃されてあって、お役にたたなかったという笑うこともできなかった話が残っている。・・・さらに材料を御検鏡あそばされる際、前にお採りになった標本と違う時など、何年何月何日、どこでとったものとこれとは違うと御指摘になるそうで、陛下の御強記には全く恐れ入る次第である」。

戦後の生物学御研究所については江本義数(1972)が次のように述べている。「御研究所は吹上御苑の一角、森林に囲まれた地区で二階建で質素な作りで付属温室もあり、階下南側に御研究室があり、水田も前面にある。階下北側の室には専ら液浸標本、階上には乾燥標本が整理されてある。変形菌標本はもちろんここにあって三千点以上を算し、標本戸棚十個以上に納められ、属を基準にA、B、C順に完全に保存されてある。そしてtype-specimenは別棟コンクリート造の建物に大切に保管されている。これらの標本は日本産はもちろん、支那、南米ブラジル、マレー半島など広地域産のものも含まれている。」

昭和天皇の死去について宮内庁は昭和64(1989)年1月7日に次のように発表した。「天皇陛下におかせられましては、本日午前6時33分、吹上御所