変形菌分類学研究者の紹介(日本)


朝比奈泰彦 (Asahina Yasuhiko, 1881-1975)

[変形菌に関する業績] 台湾などで変形菌を採集し、標本の一部は南方熊楠や小畔四郎を介して昭和天皇に献上された。
[略歴] 明治14(1881)年4月16日、東京府本所林町に旧士族の長男として生まれる。明治20(1887)年、父親の転勤に伴って熊本の一新小学校に入学。明治22(1889)年、東京に帰って本所江東尋常高等小学校へ転校。明治27(1894)年、広島県立第一中学校に入学。明治28(1888)年、東京府尋常中学校(現日比谷高校)へ転校。明治32(1899)年、第一高等学校(現東大教養部)に首席で合格し、第二部工科に入学。明治35(1902)年、同校を卒業して東京帝国大学医学部薬学科に入学。明治38(1905)年、同大学を首席で卒業し、恩賜の銀時計を授与される。同年、大学院に入学し、下山順一郎教授の助手となる。明治39(1906)年には結婚したが、翌年死別。明治41(1908)年、再婚。明治42(1909)年、チューリッヒ国立高等工芸学校のウィルシュテッター教授のもとに留学。明治43(1910)年、薬学博士となる。明治45(1912)年、ベルリン大学のフィッシャー教授のもとに留学。大正元(1912)年、帰国して東京帝国大学の生薬学講座担当の助教授となる。同年、漢薬成分研究で桜井賞受賞。大正7(1918)年、東京帝国大学医科大学教授、学術研究会議会員、日本薬局方調査委員会委員となる。大正10(1921)年、日本純薬研究所設立。大正11(1922)年、勲六等瑞宝章を授与される。大正12(1923)年、ケンブリッジで開催された国際化学会議に日本代表として出席。勲五等瑞宝章を授与される。漢薬成分の化学的研究で帝国学士院恩賜賞を受賞(註1)。武田薬品工業株式会社技術顧問。以後地衣類の研究に力を注ぐ。大正14(1925)年12月から翌年1月にかけて石館守三、緒方正資とともに台湾産の地衣類や変形菌類を採集した。昭和3(1928)年、勲三等瑞宝章を授与される。昭和5(1930)年、帝国学士院会員、日本薬学会名誉会員、日本植物学会特別会員となる。昭和7(1932)年、樺太産地衣類などの採集をする。昭和8(1933)年、『植物研究雑誌』主幹。台湾産地衣類などを採集する。昭和9(1934)年、朝鮮の金剛山の地衣類などを採集。昭和11(1936)年から15(1940)年にかけて『植物研究雑誌』に地衣成分の顕微化学的検出法を発表し、化学分類学の先駆者となった。その間の昭和13(1938)年に日本薬学会会頭となる。昭和14(1939)年、勲二等瑞宝章を授与される。昭和15(1940)年には中国の興安嶺で地衣類などを採集。昭和16(1941)年、東京帝国大学を定年退官し、同大学名誉教授となる(註2)。昭和17(1942)年、ドイツ化学々会名誉会員となる。昭和18(1943)年、文化勲章受賞。昭和21(1946)年、日本薬理研究会理事。昭和23(1948)年、正倉院薬物調査員。昭和25(1950)年、資源科学研究所々長。日本東洋医学会名誉会員。昭和26(1951)年、第一回文化功労者の一人に選定された。昭和27(1952)年、薬理研究会理事長、同研究所々長。昭和36(1961)年には分析化学会名誉会員となった。昭和50年、94歳で死去。

 根本(1966)は次のような記事を書いている。「漢薬成分の研究が帝国学士院恩賜賞の対象に内定したので、(朝比奈)先生は内祝に、生薬教室にビール一樽を寄贈された。・・・教室員では呑み切れないので、他の教室と呑み競べをやろうというわけで、われこそはと酒豪連が乗り込んで来た。ビーカーに満たしたビールを一気に呑み干す競争で、審判官が選手の咽仏を凝視して、勝負を決めるというルールに従って、熱戦の結果、薬化教室の同期の落合英二氏と高橋酉蔵氏が一等になった。」

 根本(1966)は昭和16年4月7日に催された還暦祝賀宴のことを、次のように書いている。「テーブルスピーチで、高木誠司京大教授は、<朝比奈先生の助手をしていた頃、せっかく縁談が持ち込まれても、研究の妨害になるとばかりで、一方的に、"君、断わっておいたよ"と涼しい顔には、開いた口が塞がらなかった・・・>とユーモア交じりに、二十年前の心残りを披露された。次に友人の粘菌学の大家、小畔四郎博士は、<朝比奈先生はマクワ瓜で顔を洗い、それを朝飯にした・・・>と、先生の勿体ぶらない一面を語るものとして、既述の仙台行の車中の出来事を、興味深く弁じて共感を呼んだ」。また、根元(1966)によれば、同年6月23日の薬学科主催の退職記念会で朝比奈は次のように述べたという。「私は中学時代にフランクリンの英文自叙伝を読んだが、その中の<ライフ・イズ・アート>、即ち<人生は芸術なり>という言葉に強く惹かれた。フランクリンはまた言う、<君はもし、同じ一生を再び繰り返すかと訊かれたら、喜んで繰り返すと答える>と。このフランクリンの人生訓に共鳴した私は、それ以来<人生は芸術即科学なり>を座右銘として、その達成を念願とした。」

安部世意治 (Abe Seiji, 1903-1943)

[変形菌に関する業績] 1930年代に東京や高知県の変形菌を採集して一部を報告した。1941年には江本義数と共著で高知県産変形菌の目録を発表した。
[略歴] 不詳。高知県を故郷とする女性変形菌研究者だと言われる。1933年以降に『植物及動物』や『東京文理科大学科学紀要』などに自ら採集した変形菌を材料として、粘菌アメーバの接合や胞子の発芽の研究などを発表した。

安部(1933)は「変形菌の有性生殖に就いて」の中で次のように書いている。「実験に用いた材料は1930年から1932年迄の3年間に、東京市内及びその付近にて採集した変形菌の中から次の5種を選択した。即ちFuligo septica Gmelin (14/VII、1931採集)、Erionema aureum Penz. (20/VII、1932採集)、Didymium nigripes Fries (15/IX、1932採集)、Physarum crateriforme Petch (20/IX、1932採集)、Stemonitis fusca Roth (14/VII、1932採集)である。」

江本・安部(1941)は「土佐産変形菌(第一報)」で次のように書いている。「吾等が郷土、土佐に産する変形菌は未だ世に紹介せられた事がない。そこで他の植物の豊富なことからおして、当地方産の変形菌の研究も面白い事と思い、安部は墓参帰省の折を利用して、昭和六年(1931)からこれの採集を始めた。職務の都合上帰省の時期が毎年大体定まっている事と、帰省できない年もあり、又滞在期間が短いという様なわけで、徒に年数のみ重なって、今日迄の収穫は至って僅かである。・・・尚、江本(義数)は標本全部を検鏡し、又嘗て吉永虎馬氏から江本へ送付された標本数種も、この目録中に加える事にした。この機会に同氏の御厚意を感謝する次第である。」

池野誠一郎 (Ikeno Seiichiro 1866-1943)

[変形菌に関する業績] 明治31年頃に変形菌を採集し、採集品は草野俊助によって発表された。また、明治39年刊行の『植物系統学』の中でMyxomycetesに「粘液菌」という用語を与えた。
[略歴] 慶応2(1866)年、江戸駿河台に生まれる。明治23(1890)年、帝国大学理科大学植物学科(現、東大理学部植物学科)卒業。翌(1891)年、同農科大学(現、東大農学部)助教授。明治29(1896)年、ソテツの精子を発見。明治39(1906)年にはローマ字で『Zikkenn-idengaku』を刊行した。1909-1927年、白井光太郎の後任として東京帝国大学農科大学の植物学講座の教授を勤めた。その間の明治45(1912)年、ソテツの精虫発見の業績で帝国学士院恩賜賞受賞。昭和2(1927)年、帝国学士院会員となる。昭和18(1943)年10月4日逝去。

草野俊助(1899)は「日本産変形菌」の中のジクホコリについて次のように書いている。「昨年七月池野学士駒場農科大学畑園に採集す。」

彼は極度の近眼だったせいもあって、色々な逸話が伝わっているという。篠遠喜人(1988)は次のような話を紹介している。「ある日、銀ブラをするつもりで行けども行けども銀座はなく、あったのは大きな永代橋であったよし。バケツを頭にかぶって雨の中を教室にいったり、洋服に下駄をはいて二等車に乗ったり、シシリーの山ふかく入りすぎて、山にねころび、宿のあるじに心配をかけたりもしたのは(池野)先生である」。また、木原均(1988)は次のような話を紹介している。「1926(大正15)年、私がベルリンでお会いしたとき、(池野)先生は<自分のことでいろいろ話題になっているが、あれは全部嘘である。けれど、一つ本当のことがある。それは土佐を旅行したときのことで、便器をまたぐときに縦にまたいだので、この便所は幅が広いと話したことである。これは本当だよ>と言われた。そのころ土佐ではキンカクシがなかったので縦と横とを間違えられたのであろう。」

石館守三 (Ishidate Morizo, 1901-1996)

[変形菌に関する業績] 変形菌を青森県や台湾などで採集し、標本の一部は小畔四郎らを介して昭和天皇に献上された(註1)。
[略歴] 明治34年1月24日に青森市大字新浜町二十五番戸で生まれた。大正2(1913)年、青森師範学校付属小学校を卒業。大正7(1918)年、青森県立青森中学校卒業。大正11(1922)年、第二高等学校理科二類を卒業し、東京帝国大学医学部薬学科入学、同年キリスト教の同志会に入会。大正14(1925)年、同大学を卒業し、無給の医学部副手となり、朝比奈泰彦教授の指導を受けた。同年12月から1926年1月にかけて、朝比奈と緒方正資と共に台湾に旅行し、変形菌も採集した。大正15(1926)年、教育召集で青森歩兵第五連隊に応召、同年結婚。昭和4(1929)年、勤務演習のため第五連隊に応召。昭和5(1930)年、薬学博士となる。昭和8(1933)年、「樟脳の強心作用の本態に関する研究」で服部報公会賞受賞。昭和9(1934)年に東京帝国大学医学部助手となる。昭和11(1936)年から13(1938)年まで生薬植物化学研究のためドイツ、オーストリア、チェコスロバキア、イギリス、米国へ留学。昭和14(1939)年、東京帝国大学医学部助教授。昭和17(1942)年に同大学教授となり薬品分析化学講座を担当。昭和18(1943)年、「樟脳の強心作用の本態に関する研究」の共同研究で帝国学士院賞受賞。昭和21(1946)年、キリスト教の同志会理事長。日本薬学会賞受賞。昭和24(1949)年、厚生省の中央薬事審議会委員。昭和25(1950)年には米国へ出張する。昭和28(1953)年、ヨーロッパ諸国へ出張。昭和29(1954)年、中南米諸国へ出張。昭和32(1957)年、ヨーロッパやアジア諸国へ出張。昭和33(1958)年、東京大学の初代薬学部長、日本分析化学々会々長となる。昭和34(1959)年、日本薬学会々頭となる。同年、スイスと米国へ出張。昭和35(1960)年、日本学術会議会員、東京生化学研究会理事長。昭和36(1961)年、東京大学を定年退官して名誉教授となる。同年、日本分析化学会名誉会員、東京生化学研究所々長。昭和37(1962)年、日本キリスト教海外医療協力会々長。昭和39(1964)年、日本薬学会名誉会員。日本クリスチャン・アカデミー理事長。昭和40(1965)年、共立薬科大学理事長。昭和42(1967)年にはパリ大学名誉教授となる。昭和44(1966)年、日本食品衛生学会々長。昭和45(1970)年、アジア薬剤師会連合会副会長、日本薬剤師会々長、食品薬品安全センター理事長。昭和46(1971)年、勲二等旭日重光賞を受賞し、米国薬剤師会名誉会員、石館商事株式会社取締役会長となる。昭和49(1974)年、笹川記念保健協力財団理事長。国際薬剤師連合会副会長。昭和52(1977)年、日本癌学会名誉会員。昭和55(1980)年、英国王室薬剤師会名誉会員。昭和57(1982)年、日本薬剤師会名誉会員で顧問となる。昭和60(1985)年、日中医学協会理事長。昭和63(1988)年、青森市名誉市民。平成元(1989)年、日本薬剤師研修センター会長。石館商事株式会社取締役名誉会長。タイ王国王冠勲章受賞。平成3(1991)年、中華人民共和国衛生奨を受賞。大韓民国の国民勲章・牡丹章受賞。平成6(1994)年、アジア薬剤師連合会・特別功労賞を受賞。平成8(1996)年7月18日、東京都杉並区高円寺の自宅にて95才で死去。彼はハンセン氏病の治療薬プロミンを国産化したり、制ガン剤のナイトロミンを創製したりして、上述のように数々の栄誉を受けたと言う。

南方熊楠(1927)のリストでは石館守一がStemonitis confluens(青森市外)、Stemonitis uvifera(同)、Lamproderma echinulatum(八甲田山)、Enteridium olivaceum(青森市外)の四種を日本で初めて採集したことになっている。しかし、原摂祐(1941)のリストでは石館守三がPhysarum columbinum var. umbilicatum Minakata & Ishidate(青森県)、Leocarpus fragilis(陸奥大葛温泉)、Stemonitis confluens(青森市外)、Stemonitis uvifera(同、石館宇三郎と誤記)、Lamproderma echinulatum(陸中八甲田山、石館宇三と誤記)、Enteridium olivaceum(青森市外)を初採集したとなっている。長尾チエ(1955)の論文では八甲田山でLamproderma echinulatumを採集した人物は石館守三となっている。

石館(1981)は東京青森県人会の機関誌『東京と青森』に次のように書いているという。「人はみな自分のふるさとを携えてこの世に来る。人はその与えられた環境によって育つ。与えられたものをいかに受けとめ、それを自分の成長の糧にするかは、その人の器量と選択にかかる。おのれの道をひとりで歩いてきたのではなく、多くの人々の犠牲と恩恵によって今日あるを知る。古里の山河はその揺籃の母である。海や河に魚を追い、春にはわらびを採り、夏にはほたる、秋にはぶどうときのこ狩りに歩いた山野。永い冬には雪と氷に戯れ、厳しい自然との戦いと交わりがある。そこに北の国の人を育てた厳しい父がいる。夜な夜なのいろりの語らいの中に美しい人生の芽生いがある。吹雪の戸を敲く声に、荒海の浪の音に歌がある。津軽三味線の哀調は心の琴線に深くこだまする。孤高を誇る岩木の山よ。みちのくの歴史を秘める八甲田の峰と十和田の湖よ。そこに<あすなろ>の文化が育つ。」

伊藤誠哉 (Ito Seiya, 1883-1962)

[変形菌に関する業績] 変形菌を採集し、南方熊楠や小畔四郎の研究を援助した。原摂祐(1941)によれば、日本でのミダレクモノスホコリの初採集は伊藤誠哉によるものとなっている。
[略歴] 明治16(1883)年8月、新潟市に生まれる。新潟中学校、札幌農学校予修科を終了して、明治41(1908)年、東北帝国大学農科大学農学科卒業。同年、宮部金吾教授の助手となる。明治42(1909)年には助教授となった。その頃に木原均が生徒として在籍していたという(註1)。1909年、日本産のイネ科植物に寄生するサビ菌について論文をまとめた。1915年ウドンコ菌の新属Typhulochaeta Ito & Haraを記載した。大正5〜6(1916〜1917)年には赤星病菌について論文を発表。大正7(1918)年、北海道帝国大学農学部教授。大正8年農学博士となる。大正10年から二年間はアメリカ合衆国、ドイツ、イギリス、フランスに留学。大正11(1922)年に日本産のサビ菌のUromyces類などをまとめた。昭和10年、「水稲主要病害第一次発生とその総合防除法」で日本農学会賞受賞。昭和16年、北海道帝国大学農学部長。昭和18-19年度日本植物病理学会々長。昭和20年、北海道帝国大学総長。昭和25年には日本学士院会員となり、同大学を退官して名誉教授となる。昭和34年、文化功労者に選定される。昭和37(1962)年11月逝去。著書に高名な大著『日本菌類誌』などがある。なお、のちに『日本菌類誌』を引き継いだ大谷吉雄は伊藤誠哉の女婿であるという。

木原均(1988)は次のような話を書いている。「伊藤先生について思い出すのは、先生が学生のとき、英語と国語の先生の排斥運動をされたことである。国語の先生の家に、学生の弾劾文を持って行ったら、読んで即座に、<わかったよ、よく書けている。明日から学校へは行かぬ>と言って、それきりその先生は学校を退いた。もう一人は英語の先生で、排斥を受けたら渡米してしまった由。」

江本・長尾(1960)は「東京大学北海道演習林に産する変形菌類」で次のように書いている。「北海道における変形菌類の採集は、伊藤誠哉・小畔四郎氏等によって行なわれており、南方熊楠・原摂祐氏によって記録されている。」

伊藤春夫 (Ito Haruo, 1910-?)

[変形菌に関する業績] 群馬県や兵庫県産の変形菌を採集して報告した。昭和9年には昭和天皇に変形菌についてご説明し、標本を献上した。
[略歴] 本籍は千葉県海上郡三川村上宿で、明治43年4月5日に生まれる。昭和3年旭農学校(現、千葉県立旭農業高等学校)を特待生で卒業し、宇都宮高等農林学校(現、宇都宮大学)へ入学。昭和6年、同校を卒業して朝鮮の公立実業学校に勤務する。昭和8年より群馬県立勢多農林学校に勤務。昭和9年には小畔四郎らの指導を受けて、「群馬県産変形菌目録」を発表し、同年には昭和天皇の御前で変形菌の説明をして標本を献上した(註1、2)。昭和13年より兵庫県立農学校(現、兵庫県立農業高等学校)に勤務。昭和19年から兵庫県青年師範学校に奉職し(註3)、のち大学改組に伴い神戸大学教授となる。その後、同大学名誉教授、神戸女子大学教授、学校法人須磨学園理事・評議員などをつとめた(註4)。没年不詳。筆者らが会った折に話されたところでは、オロナインH軟膏のHは春夫の意味だと言うことであった。

伊藤(1934)は「群馬県産粘菌目録」の中で次のように書いている。「昭和九年六月より九月の四ケ月間、群馬県下(前橋市郊外、勢多郡、吾妻郡、利根郡)において著者の採集せる粘菌八百余を検定の結果、二十三属・七十五種・二十一変種(異態を含む)総計九十六種を得たり。このほかに新種ならびに新変種の疑あるもの数種ありて目下調査研究中なり。・・・本目録を草するに当り、本校(群馬県立勢多農林学校)校長石田彰氏は著者に採集の機会を与え、調査研究にまた甚大なる援助を賜り、なお小畔四郎氏は標本鑑定の労を執られしのみならず、氏の貴重なる採集目録を貸与せられ、また菊池理一氏は採集その他に援助せらるること鮮かならず。因てここにこれら諸氏の懇切なるご垂教ご援助に対し、満腔の謝意を表するものなり。」

伊藤は昭和9(1934)年に、昭和天皇にご説明申し上げた時のことを次のように書いている。「私は丁度七番目にご説明申し上げましたので、ご説明奉仕の殿を承ったわけであります。ご巡覧の番の来るのをお待ち申し上げている間の私の心の中−−−それは到底筆舌で表現し得ない、全く純真無雑の境地であり、また真剣以外の何物でもなく、ひたすらにご説明の文句が幾度となく一瀉千里、脳裏を彷徨するのみでありました。そして極度の緊張に咽喉は妙に渇れ、背中には汗さえ覚えて身体のおののきを禁じ得なかったのであります。愈々陛下は粘菌標本の前までお進みになりお立ち停まり遊ばされました。金沢知事閣下まず、粘菌標本と私の姓名とを申して下さいましたので、私は陛下の御前に進み出て恭して最敬礼をしたる後、ご説明を始めたのであります。ご説明の要項を記してみますと、次のごとくであります。一、この粘菌標本は本年六月より九月までの四カ月間において、県下の中、主として勢多、吾妻、利根郡の各地において採集したる粘菌八百余を検定の結果、得たる二十三属九十六種および研究中のもの六種、また生態上興味ある標本などであること。二、この中研究中のもの六種については各特徴を申し上げ、新種または新変種の疑いあること、また基本種との比較について申し上げました。三、従来、本県の粘菌に関しては二、三の学者によって採集調査が行なわれたのであるが、未だ何らの学術的発表はなく、従って本目録は本県最初の記録であること、しかも本目録には著者採集品の外、従来採集せる小畔、菊池、上松氏などの採集目録(未発表、同氏らの好意により貸与せらる)を付録としたこと、これによって県下における粘菌の種類および発生分布の概要が明らかにされたこと。四、本県は地理的、地勢上より観て、山岳多く、殊に利根、吾妻両郡のごときは原始林的地帯ありて、粘菌の発生に好適であるばかりでなく、起伏変化に富む所多きによりてか、異態を呈するものが少なくないのである。水上、湯桧曽、藤原などの上越国境地方に特異態を呈するものなど多く産し、研究上なかなか興味が多いと考えられる。今後の研究調査によって、幾多の興味ある事実が発見されることと多大の期待をかけている等。この間、陛下におかせられては、ずっと標本箱の方にご上体をお傾げになって、一々私の指さす標品にお目を向け、いと審らかにご観察遊ばされまして、私の拙きご説明にお耳を傾けさせられて、言葉の句切れごとには、一々<ウン>とか<ソウカ>と仰せられお頷きになり、ご得心のご様子を拝したのであります。ご説明の際、標本の配列はこれを英国のリスター氏の分類式に従って行なった旨申し上げましたとき、陛下には特に玉体を私の方にお向き直り遊ばされて、龍顔をお崩しあらせられたのであります。これはリスター氏のことがお耳に触れて、ことのほか懐かしく思召されたためと恐察致したのであります。このリスターと申すは英国における世界的の粘菌学者でありまして、畏くも陛下ご採集粘菌の中で、いくつかの新種や本邦最初の種などがリスター氏の鑑定を経て決定、学会に発表されたることなどもありますので、陛下はリスター氏のことはご存じなのであります。陛下は自然科学にご興味深く渡らせられ、生物学、特に粘菌についてご造詣深きことは、専門の学者が斉しく敬服致しているところでありまして、実に畏き極みでございます。陛下が粘菌のご研究を始められましたるは大正十四年頃からでありまして、現在までに陛下ご発見の新種は実に十数種の多きに達し、学界に多くの貴重なるご寄与を遊ばされております。このようにご造詣深き至尊陛下の呎尺に侍して、白面の一書生に過ぎぬ私がご説明申し上げるのでありますから、ご下問を賜ったときはどのように致そうか?と言葉遣いも弁えぬ私の心配は一方ではなかったのであります。しかし、幸いにも無事以上のごときご説明を申し上げ、安堵の胸を撫でおろしたのであります。」

伊藤は昭和23(1948)年に菊池理一宛の手紙で次のように書いている。「私、昭和十九年から兵庫青年師範学校に転任し、育種学と病理学、蔬菜園芸学の講義を担当しております。なお、実験農場三町五反ありますので、その方の仕事もやっております。小畔四郎先生には戦前に数回お会いしておりますが、終戦後は全くご無音のまま失礼しております。そのうちにぜひお訪ねしてみたいと念願しています。京都大学には香川先生がおられますので、月に一、二度はお邪魔しております。先生とご一緒に和紙研究の方面をやっています。香川先生も拙宅には時折ご来遊下さいます。繊維植物の品種改良、糊麻の研究などに従事しているわけです。粘菌の方はサッパリ不勉強で汗顔の至りです。昭和十七年以来視力障害で、眼の酷使を極度に制限されましたことと、戦時中およびその後も食料増産関係で公私ともに多忙に取り紛れ、なかなか機会が得られません。なお標本も過般の水害で全部駄目にしてしまいました。返す返すも残念至極です。貴殿には最近粘菌ご研究に好適の境遇と環境に恵まれたる由、何よりとお悦び申します。中川(九一)兄も近くにお勤めのこととて、今後何かとご連絡の上ご研究に好都合のことと思います。今後微細気象と粘菌との関係について種々ご研究をお進めになられる由、永年のご宿望を存分に満たされますこと、そしてご成功を祈っております。私も余暇を見て、及ばずながら採集致しますから、よろしくご指導お願い申します。」

伊藤(1952)は「園芸作物に寄生する変形菌」で次のように書いている。「我が国に於いては鶴田(1917)、中田(1922)、中村(1931、1933、1934、1948)、及び著者(1940)等の研究により20数種が報告されているに過ぎない。著者は1940年以来調査研究の結果、ここに新たに園芸作物に寄生する変形菌10属15種についてその寄生作物、加害状況及び菌の特徴を報告する。この報告をなすに当たり、種々御指導を賜った故南方熊楠氏及び故小畔四郎氏並びに終始ご鞭撻下された菊池理一氏に対して衷心より感謝致します。」

猪熊泰三 (Inokuma Taizo, 1904-1972)

[変形菌に関する業績] 東京大学秩父演習林で若干の変形菌を採集し、一部は江本義数によって発表された。
[略歴]  昭和3(1928)年、東京帝国大学農学部林科卒業。昭和10(1935)年、同大学農学部林科の助手となる。昭和11(1936)年、同大学林科助教授。昭和18(1943)年より同大学森林植物学教室教授。昭和40(1965)年、同大学を定年退職し、名誉教授となる。昭和47(1972)年9月1日死去。

江本義数(1957)は「東京大学秩父演習林に産する変形菌類」で次のように書いている。「この演習林に産する変形菌については未だ調査・採集の業績がないようである。またこの地方に産すると知られた種類も僅少である。即ち昭和10年に小熊精一氏が埼玉県産変形菌の目録に24種を記録し、その内に三峯山に於いてArcyria cinereaを報じているばかりである。本演習林に産する変形菌類を採集するために、秩父郡大滝村栃本にある演習林作業所を根拠として、昭和30年8月4-10日、更に翌31年7月1-7日の二回にわたって採集することが出来たのは誠に幸いなことであった。そして、森林植物学教室の猪熊泰三教授の採集された標本数個を合わせて176個を得たのである。」

1972年9月に発行された『林木の育種』には次のように書いてある。「本会(林木育種協会)顧問猪熊泰三氏には療養の甲斐もなく、9月1日ご永眠されました。同氏は長く本会理事とし、また顧問として、育種発展のためにご尽力下さいました。ことにポプラについては大きな足跡を残され、林木育種賞を受賞されたことは耳新しいことと存じます。今後なおわが育種界は先生のご指導に俟つところが多かったのですが、まことに残念なことです。ここに謹んで哀悼の意を表します。」

上松蓊 (Uematsu Shigeru, 1875-1958)

[変形菌に関する業績] 小畔四郎らとともに変形菌を採集し、南方熊楠の変形菌の研究や生活上の援助をした。彼の採集品にはときに南方らと連名で著者名が記されているが、全て裸名であって、正式に発表されたものはない。
[略歴] 新潟県長岡出身で、小畔四郎と同郷で同年齢、また少年時代からの親友であったと言われる。立教大学卒業後、古河鉱業に勤務。その間の明治45(1912)年頃に、小畔が南方熊楠から上質の雲母を求められて探しあぐねた末、上松に相談したところ、上松はかねて敬慕している南方先生のお役に立つならと、雲母を買って費用を小畔と折半して贈呈したのが南方との交際の始まりだと言われる。四十才前に古河鉱業の下関支店長で退職し、東京で製紙業などで自営したと伝えられる。大正11(1922)年には南方が上京の際、南方、平沼大三郎、六鵜保らと一緒に日光の変形菌を採集した。大正15(1926)年の小畔らによる摂政宮への変形菌標本献上に際してはその邦字表啓文を上松が書いた。昭和3(1928)年、平沼大三郎と一緒に南方家を訪問し、平沼が帰宅したのち南方と一緒に川又官林と妹尾官林の変形菌を調査した。香道の研究家で、書道にも優れていたと言わる。

南方熊楠は昭和6年1月6日付の大江喜一郎宛書簡で、上松について次のように書いている。「上松氏も多能の人ながら、先年震災以後とんと運が向かず、ぶらぶら致し居り、昨年九月より十月末まで、上州上利根郡より下野足尾奥の深山を経て、岩代国尾瀬沼へゆき候て採集し居る四、五間さきを、大きな熊が悠々と歩みし由、其所で世界中に類例なき珍しき粘菌を発見致され候。これは発表後大評判となる事と楽しみ居り候。」

南方熊楠は昭和6年2月23日の上松宛書簡で次のように書いている。「リスター女史より昨日午後3時15分に来信あり。小生は順序を追うて事を行なう規則で、只今かかりおることをすませたる上、女史の状を見るつもりなり。故に何をいうてきたかさらに分からねど、本状は必ず早晩来たるべしとまちおりたるもので、近来怪しき連中がややもすれば粘菌粘菌新種新種と、何とも分からぬ落第点に近い記載文を出し、図を出さぬ等のこと多きより、どうせ小生へ聞き合わさねば判断付かず、何とも査定のしかたなきよりの来信と存じ候。これが来たれるは発表を開始すべき絶好の機会なるにより、三、四日内にいよいよ始むるつもりに御座候。まず誰が見ても判然新種として一点の疑いなきもの、すなわち貴下と小生とにないもちのCribraria gratiosissima Minkata & Uematsuより始むることに候。」

上松は平野威馬雄(1944)の『博物学者・南方熊楠の生涯』の序文の中で次のように書いている。「傲岸なる欧米人を屈服さすには、学術をもってせねばならぬとは、常に吾々を戒められた(南方)先生の言葉である。もちろんそれは平和時代の事に属する。今や大東亜聖戦のまっただ中、皇軍の武威をもってそのことは成し遂げられている。世紀を背負う中堅級の読者諸君、諸君は南方先生が愛誦、かつ実践せられた東海散士の言<一尺の我威を国内に振るうよりは、一寸の権を海外に振るえ>を咀嚼吟味して、大東亜の盟主たる大日本の臣民たるべく如何なる方面にも琢磨錬成せられんことをこいねごうてやまぬ。けだし著者の狙いもソコにあろう。」

宇野確雄(Uno Kakuo, 1895-1984)

[変形菌に関する業績] 南方熊楠と交際し、贈られた変形菌標本を保存し、のちに倉敷市に寄贈した。標本は倉敷市立自然史博物館に保存されている。
[略歴] 明治28年、岡山県倉敷市浅原に生まれる。大正4年、岡山師範学校卒業。その後岡山県内の小学校の訓導を歴任する。大正8年、文検(植物科)に合格。大正9年、和歌山県立海草中学校教諭となる。同年8月には南方熊楠、小畔四郎、川島友吉(草堂)らと一緒に高野山に行き、植物採集をする。大正10年、文検(動物、生理衛生科)に合格。その後、神戸や京都などの中学校の教諭として勤務する。昭和17年、神戸高等商業学校助教授。昭和20年倉敷に帰り、旧制倉敷中学校教諭となる。昭和24年、倉敷青陵高等学校教諭。昭和28年、ノートルダム清心女子大学講師。昭和40年、同大学の職を辞す。昭和53年、倉敷市に約五万点の植物標本を寄贈する。同年、倉敷市文化賞を受賞。昭和59年死去。

狩山俊悟(1987)は「宇野植物コレクション」の中で次のように書いている。「大阪府泉南郡犬鳴山では、ササの新種を発見し、牧野富太郎氏によってカンサイザサの和名とともにSasa unoi Makinoの学名が発表されている。宇野氏が最も活発な採集を行なった時期は、大正11年に神戸に移ってから終戦直前に倉敷に帰るまでである。・・・代表的な採集旅行は、昭和9年(1934)の台湾、昭和11年(1936)の北海道、昭和12年(1937)の樺太南部、昭和13年(1938)の朝鮮南部である。また昭和11年以降数度にわたりアメリカのハーバード大学から資金援助を受け、採集旅行に必要な経費として利用している。さらに、この期間はアメリカの著名な研究者と多数の標本を交換した時期でもある。」

榎本宇三郎(Enomoto Usaburo, 1875-1944)

[変形菌に関する業績] 和歌山県で変形菌やその他の菌類を採集して南方熊楠の研究を援助した。
[略歴] 1875(明治8)年、和歌山県田辺町栄町(現、田辺市)に生まれた。旧姓は玉置氏で、榎本家の婿養子となって新庄村(現、田辺市)で木炭業を商売とした。同村の村長を明治41年から大正9年までと、昭和7年から1年間勤めた。明治の末頃、田辺湾の神島の樹林を南方の主張にしたがって保存したと言われる。1944(昭和19)年、69歳で死去した。榎本幸治は彼の長男で、父親同様に変形菌などを採集して南方の研究を援助したと言う。

南方熊楠は1929年10月17日付けの榎本宇三郎宛の書簡に次のように書いている。「今日神島タチバナの木の辺にて御採集の紫色の粘菌は、従前世界中に前例なき物にこれあり。・・・この粘菌はアルクリア・カンナメイ(かんなめ祭のアルクリア、これはこの粘菌の属名)と命名し、昭和4年神嘗祭日、榎本宇三郎発見、南方熊楠命名、として世界中へ伝え申すべく候。・・・小畔氏が島にて見しときは標本ぬれており、何でもなき平凡のものと思い帰りしが、拙宅でみると乾きおり、初めて珍物とわかり申し候。」

南方熊楠は1929年10月19日付けの大江喜一郎宛書簡で次のように記述している。「去る十二日夜十時半小畔氏来田(田辺のこと)、拙宅に泊り、十三日朝より小畔氏岩田村大字岡にゆき採集、雨多かりしため粘菌多くは流失して、珍品とてはただ一つ下三栖村にてペリケーナ・コールチカリス・アッフィニスというを見出だし候。・・・十七日には朝7時過ぎ小畔氏一人拙宅を出で新庄にゆき、村長・・・等と神島にゆき採集、やはり粘菌は雨のため少なかりしも、最も新米の榎本氏が新種一つ発見、小生昨夜取り調べていよいよ新種とわかり、神嘗祭の日の発見ゆえアルクリア・カンナメアナと命名致し候。近日図説ともども聖上へ献上のはずにござ候。」

南方熊楠は1929年10月24日付けの榎本宛書簡で次のように書いている。「標本は貴息御発見の趣き、貴息の御名を御一報願い上げ奉り候。聖上へ進献には、正確に発見者の名を書き上げざるべからず」

江本義数 (Emoto Yoshikadzu, 1892-1979)

[変形菌に関する業績] 最初は服部廣太郎の指導を受け、のち南方熊楠、小畔四郎、グリエルマ・リスターらと文通して研究を深め、90編ほどの変形菌に関する論文や本を発表した。彼が初記載して現在認められている変形菌は8分類群ほどある。また外国の変形菌調査や、海外の学者との標本の交換も行なった。戦後は日本における変形菌分類学の権威となった。彼の変形菌標本は大谷吉雄らの尽力で国立科学博物館に保存されている。
[略歴] 明治25(1892)年10月28日に東京本所荒井町に生まれる。学習院高等科卒業後、大正6(1917)年に東京帝国大学理科大学植物学科を卒業した。大学では三好学らに学んだと言われる。続いて大学院に進学したが、そこで服部廣太郎に植物園で採集した変形菌を示されたことなどが、変形菌研究の動機となったという(註1、2)。大学院卒業後は徳川生物学研究所々員となる。大正12(1923)年から昭和9(1934)年まで東京帝国大学理学部講師などとして勤めた。その間の大正15(1926)年から変形菌に関する論文を発表した(註3)。昭和4(1929)年には昭和天皇の採集品に基づいてアミクビナガホコリとミカドホネホコリを新分類群として記載した(註4)。昭和6(1931)年、マレー産とジャワ産変形菌について報告 (註5、6)。また、同年に昭和天皇の採集品を調査して新種ナスフクロホコリを発表した(註7)。昭和9(1934)年、「硫黄酸化細菌の生理」の研究で理学博士号を取得し、同年から学習院大学教授を勤めた。その間の昭和10(1935)年に行われた昭和天皇の南九州行幸の折には、宮崎県産変形菌を高等女学校や中学校の教員らと共に採集して標本を献上した。その際の参加者は、阿部本生、安藤秀一、伊福三雄、小山田定敬、加藤富司雄、桐山英利、木村益水、小林年行、佐保護、鮫島頴、島田弘、立野良一、鷹野周道、外山定美、中島魁、則松菊彌、浜田昌人、藤田正信、藤本亨、古家幸元、吉田義江、渡辺清一らである(註8、9、10)。昭和33(1958)年、学習院大学を退官後は学習院女子短期大学教授、国士館大学教授、国立文化財研究所調査研究員などを勤め、日本植物学会特別会員、日本温泉科学会名誉会員に推薦され、昭和46(1971)年には日本菌学会名誉会員となった。昭和52(1977)年、戦前に描かれていた図が『The Myxomycetes of Japan』として出版された(註11、12、13)。昭和54(1979)年5月18日に86才で死去した。彼は温泉生物や文化財に生じるカビなどについても研究したが、一般には変形菌の研究が最もよく知られている。

江本(1977)は次のような回想録を残している。「大学院にはいって、暫くすると服部広太郎先生が変形菌を植物園内で採集されて、私に示された。これが私にとって最初のもので、教室には微生物の図書が少なく、先生はリスターという人の本があるそうだとの事で、全く困った。その内に書名も判り、早速英国に注文して『A Monograph of the Mycetozoa』を入手することが出来たが、なかなか取りつくのに苦心した。220以上の着色図があり、図版はなかなか難解であったが、どうやらこなすことが出来ると、日本で南方熊楠・小畔四郎両氏がおられることが判り、他方G. Lister女史の住所も判明して、標本を送ったり、ご意見を承ったりしてどうにか目が開くようになり、他方東北帝大に招かれたH. Molisch教授に師事した際に変形体の流動を指導されて、その運動を興味深く観察、ますますこの菌類にみいられ、また同教授も日本では研究されておらぬからぜひ研究せよといわれてその決心をしたのである。」

江本(1972)は「思い出(10)」の中で次のように述べている。「私の変形菌研究の発端は東京大学理学部大学院時代にさかのぼる。小石川植物園内、続いて上野公園での採集であった。この時には参考書も知らず、誠に困りぬいたもので、めくら滅法、四苦八苦したが、その内にListerのMonographがあることが判り、やっとこれを入手することが出来て、次第に活動することを得たわけ、それでも、南方熊楠、小畔四郎両氏と、他方英国のG. Lister女史とも連絡を取って、次第に目があくようになったのである。・・・日光で忘れ得ない印象は前白根登山道の途中の白根沢で、紫色の胞子嚢の集落を発見したことで、早速採集した。どうもPhysarum newtoniらしい、小畔四郎氏と相談したが、南方氏に確かめて貰うことになり、やはり同種であると決まった。早速同種の命名者である米国のMacbride教授に通知したところ、御返事があり、<これまで何処からも発見の知らせがない>、と喜んで頂いた、そして<自分はもはや老いた、若い君は大いに研究して呉れ>と激励された。・・・また那須御料林にも温泉植物と共に変形菌採集をなし得た。・・・この地域は陛下が御採集なさるので御遠慮申し上げた。ただ御用掛服部広太郎氏からお話があったので、参考に赴いたのである。・・・北海道での採集は・・・暑中休暇を利用して二回、長尾(チエ)助手を同道、函館の大淵亮三氏に迎えられ、・・・山部村に着いた。・・・私は1959年にお許しを得て数回にわたって、(生物学御研究所の)標本全部を拝見、また日本産として初めての種を拝借、写生させていただくことができて誠に有難い仕儀であった。」

南方熊楠は大正15(1926)年10月10日付の上松蓊に宛てた手紙で江本について次のように書いている。「先日(註:小畔四郎)が、江本という男に標本を見せしと聞きてより、甚だ気分面白からず。未発表の品を人に見するは大禁物にて、diagnosis(判決点)をつかまれては何ともならぬものにて、これより色々と大口舌を生じ、発見者、創立者かえって模倣者の位置に押し下さるること多きものにござ候。」

江本(1929)は「新しき変形菌に就て」の中で新変種アミクビナガホコリと新種ミカドホネホコリを記載した際に次のように書いている。余はさきに本誌に<本邦において新たに知られたる変形菌について>と題して記述したるが、近時宮城内の生物学御研究室御所蔵の変形菌標本十数個を借覧して、その内に未だかつて記載せられておらぬ品種および変種と認めらるるものがあるを知った。しかしてこれらをここに発表することができるのは、余の最も光栄とするところである。・・・擱筆するに当り、上文に記載せる変形菌の鏡検について便宜を与えられたる、宮内省御用掛服部広太郎博士、ならびに大原農業研究所所蔵のWingateの論文を閲覧することのために斡旋の労を執られたる、同研究所の西門義一博士に謝意を表す。」

グリエルマ・リスター(1931)は「マレー産粘菌ノート」の中で次のように書いている(原文英語)。「江本博士はご親切に<マレー産粘菌>と題した論文の原稿を読むことを許して下さった。その論文の中で1929年の夏、シンガポールとマレー半島で滞在した四週間の内に、彼と友人が採集した43種のリストを掲載している。彼はサンダーソン氏から送られた論文<マレー産粘菌覚書>と、論文発表後にペタリング付近でサンダーソン氏が発見した9種のことにも言及している。サンダーソン氏は、以前観察した若干の粘菌の習性についてフィールド・ノートを送って下さった。その中に更に4種(ウルワシモジホコリ、アカフクロホコリ、ワガタカタホコリ、マルヒモホコリ)のマレー新産種が含まれていた。以下は彼のノートからの引用である。江本博士はこの引用には反対しないと思っている。それは私どもが採集の際には、殆ど見ることができないものです。」

江本(1931)は「ジャワ産粘菌」で次のように書いている。「同時にアワホネホコリとナバカタホコリの同定に関し、親切な援助を頂いたG・リスター嬢にも感謝する。」

江本(1931)は「二三の変形菌に就て」で、ナスフクロホコリ(新種)とアミクビナガホコリとオオギミヌカホコリについて次のように書いている。「昨秋、余は宮城内生物学御研究室御所蔵の変形菌標本数個を借覧したが、其中に<Physarum lateritium類似、疑問品>とした一種があった。其れは未だ嘗て記載せられて居らぬ品種と認められるものであったが、其標本には完全に成熟を遂げたと思われる胞子嚢が極めて少数であった。然るに今回再び本年八月の新御採集にして完全に発生を遂げた標本数個を借覧し、之を基礎として昨年の考えを確定することを得たので、ここにこれを発表することとした。・・・次に<Clastoderma debaryanum var. imperatoria(?)>と記入ある本年八月那須所採の一標本をも借覧したが,之は一昨年三月余が本誌に新変種imperatoriaとして発表した者と正に同一の者であった。余が此変種を発表した当時、英国のG. Lister女史は、書信の序に此変種の特徴とする細毛体先端の小板にある網目は、果して常に存在するか否かと疑を抱かれたことがあったが、之も此度借覧した豊富の材料によって、該変種には常に此特徴を有する事を精確にする事を得たのである。即ち蘚上に夥しく発生した胞子嚢(1平方粍に就き5-7個あり)から総計163個を取って検鏡したが、此中網目の明瞭なものは105個、稍不明瞭なものは43個、網目なしと認めたものは15個であった。此結果から、網目の稍不明瞭なもの及び之を欠くものは、恐らく発生期の状態如何に因て生ずるものと考えるのが至当であらう。尚一昨年、G. Lister女史が記載したHemitrichia imperialisに関して少しく述べようと思う。此種は初めて赤坂離宮御内苑にて採集せられたのであるが、昨年10月、柳原正氏が之を札幌市で採集した。何れの場合に於ても未だ其変形体に就ての記載が無かったのであるが、余は本年10月栃木県日光に於て、幸にも此種の変形体を得、其色は乳白色である事を知り得た。」

南方熊楠は、1935年11月23日付けの上松蓊宛書簡で、次のように書いている。「小畔氏が多年同人発見の粘菌を、さしたる事もなき輩が色々といいちらし、・・・毛の縮んだのも新人種、足の趾のそったも新人種として一々命名するような事多く、既に今度の鹿児島県進献の目録にも既に其輩(註:江本のこと)が発表した以上は丸で知らぬ顔で通すも異な物故、そんなものを二点迄(小畔は不認ながら)載せ居り候。」

江本(1977)はこの時のことを「思い出」の中に次のように書いている。「当時(1935年)秋季特別大演習が宮崎、鹿児島両県に行われ、陛下は変形菌を熱心に研究遊ばされていたので宮崎県下に出向、宮崎駅で出迎いを受け、翌朝小、中、高校教員諸君に一応変形菌一般の話をしてから出発、・・・皆々見当がつかず困っていたようだ。・・・多数の標本を送付されて種の同定に一カ月の日限りで送り返さねばならず、ずいぶん忙しく面食らった。」

江本(1936)は「宮崎県産変形菌(其一)」で次のように書いている。「九州宮崎県に産する変形菌については、未だ学会に報告せられたものが全くなく、如何なる種が産するかは甚だ興味あるところである。しかるところ昨年秋に宮崎、鹿児島両県下にわたって特別大演習が挙行せられ、聖上陛下親しく両県下に行幸遊ばさるるに際して、宮崎県当局が同県下に産する変形菌の調査を行われたが、筆者も招かれてこの事業に関係し、幸いに各地において採集、かつ研究するの機会を与えられたのである。・・・かくの如くにして県下五十個所以上において採集された材料は二千個以上に達し、これらを検査した結果、十一科、二十五属、九十二種、二十変種を得たのである。しかしてこの内二種および一変種は未だ記載せられなかったものであり(Diachea miyazakiensis、Diderma concavumおよびLindbladia effusa var. cribrarioides)、また二種は本邦産として学会に未だ報告されておらぬものである(Physarum aeneum、Fuligo muscorum)。なおここに報告せんとする変形菌は前述のように、甚だ短期間の採集に止まるのであるが、今後継続して採集したならば、その結果は大いに期待すべきものがあると信ぜられるので、この点採集者各位に採集を続行せられるよう切に希望する次第である。」

江本(1973)は「思い出(12)」の文中で、図譜『The Myxomycetes of Japan』のことについて、次のように書いている。「念願の図譜もようやく印刷にかかるようになった。思えば長年月が経過してしまった。服部、Molisch教授から研究を勧められてから半世紀以上である。よくも体がもったものとつくづく感じる次第。顧みると日光、富士山、木曽の森林を始め、北海道の原始林、山では日光男体山、北海道大雪山黒岳、宮崎県双石山など、さらに小笠原島などを採集することができたのは幸せで、他方ジャワ・クラカトア島やマレー半島で、虎におびやかされながらのAlwisia bombardaを発見した時の嬉しさは格別で忘れられない。さて日本産変形菌図譜について、ことの経緯を記さねばならない。余程以前からこの類を研究するには、色彩図でなければと決心した。しかし第一に画師の問題であった。幸いに標本画家として第一人者であった佐久間文吾画伯を得たのである。・・・私は畏友三井高遂氏を介して三井高公(現八郎右衛門)氏の援助を受けて仕事に着手した。・・・佐久間画伯が推薦していた高弟、坂本貫一(池田)画伯によって継承、昭和17年に124枚を完成、あたかも大日本植物誌第八冊出版の縁を以て三省堂から出版しようとしたが、戦争激化のために原図原稿が返却され、丁度学習院図書館から貴重図書を疎開する機会に、土浦に運搬、写生図、原稿は戦火から免がれ得た。・・・昭和25年秋には写生図を天皇陛下に御覧に入れ、約一ケ月後に御研究室で拝謁して種々御下問があった。・・・昭和40年東大農学部応用微生物研究所の飯塚広君の胆入りで、産業図書株式会社が動き、・・・ついに同社が単独引き受けて出版することになり、これでやっと軌道に乗ったのである。この間生物学御研究所から二標本の借用をお許し下さって、太田洋愛画伯が写生した。・・・この間昭和44年12月皇太子殿下御誕辰祝賀パーティーの節、殿下から<本はどうしましたか>と御下問があって全く驚いたのである。・・・昭和46年に叙勲があり、翌年5月両陛下御主催の園遊会に御招待あり、赤坂離宮内苑で島式部長官の御先導、長官の言葉で私の前にお立ちになり、<本はどうなったか>と御言葉を頂いた。それで当時の状態を言上、<それはよい>と仰せられ、続いて皇太子殿下も<久し振りです。本はどうなりましたか>、・・・重ね重ねの光栄、天気も上々で全く晴々しい幸運の日を送らせて頂いた。」

江本は昭和52年10月5日付けの、筆者宛の手紙で次のように書いている。「拝呈、大変御無沙汰しております。ますます御勇健に御精励のこととお喜び申し上げます。やっと図譜も出版でき、重荷をおろしました。先般宮城内生物学御研究所の御研究室で、天皇陛下に拝謁、献上致し、皇太子、常陸宮両殿下にも献上、東宮御所にお召しあり、お祝詞、夕食を賜り、誠に幸いの一夕を過ごし得ました。見本刷りをお送り致します。またこの頃書きました拙文別刷と目録(これらは家が狭く収容しきれず、科博分館(新宿)に、標本は筑波の研究室に贈りました。御参考になれば幸甚です。できれば高校で一本を願いたくお願い申し上げます。匆々。)

昭和52年10月23日付け高知新聞に「老学究60年の成果出版−−陰に匿名高校生の励まし−−病床で<お礼を>−−」と題して江本の図譜に関する記事が掲載されている。「江本教授が戦前から地味な研究を苦しい経済事情のなかで続けていることを新聞で知った一高校生が<出版の一助に>と広島・糸崎局の消印(三十四年八月十一日付)で五百円を匿名で送ってきたのは十八年前のことだった。ロックフェラー財団にも断わられ、失意のどん底にあった江本教授にとって、この激励は骨身にしみてうれしかったという。<三十五、六歳の社会人となられているだろう。ようやく念願が果たせたことを報告し、感謝をこめてその方に一冊贈呈したい。そうしなければ死に切れない。ぜひ名乗り出ていただきたい>と、病床に身を横たえながら老学究は祈るようなまなざしで返事を待っている。・・・"同学の士"である天皇陛下は五月二十三日、皇居内の生物学研究所に江本教授を招いてその完成を祝われ、皇太子、常陸宮ご兄弟も七月八日東宮御所に同教授、飯塚教授らを招いて労をねぎらわれた。」

遠藤吉三郎 (Yendo Kichisaburo, 1874-1921)

[変形菌に関する業績] リスター父子によって1906年に『英国植物学雑誌』に発表された論文を日本の『植物学雑誌』に、「リスター氏〈日本産粘菌類〉」として紹介した(註1)。この際、変形菌に対して「粘菌」という訳語を創案して使用した。
[略歴] 越後で明治9(1874)年8月30日に生まれた。のち仙台の第二高等学校で学び、明治33(1898)年に東京帝国大学理科大学に入学した。明治34(1901)年に日本産の有節サンゴモ類を卒業論文として同大学を卒業し、同年カナダのバンクーバーに海藻を研究に行き、1903年にはシムシル(占守)島で三カ月調査したという。1907年には札幌農科大学付属水産専門部(のち北海道帝国大学)の海産植物学の教授となった。翌年には理学博士の学位を授与された。1912年から二年間は欧州のノルウェーなどに留学して研究を行なった。その後は同校を大正8(1919)年に病気のために退官するまで教授を勤めた。大正10(1921)年3月14日、46歳で病死した。彼はスポーツ万能で、特に水泳は得意であったので、海藻の研究には役に立ったという。

遠藤(1906)は「リスター氏<日本産粘菌類>」で次のように書いている。「日本産粘菌類はかつて三好教授が、マーシャル、ワルド氏に送致したる十八種の標本につき研究せられしことあり。その種名は本誌第二百十一号にあり。今回南方熊楠氏が紀州において採収したる二十九種を再び著者の手によりて調査せられし結果、九種は三好教授の送品中にあるものと同種に属し、二十種は新発見に係るものとす。ゆえに日本産粘菌類の総数は三十八種となる。ただし今回の送品中にも新種と目すべきものなけれども稀なるものは即ちこれあり。今増加したる種名を挙ぐること左の如し。」

大江喜一郎 (Ooe Kiichiro, 1881-1948)

[変形菌に関する業績] 勤務先などの各地で変形菌を採集して南方熊楠に送り、その研究を援助した(註1、2、3、4)。
[略歴] 明治14(1881)年、和歌山県西牟婁郡二川村(現中辺路町)に生まれる。明治37(1904)年、補習学校卒業後、和歌山県巡査になり、のち二川村収入役となったという。大正5(1916)年から昭和20(1945)年まで、和歌山県田辺、岐阜県船津、福井県などの営林署に勤務したと言われる。昭和23年死去。

南方熊楠は昭和3年12月4日付の上松蓊宛の手紙で、次のように書いている。「大江氏眼力至って鋭く、かつ平沼氏より送られたるレンズを用い、多く(小生より多く)菌や粘菌を見いだされ候。・・・粘菌はおよそ三十種とりたるが、これは大江氏眼がよいばかりで何たる学識なきによる。小生自分捜したら必ず六、七十種は集むべしと存じ候。どこにもあるという訳に参らず、風と光線の影響によると見え、多種ある処は定まりおり、なき所にはいかに捜すも一種もなきことに候。」

南方熊楠は昭和4年12月31日付の上松蓊宛の手紙で次のように述べている。「飛騨にある大江喜一郎氏より粘菌到着、今日夜あけてその鏡検にかかると、その内の一つが新種らしきゆえ、また二、三日もそれにばかりかかるかもしれず、平沼(大三郎)氏へちょっと手紙を差し上ぐることならぬやもしれず。」

南方熊楠は昭和5年4月15日付の大江宛書簡で次のように書いている。「粘菌集まらば、何卒お送り下されたく候。春の氷雪とけぎわの粘菌は当県などでは手に入らぬもの多く候。」

南方熊楠は昭和6年1月6日付の大江宛書簡で次のように書いている。「貴下、妹尾と飛騨にて御発見のものが六種ばかりこれ有り候。ほかに既に世に知れ居るものながら貴集の標品ことのほか見事なるゆえ、今年進献するもの四品ほど、計十品はこれあり候。これらは既に小箱に装置し、名称、産地、年月日、大江喜一郎という姓名悉く神戸で活字にすらせ整頓しおわり、凡そ進献品は一切地方長官を経て差し上ぐべしとの一昨年よりの成規ながら、この粘菌の品彙だけは小畔(四郎)首勲者なるをもって同氏より侍従官の手を経て進献のはずにて、その節、小畔自身宮城まで持参のはずに御座候。」

緒方正資 (Ogata Masasuke, 1833-1944)

[変形菌に関する業績] 小笠原諸島や台湾などで変形菌を採集し、一部の標本が朝比奈泰彦らを介して昭和天皇に献上された。
[略歴] 明治16(1883)年、熊本県で生まれる。九州薬学専門学校(のちの熊本薬学専門学校)を卒業。東京帝国大学医学部薬学科の朝比奈泰彦教授の介補となる(註1)。昭和3(1928)年から15(1940)年にかけて精密な『日本羊歯類図集』を刊行した(註2)。

根本(1966)は、緒方と朝比奈泰彦との地衣類の採集品などについて次のような記録を残している。「ヘラゴケ(学名略)。大正十四年六月、同年卒業の岡見清二氏、石館守三氏らの学生と、介補の緒方正資氏と一緒に、秩父三峰山に採集旅行した際、岡見氏が山中で発見したものである。・・・ヤイトゴケ(学名略)。大正十四年(1925)の暮から正月にかけて、当時助手であった石館氏や緒方氏を同伴して、台湾遠征の折り、十二月二十六日、標高九千尺の阿里山の頂上を極め、大得意の(朝比奈)先生は、図らずも路傍の粘土中に本地衣の群落を発見して、<日本最初の発見!>と大驚びで、思う存分採集された。・・・Phylliscum japonicum A. Zahlbr.本品は大正十五年五月十六日、緒方正資氏が丹波国大山村で初めて採集したもので、これは正真正銘、フィリスクウム属の日本産一号の折紙付である。」

緒方(1928)は『日本羊歯類図集』第一輯の巻頭の牧野富太郎と朝比奈泰彦の序文に続く「著者序言」の中で、次のように書いている。「余は余の浅学非才を顧みず、このたび『日本羊歯類図集』を著わしてこれを世に問うこととなったが、これは余が羊歯類研究の本来の目的ではなかった。恩師朝比奈泰彦先生が<今日まで羊歯類で薬用に供せられているのは至って鮮ないから、手当り次第に羊歯の解剖をやってみたら、あるいは綿馬のような薬用になるものを別に発見するかもしれない。そしてまた君の趣味として、根茎などの構造によって分類でも試みたら、更に何か発明するところがないとも限らないから、やってみてはどうか>ということであった。早速先生のご意見に従って研究を続けていた。その研究した羊歯そのものについてはその形態を一々記載しておく必要がある。しかるに羊歯類は顕花植物と異なって、その外観が互いに酷似しているものが多いので、その各種間の区別を文字で書き表すことは頗る困難を感ずる。それで余は文字をもってそれらを記載する代わりに図をもってしようと企てた。これは画の素養なき余にとりては面倒でまたかなり困難なことであった。暑き夏間は墨が乾いて意の如く書けず、また始終採集に出かけるので忙しくて思うように筆が運ばず、今書いている数百種の写生図はおもに寒い冬の間、しかも夜なべ仕事に書いたものである。ある時、朝比奈先生が余の宅に来られて余の書いていた写生図を見られ、<こんなに書いているならこれを本にして出そう>と言われたのがそもそもこの図集を出版する動機となったのである。本研究をなすために余は北は北海道より南は四国、九州の諸山を跋渉し、また台湾に航すること数回、また琉球、小笠原諸島、八丈島に渡り、ほとんど全国にわたって絶えず採集旅行を試みた。そして自ら採集し得るに従ってこれを写生し解剖した。また集め来たった生植物はこれを培養して日常その生態の観察に勉めた。この研究をなすにあたり朝比奈先生は終始懇篤なる指導をされ、また溢るるごとき温情をもって絶えず励まされた。・・・次に大阪の武田長兵衛氏の義気ある援助を深く感謝せねばならぬ。・・・また余がこの羊歯の研究をなすにあたって常に熱心なるお世話と教示を与えられたる牧野(富太郎)先生に満腔の謝意を表するとともに、その描法の範を同先生著の『新撰日本植物図説』中の先生自ら描かれたる羊歯の写生図に取ったことをここに付言しておきたい。」

奥昌一郎 (Oku Shoichiro, 1898-1992)

[変形菌に関する業績] 昭和13(1938)年に「変形菌雑記」と題して岩手県産の変形菌を記録した(註1)。
[略歴] 本籍は岩手県二戸郡福岡町字五日町66番地。明治31年1月16日生まれ。大正4年、岩手県立福岡中学校卒業。大正5年、東京帝国大学農科大学農学実科入学。大正8年、同大学卒業。大正10年、二戸郡福岡実業補習学校教師。大正14年、福岡実科高等女学校教師や福岡尋常高等小学校代用教員などを勤めたのち、同年、岩手県立福岡中学校教諭。昭和19年、正七位となる。昭和20年、同校依願免職。以後、福岡高等学校同窓会々長、福岡町史談会々長、文化財保護委員長、岩手県選挙管理委員、福岡町ロータリークラブ会長などを務める。平成4年4月26日に死去。

奥(1938)は「変形菌雑記」に次のように書いている。「曾て自宅裏の薪からBadhamia affinis、また食用菊の支柱にした木の枝からムラサキホコリカビの一種Stemonitis flavogenitaの子嚢体を採ったことがある。昨年八月の末、石切所村の奥山から米沢へ出ようとして強阪の急坂にさしかかり坂下の林の中で休んだ時、ふと落葉に点々とついている子嚢体が目についたので、その落葉の幾片かをポケットに収めて来たが、それは途中で失ってしまった(Diderma hemisphaericumであったように思う)。たまたま外山下る時に迷い入った雑木林で、栗の落葉や枯草の上に夥しくついているPhysarum melleumの子嚢体が目にふれた。さがせばさがすほどにいくらでも見つかるのに興が乗って集めにかかった所が、猛烈な薮蚊に襲われて、つい我慢がならずに飛び出してしまった。」

小熊精一 (Oguma Seiichi, 1903-?)

[変形菌に関する業績] 昭和10(1935)年に「埼玉県産変形菌目録」を『植物研究雑誌』に発表した(註1)。
[略歴] 不詳。昭和10年当時、熊谷高等女学校に勤務。

小熊(1935)は「埼玉県産変形菌目録」の中で次のように書いている。「筆者は数年来埼玉県下で該菌類を採集調査して、昨年十二月までに約40種を知り得たので、ここにこれらを報告し、今後も続いて調査をなし、完全なものとしたいと考えている。斯学研究の一助ともなれば筆者の幸いとするところである。本調査に際して、懇篤な指導と援助とを与えられた理学博士江本義数氏のご好意に対して感謝の意を表する。」

落合英二 (Ochiai Eiji, 1898-1974)

[変形菌に関する業績] 大正15(1926)年、ジクホコリを東京から報告した。薬学研究の傍ら、小畔四郎、石館守三、菊地理一らと交流して変形菌の研究の輪を広げた。
[略歴] 明治31年6月26日、埼玉県浦和で教育者の落合初太郎の三男として生まれる。明治44(1911)年、千葉師範学校付属小学校卒業、同年千葉県立千葉中学校に入学。幼時は虚弱であったが植物採集に熱中して健康になったという。大正5(1916)年、千葉中学校卒業。同年仙台の第二高等学校二部乙類入学。二年生のとき安田篤教授の指導で地衣の新種を発見したという。大正8(1919)年、同高校を卒業し、東京帝国大学医学部薬学科入学。大正11(1922)年、同大学を卒業し、薬化学教室の近藤平三郎教授の副手となる。大正12(1923)年、研究資料用の植物採集を大和、四国、九州で行なう。大正14(1925)年、東京帝国大学薬学科助手。大正15(1926)年、「シロジクウツボカビ依然として東京に産す」を『植物研究雑誌』に発表する(註1)。同年12月から翌年1月にかけて台湾の研究用植物採集。同時に台湾産変形菌を採集した。この頃までに菊池理一らとの交際があったものと思われる(註2)。昭和3(1928)年、シノメニンの構造研究で薬学博士号を受領。同年結婚。昭和5(1930)年、東京帝国大学薬学科助教授。ドイツに二年間留学を命じられ、同国フライブルク大学のStaudinger教授などに指導を受ける。昭和7(1932)年留学から帰国。昭和9(1934)年、千葉医科大学付属薬学専門学校講師を兼任。昭和13(1938)年、特許局技師、特許局抗告審判官を兼任。同年東京帝国大学教授となって薬化学講座を担任。昭和17(1942)年、陸軍技術本部第七研究所兼務。昭和19(1944)年、「芳香族複素環塩基の研究」により帝国学士院賞を受賞。昭和20(1945)年、爆撃により自宅が被災(註3、4)した。昭和26(1951)年、トリカブト類を那須地方で採集。以後トリカブト属のアルカロイドなどを研究する。昭和28(1953)年、日本薬学会副会頭。昭和30(1955)年、チューリッヒ大学で開催された国際会議に日本学術会議代表として出席。昭和31年、日本薬学会会頭。昭和32(1957)年、通商産業技官併任。同年Staudinger博士が来日して講演する。昭和33(1958)年、高分子学会理事となる。昭和34(1959)年、東京大学を定年退官して名誉教授となる。同年財団法人乙卯研究所々長。昭和35(1960)年、理化学研究所招聘研究員嘱託。日本薬学会およびドイツ薬学会名誉会員となる。昭和38(1963)年、皇居での講書始の儀で「アルカロイドについて」をご進講。同年財団法人乙卯研究所理事長。昭和39(1964)年、理化学研究所相談役委嘱。昭和40(1965)年、日本学士院会員、バイエルン科学アカデミー準会員となる。昭和41(1966)年、アメリカ薬学アカデミー名誉会員に推挙される。昭和42(1967)年、藤原賞受賞。昭和43(1968)年、勲二等瑞宝章受賞。昭和44(1969)年、文化勲章受賞。昭和49(1974)年11月4日76歳で逝去し、従三位勲一等瑞宝章受賞。鎌倉に葬られる。彼の標本の一部は現在、神奈川県立宇宙の星・地球博物館に保存されている(註5)。

落合(1926)は「シロジクウツボカビ依然として東京に産す」の論文の中で、次のように書いている。「シロジクウツボカビ(Diachea leucopodia Rost.)は理学博士草野俊助氏が明治三十二年の夏、駒場の農科大学(今の東京帝国大学農学部)の園圃に栽培せるオランダイチゴの葉上に発見し『新撰日本植物図説下等隠花類部』第一巻の第四十五図版に詳細図説せられたるにより知らるるに至れるものなるが、その後東京に存在するやいなや誰人もこれを報ぜしものなかりしが、武蔵高等学校高等科理科一年生、山本篤氏が本年十月本種を東京郊外なる椎名町路傍において端なく採集せり。余親しくこれを検するに胞子嚢多くは破壊しおりたるも、なお少数の完全なるもの残存せるにより、本種に相違なきを認め得たり。然してその着生物はサワラ及びヒムロの枯枝なりき。すなわち知る、本種はなお広く東京付近に分布しおるものなるを。由来本種は世界共通の種にしてあえて珍とするにたらずと雖ども、また決して随処に見るを得べき普通種にあらざるは事実なり。また本種の朝鮮にも産することは同地よりの標本を牧野富太郎氏に得てこれを蔵する人あるをもって知るを得たり。本属はLister氏によれば現時粘菌分類学上フィサルム科(Physaraceae)[故安田篤氏のいわゆるモジホコリカビ科] に属するも,往時はSpumariaceae(シロジクウツボカビ科)に配属せしめしこともあり.されば故斎田功太郎博士『内外普通植物誌下等植物篇』、故安田篤氏『植物学各論隠花部』等には何れも草野博士と均しくSpumariaceae中に包含せしめたり。なお本属はCalcarineaeとStemonitaceaeとの連鎖をなすべき形態性質を有することは既にLister氏の唱道せし所にして、粘菌学上甚だ興味ある次第なりとす。また本属中本邦に産するものは南方熊楠氏の調査によれば、現時四種一変種にして、東京付近に産するは、本種と麹町区小畔四郎氏宅にて同氏が一昨年創めて採集せしDiachea cylindrica Bilgramとの二種以外未だ発見ありしを聞かず。米国は五種二変種、また英国は三種のみにして世界中の合計は八種二変種なりという。」

小畔四郎は昭和2年9月23日付けの落合宛の手紙で次のように書いている。「小生が標本を検定したことは決して人に語らざるよう願います。南方氏に知れると大目玉で、今後差し支えあり候ゆえに候。」

落合は昭和22(1947)年4月13日付けで、菊地理一へ宛てて次のような手紙を書いている。「その後は絶えてご無音に打ち過ぎ候ところ、益々ご健勝、賀し奉り候。その後の粘菌採集いかがに候や。小生、例の横着と多忙のため、疎開を怠り候ため、植物関係の雑誌も標本も悉く灰にし、心残りに候。最も残念なのは昔集めた粘菌標本を焼いたことにこれあり、もし貴君のコレクション中、名前の確実なもの少し宛ご分与の件、ご無心可能なら何より有難く存じ候。小生昨今化学の方が多忙にて、粘菌を顧みる閑もこれなく、かつはルーペ類も失い候も、ときどき眺めて心の楽しみと致したき希望に候。幸いにListerの『Mycetozoa』は友人に貸しありしため、焼け残り候。」

菊池理一は上の手紙に応えて数回に分けて標本を送っている。最後の標本は昭和42(1967)年に送られているが、この年の6月14日付けの菊池が落合に宛てた手紙には次のように書いてある。「一昨十二日、ご芳墨と共に先生のご芳志として、金員25,000円に加うるに荷造り送料として金1,000円をご恵送賜り、只々恐縮の至りであります。先生のせっかくのご厚志と存じ、今回はお言葉に甘えまして有難く拝受させていただきます。胆に銘じ厚くお礼申し上げます。このご厚情に対し最高に生かすよう、今夏は採集旅行費にあてたいと考えております。今日私が粘菌を趣味として生かし、身につけることのできましたのは、ひとえに先生が最初からのご指導の賜物と存じ、忘却しないようにと胆に銘じております。従って本来ならば私の方から感謝の意を表すると共に、先生のご依頼のお言葉がなくも、私の方から標本をどしどしお届け申すべきでありますのに、いつも逆になり、面目次第もありません。このこと何卒ご寛容願い上げます。今後はかようのお心づかいなさいませんよう、切望致します。そしてご遠慮なくどしどしご用命あらんことをお願い申し上げます。いくらかでもご報恩ができますればと念じている次第であります」。この標本は落合コレクションとして、現在は神奈川県立生命の星・地球博物館に保存されている。

出川(2000)は落合コレクションについて次のように書いている。「晩年、(落合)先生はお住まいの鎌倉市でみちくさ会という植物愛好会の指導に当たっておられましたが、この会のメンバーであった森脇美武・大野久良夫先生(当時聖光学院中学高等学校教諭)は落合先生と親交を深められ、<研究所に保管してしまっては、変形菌類の標本が子供達の手に触れることは少ないだろうから、あなたのような現場の先生の手元において若い人達の為に活用して下さい>とことづけられて標本を譲り受けました。私が中学生だった頃、学校の生物室で、見事に箱の中に並んだ、この宝石のようなコレクションを見せてもらったときの鮮烈な印象を今でもよく覚えています。そして時が経ち、私は学芸員となり、今度は私が、恩師の森脇、大野先生から<より多くの子供達に触れさせてあげるように>と、一昨年、このコレクションをお預かりしました。責任重大です!」

香月繁孝(Katsuki Sgigetaka, 1911-?)

[変形菌に関する業績] 昭和30(1955)年、米谷平和とともに「夏蔬菜に発生する変形菌」を発表した(註1)。
[略歴] 不詳。論文発表当時は東亜農薬株式会社勤務。「日本産サーコスポラ属菌の分類学的研究」で昭和45年度日本植物病理学会賞を受賞した。

香月・米谷(1955)は次のように書いている。「小倉市におけるナス栽培は企救長ナスの産地として有名である。ところが昭和27年から、当地産のナスに変形菌が発生して栽培者の注目するところとなっていたが、昭和29年は特にその発生が激しく、ナスのほか、トマト、キュウリにも発生を見、その被害は大きかった。中でもナスの被害は甚だしく、植え替えを余儀なくさせられたものも相当あった。また県下糸島郡においては生育中のスイカにも発生を認めた。変形菌の種類はPhysarum cinereum (Batsch) Persoon及びDidymium squamulosum (Alb. et Schw.) Friesの二種であったが、後者の発生はごく軽微であった。夏蔬菜の変形菌病害については、わが国ではその記録を見ないので、観察や調査の結果を報告しておきたい。」

菊池理一 (Kikuchi Riichi, 1899-1971)

[変形菌に関する業績] 大正15(1926)年以降、栃木県や岩手県の変形菌の採集を続け、同定は落合英二や江本義数、のちには小畔四郎に依頼した。昭和3(1928)年、「宇都宮並に其付近に於て採集せる粘菌類」を発表した(註1)。中川九一や伊藤春夫などの研究者を育てた功績は大きく評価される。
[略歴] 明治32(1899)年1月10日、岩手県盛岡市に生まれる。大正6(1917)年に岩手県立盛岡農学校卒業。翌年から青森県農業試験場勤務。大正12(1923)年より宇都宮高等農林学校で作物学を指導。昭和4(1929)年に栃木県経済部農務課の農林技手となる(註2)。昭和5(1930)年より栃木県立農事試験場勤務。昭和6(1931)年には昭和天皇に変形菌標本を天覧に供し、目録を献上した(註3、4、5)。昭和8年には関西に小畔四郎と南方熊楠を訪問した(註6)。昭和14(1939)年、農林技師で従七位となる。昭和16(1941)年、正七位叙勲。昭和22(1947)年より栃木県農業会那須開拓実験農場、岩手県立六原農場、岩手県立雫石農場勤務。1956-1959年、栃木県農務部嘱託として新農村計画の指導をする。1960年から1968年までは千葉大学薬学部嘱託研究員を勤めた。昭和46(1971)年7月29日に72才で国立ガン研究所にて死去。

菊池(1928)は「宇都宮並に其付近に於て採集せる粘菌類」で次のように書いている。「ここに列記せんとする粘菌類は、大正十五年四月以来、宇都宮市およびその付近において余の採集せるものなり。これらは既に南方熊楠氏によりて発表せられたる本邦産粘菌類に比すればわずかにその十分の一にも満たず。しかも既に知られたる種のみに過ぎざれども、当地方に発生せし粘菌類の一部として記することのあえて徒労にあらざるを信じ、列挙することとせり。本菌類の種名は専ら小畔四郎氏のご好意によりて鑑定命名せられたるものなり。なお東京帝国大学医学部薬化学教室、落合英二氏は浅学なる余のためにご指導の労を賜り、また北海道帝国大学農学部農学博士伊藤誠哉先生には参考文献その他につき有益なるご教示を、荒井清武氏は採集その他に関し甚大なる助力を割かれたり。よって本文を記するに当りこれら諸氏の懇切なるご高教助力に対し深甚の謝意を表するものなり。」

昭和4年6月2日付け東京朝日新聞には次の記事がある。「菊池技手光栄−−−紀州田辺に行幸遊ばされた聖上陛下のお召し艦に招かれて生物学の御進講をする光栄に浴した南方熊楠氏は粘菌の標本を天覧に供した際、粘菌研究家として中沢博士、小畔四郎氏と共に本県農務課技手菊池理一氏をご紹介申し上げたが、菊池氏は盛岡高等農林学校の選科を卒えて同校助手となり、その後宇都宮高等農林に転じて嘱託として研究を続けている篤学者である。」

昭和6年9月8日付けの下野新聞には次のような記事が掲載されている。「菊池理一氏採取の粘菌二十九種、目録を宮内省へ−−−聖上陛下がかつて和歌山県へ行幸遊ばされし時、現本県農務課勤務の菊池理一氏の研究採取せし粘菌を天覧遊ばされたが、この度県下小中等学校生徒職員謹製品を陳列した際、やはり菊池氏の採取せる粘菌二十九種をも陳列したが、陛下におかせられてはこれにお目とめ遊ばされた。しかして右目録は宮内省へ差しだし、実物は県の出張所へ渡した。ちなみに右二十九種の内にはなかなか得難いものが数種あるとのことである。」

上記のことについて鈴木英男はのちの栃木県立博物館のパンフレットに、1999年10月21日付けで次のように書いている。「(菊池)氏の粘菌新種の研究が、この粘菌研究にご造詣の深い昭和天皇のお目に止まり、粘菌新種・研究資料を献上することになりましたが、代わるべきもない貴重な資料を取り上げるには忍びないという、陛下の温情あふれるお言葉で差し戻されたと菊池氏から聞かされ、当時の新聞掲載を見せられました。天皇陛下の研究者としてのご自分を通して一つの研究を遂げるまでの苦労を下々の研究者までに思いやり下された優しいお心をしみじみと感じとったことを今もなつかしく心にとめています。」

南方熊楠は昭和6(1931)年9月11日付けの上松蓊宛の書簡で次のように書いている。「数日前、菊池理一という人、日光の極北なる上芳賀郡栗山村という処へゆき、その小さき温泉宿よりハガキを寄せ来たり候。・・・この人先年より粘菌を集め、度々小畔氏へ送り来る。今度も一珍種手に入れたらしく候。」

菊池は昭和8(1933)年に福田鉄雄らに宛てた手紙の中で、小畔四郎や南方熊楠に会ったときのことを次のように書いている。「今回の旅行中最も有益なりしは南方、小畔両先生にお会い致し、直接ご高教を得たことであります。最初、小畔先生を神戸市の近海郵船会社にお訪ねし、午後四時より六時まで社長室に、以後は自宅にて各種多数の標本につきご指導を仰ぎました。先生はただ今福井県にて採集せられし粘菌千余点を、一とおり精査を終了せられ、目録作成中であります。その内十数種の珍種と、新種に属すべき数点を得ております。この晩これら珍種は小生依頼を受け、南方先生のご鑑定を仰ぐべく持参致しました。小畔先生が今回、福井県の粘菌を研究せらるることになった理由は、同県下の博物学関係(教育会)の教師方から依頼を受けられ、夏期数回にわたって採集を試みられし由、これも断わられたそうでありますが、再三の依頼があったので、研究に着手せられたのだそうで、しかし、これら博物関係の先生が甚だ不熱心で、熱のないのには驚き入った、中等学校や小学校の先生にはお調子者が多くて、いやな感を懐かしめられると申しておられました。そしていくら粘菌の研究者が雨後の竹の子みたように続出しても、物になりそうな人間はおらぬ。貴君は専心この方面の研究をやってもらいたし、など申され、今回小生の持参せし標本をご覧下され、いつも良い標本で、整理がよくできて、非常に喜ばしいと。しかし、そう賞せられるほど上出来ではないのです。丁度奥様もお手伝いのためご来神中で、私ども三人で色々のお話ができました。<菊池さんもよろしゅうございましたね。南方先生にお会いできることになりまして、本当に名誉でございますワネ。よほどお気に入りと見えますネ。先生にお会いになりましたなら、よろしくお伝え下さいませ>など申され、なお中川、伊藤両君(当地高農卒業生)をも話題の中心に上らせられ、誠に有難いことと、無言の感謝を致しておりました。両君とも、私が学校在職中に粘菌、その他菌類関係の手ほどきとでも申すべきことを致しました関係を有するので、私も非常に愉快でありました。もちろん両君とも真面目な人々ですから、小畔先生も期待しておられるようであります。晩の九時大阪発和歌山に出発しなければならないので、先生のお見送りを受け、神戸三宮駅に向かう途中の自動車中およびホームにて、時間の来るまで、南方先生にお会いするばあいの色々のご注意やら先生の人格、粘菌関係の事柄につき、種々ご教示下さいました。今日まで師弟としての感受し得ざりし温情を、初めて思う存分味わうことができました。即ち、先生より受くる有難さは色々ありますが、先生としての有難さを初めて知ったとでも申すべきでしょう。」

昭和10(1935)年3月22日付けの下野新聞には次のような菊池に関する記事が出ている。「世界的学者としてわが国粘菌(変形菌)研究の権威、南方熊楠、小畔四郎両氏の門下生で、県下にただ一人、同研究に過去十数年来あらゆる苦心と努力を捧げている人に、宇都宮市東塙田町103、農林技手菊池理一氏がある。同氏がこの研究に趣味を持ち始めたのは大正十二年頃からで、その後官職にありながら、私費をもってあらゆる方面から材料を蒐集し、研究を重ね、標本として採収した粘菌類は今では千数百点の多数に上っており、いかに熱心に努力をなしたかを物語っている。従って、氏の研究がわが国菌学上また農作物の栽培上、幾多の功績を残すものと、この珍しい研究は多くの人々から注目されている。なお同氏は絶えず今も、南方、小畔両氏並びに高農香川教授らの指導を仰ぎつつこの研究に専心している。その話を聞くべく同氏を訪れると、氏は非常に円満そのものごとき人で、静かに、<この粘菌と言うのは多くの菌類に比して短時日に、しかも非常に変化が早く面白いところから、これが研究を始めたもので、当時は一般の人からもあまり問題にされていなかったが、最近畏れ多くも聖上陛下がこのご研究を、専門家も及ばぬほどご熱心に遊ばされる由漏れ承り、多くの人が注意するようになったが、今では農作物特にタバコの苗の仕立て、軟化栽培上床に発生するこの粘菌が多大の被害をもたらすため非常に重視されており、この研究では英国のリスター女史が分類方面に世界的の権威者で、米国でも相当多くの学者が研究している。日本では和歌山県の南方熊楠、神戸の小畔四郎両氏が最高権威であり、本邦粘菌研究を開拓されたものであるが、この粘菌はごく微細な菌類で、その変化が非常に面白く、その分別変化は丁度ホウセンカ(植物の一種)の莢が熟したばあいその種子が飛散するのと類似した作用をなすもので、色彩の変化、形態の変化は、到底人間の力では作り得ない美しさと巧妙さを持っている。全国各地に散在している門下生十五名は何れも自分の研究した粘菌を前記、南方、小畔両氏のもとに送り、一緒にしては数回献上の光栄に浴したことがある>と語っていた。また、県農事試験場、森本技師は<菊池君は長年の間この種の研究をしているが、これを除いては他に何一つとして趣味も道楽もなく、暇さえあれば粘菌を顕微鏡で見ている努力家であり、研究心の強い不言実行の人である。この研究は今のところ県下においてただ一人であろう>と語っている。」

沼宮内耕作(1959)は「セイヨウハコヤナギの朽木に生じた粘菌植物(第一報)」の中で次のように書いている。「調査に当たっては宇都宮市宮原町、菊池理一先生に種々御教示を賜り、且つ、標本の大部分について精密な鑑定をして戴いた。ここに謹んで謝意を表するものである。」

沼宮内耕作は平成5年7月22日付けの、筆者宛ての手紙で次のように書いている。「(私は)若いころ、昭和20年代後半から30年代前半にかけて、いささか粘菌の分類を勉強した者です。家内の伯父にあたる菊地理一に指導を受けました。ずっと続けていればよかったのですが、もともと虫屋であり、また生来の浮気者で、手当たり次第あちこちに首を突っ込むもので、粘菌は昔の話になっておりました。・・・現在、幼稚園の園長をしており、3歳から5歳の小さい子供達に自然教育をするのが主な仕事です。その合間に、週一回、岩手県立博物館のボランティアとして、蘚苔植物の分類整理を手伝っていますので、今のところ粘菌に向かう時間は全然とれません。・・・お申し出の『小畔四郎:御研究所Stemonitis疑問種検定解説』は、私のために菊地理一氏が書き写してくれたものです。昭和9年度分とありますので、全体のうちどの範囲のものか不明です。5頁がありませんが、書き写した際の頁の打ち間違いだと考えられます。」

草野俊助 (Kusano Shunsuke, 1874-1963)

[変形菌に関する業績] 明治時代に、おもに東京近辺で変形菌を採集して標本を英国に送付した。標本はマッシーやリスターによって同定され、彼はその結果を『植物学雑誌』に報告した。
[略歴] 明治7年、福島県相馬に生まれる。仙台の第二高等学校を経て、明治29に東京帝国大学理科大学に入学。明治32(1899)年、同大学植物学科を卒業し、大学院に入学して三好学教授のもとで植物生理の研究に従事し、同年東京帝国大学農科大学講師となる。以後は白井光太郎教授のもとで研究した。彼が同(1899)年に発表した「日本産変形菌」の種の同定は英国のマッシーによってなされている(註1)。明治37(1904)年には「日本産変形菌類」を発表したが、これはリスター父娘によって同定されたものである(註2)。明治37(1904)年から五年間は菊や梅のサビ菌類などについて論文を発表した。明治40(1907)年、農科大学助教授となる。1911-1913年、フクロカビ属とサビフクロカビ属の生活史の研究を発表した。この研究で大正2(1913)年に理学博士の学位を得た。この研究は外国の菌類の教科書などにも引用されたと言われている。大正4(1915)年マーシャル、カロリン、マリアナ諸島の植物調査に従事。大正11(1922)年から二年間欧米に留学。大正14(1925)年から昭和9(1934)年まで白井光太郎教授の跡を継いで東京帝国大学農科大学の植物病理学講座の教授を勤めた。この間の大正14年度には日本植物病理学会々長。また昭和5-17年度にも同会長を勤めた。昭和6(1931)-昭和12(1937)年には東京文理科大学教授を兼任、また広島文理科大学講師と京都帝国大学の講師も一時兼任した。その間の昭和8(1933)年、壷状菌類の生活史に関する研究で帝国学士院東宮御成婚記念賞を受賞。昭和9(1934)年、定年退官して東京帝国大学名誉教授となる。その後も昭和15(1940)年まで東京文理科大学講師。昭和20(1945)年、帝国学士院会員となる。昭和31(1956)年には日本菌学会が設立され、初代会長となり、1962年まで三期会長をつとめた(註3)。昭和37(1962)年5月死去。草野の標本は国立科学博物館に保存されている(註4)。

草野(1899)は「日本産変形菌」の中で次のように書いている。「変形菌の世界に知らるるもの四百余種、決して僅少となさず。しかも本邦産該菌に至ってはその瞭知されたるもの一、二に過ぎず。これけだしその体甚だ細微にして人の注意を惹かざるによるならんか。余の手許に存するもの数種、客年三好教授の手を経て英国専門家マッセー氏に種類の検定を請い、今その種名を明かにするを得たれば、記して以て本邦隠花植物フロラの参考に供す。」

草野(1904)は「日本産変形菌類」の中で次のように述べている。「本年四月発行の『英国Journal of Botany雑誌』に専門家リスター父子が調査せる十八種の本邦産変形菌を載せたり。これは全く余が採集品にかかり、かつて三好博士よりマルシャル・ワード博士へ送られたるものなり。今参考のためにその種名を左に掲ぐ。」

倉石衍(2001)は「草野俊助先生のお教え」の中で次のように書いている。「1953年8月26日より9月4日まで、日本菌学会の前身である日本菌類談話会がFungus Forayを日本で初めて行い、場所としては八甲田地域が選ばれ、(東北大学八甲田山高山植物)実験所が基地となった。<偶然は貴し之を捕らえよ。昭和二十八年九月三日。草野俊助>ここに示された一文はForayの終わる前日、当時の所長神保忠男教授が、御出席の草野先生(その三年後に設立された日本菌学会の初代の会長で植物病理学者)にお願いして書いていただいたものである。この時の墨をすり、草野先生が書いておられるのを目の前で見ていた私は40年以上前のことが昨日のように思い出された。この年は実験所の近くのぶな林の中に多数のたまごたけが生えていた。小林(義雄)先生がそれのすまし汁をつくってくださったが、毒が入っていないかと頂くのが恐かった。」

土居祥兌(1990)は『日本菌学会ニュース』に草野の標本について次のように書いている。「草野俊助コレクションには、本人をはじめ、白井光太郎、吉永虎馬、さらにその他何人かの東京大学に関わりのある植物病理学者の標本が含まれる。」

小畔四郎 (Koaze Shiro, 1875-1951)

[変形菌に関する業績] 日本、朝鮮、台湾、樺太、中国など各地で変形菌を採集した。その業績から見ると、戦前における東洋最高の変形菌採集者と言える。これらの採集品は初期にはおもに南方熊楠によって同定され、後には自身で同定した(註1)。昭和の初期には昭和天皇に、南方や上松蓊らと共に標本を多数献上して研究を助けた。また変形菌の同定や採集指導などの依頼に応えて多くの研究者も育てた。日本の研究者のために一万点以上の変形菌標本を残した業績は非常に大きい。
[略歴] 明治8年に新潟県長岡市千手町300に生まれる(註2)。明治27(1894)年、横浜商業学校卒業後に日本郵船に勤務。のち近海郵船会社の小樽・神戸支店長、内国通運専務、石原汽船専務などを務めた。その間、日露戦争と第一次世界大戦のときは軍務に従事し、陸軍中尉、従六位勲五等功五級となった(註3)。長期にわたって神戸に単身赴任して、仕事と変形菌分類学の研究を両立させた。変形菌の研究は明治35(1902)年に南方熊楠と那智で偶然出会ったことが縁で始めたと言われている(註4、5)。大正9(1920)年、南方を訪問して南方らと高野山で変形菌を採集した。大正13(1924)年には台湾阿里山でも変形菌を採集しているが、これが台湾で採集された変形菌の最初の記録となっている。大正15(1926)年11月10日には東宮御所に出頭し、変形菌90種を進献した。この献上については同年の『植物学雑誌』に「粘菌標本の献上」と題して紹介された(註6、7、8)。このとき献上した変形菌標本の日本人の採集者は朝比奈泰彦、上松蓊、金崎宇吉、楠本秀男、小畔四郎、柴田桂太、中道等、平沼大三郎、南方熊楠、六鵜保、和川仲治郎である。のちのことになるが、彼の同(1926)年の台湾五城での採集品のうちに、後日になってミナカタホコリを見出して中沢亮治に分与し、Nakazawa (1931)がその報告をした。昭和2(1927)年には東北帝大で植物・動物学会があり、南方の名代として出席した(註9)。昭和3(1928)年、渡辺篤と一緒に南方を田辺に訪問。昭和4(1929)年6月8日には南方が昭和天皇にご進講したのち、小畔が神戸に入港した戦艦長門艦上で御前講演し、変形菌150種を進献した(註10)。この時の日本人の変形菌採集者は朝比奈泰彦、石館守三、上松蓊、緒方正資、落合英二、菊地理一、小畔四郎、柴田桂太、中川九一、中沢亮治、久内清孝、平沼大三郎、南方熊楠、渡辺篤である(註11)。昭和7(1932)年には進献のことなどで田辺に南方を訪問した。同年11月14日には大阪にて侍従武官を通じて変形菌30種を進献した(註12、13)。この時の変形菌の標本採集者は、榎本幸治、大江喜一郎、金子直枝、菊地理一、北島修一郎、小畔四郎、小畔正秋、中川九一、松田某(註:英二?、正夫?)、南方熊楠である。[この中の小畔正秋は小畔四郎の子息である。彼は父親の研究を援助し、高知県を含め各地で採集を行なったが、1971年に若くして亡くなったと言われている。この採集当時には東京府立高等学校生徒であった。] 昭和8(1933)年には昭和天皇が福井県行幸の折、福井県産変形菌を調査して、標本を献上した(註14)。この時の変形菌標本の採集者は石徹白岩左エ門、岩田良昌、小畔四郎、小畔正秋、佐板常一、下中野栄蔵、菅岡文太郎、西尾侃一、波多野国孝、藤田衛、紅谷進二、堀芳孝、本田隆成、前川徳松である。昭和10(1935)年には昭和天皇の鹿児島・宮崎への行幸にあわせて、鹿児島県産変形菌を調査した(註15)。この時の変形菌標本の採集者は内藤喬、堀金義、小畔正秋、島袋俊一、細山田良康、松山径雄、今掛壽造、小畔四郎、大庭秀景、長井実孝、下森喜代一、紅谷進二、小堀喜三郎、一條守二、鮫島鉄夫、逆瀬川助熊、田中太、武山宮定、実吉忠夫、西ノ園源一、鮫島文夫である。昭和11(1936)年には昭和天皇の江田島行幸にあわせて、変形菌の図柄のネクタイを製作して天覧に供したりした(註16、17)。また、同年広島県産変形菌を、小畔と内藤喬が中心となって広島県下の中学校や高等女学校の教諭らと一緒に採集した(註18、19、20、21)。この時の変形菌採集者は井谷正巳、伊藤博、井上正純、岩橋八洲民、加藤正光、川崎徳、北川虎雄、楠本政衛、国信玉三、久米寿三郎、倉本幸雄、黒木福松、小畔四郎、小畔正秋、渋谷源治郎、末田修二、末広賀治、杉田茂、竹本貞一郎、田中正一、田辺義忠、得能武一郎、内藤喬、中村至徳、野口彰、花谷一作、藤田豊、古川一明、細川澄、堀江和七、前谷正男、前田栄、松永実三、丸林譲一、村部トメ、森澤人、守屋勝太、結城次郎、湯出原勉、横山宗登である。昭和12(1937)年には東京の自宅が火事で焼失したという(註22)。小畔の戦時中の経歴はよく判らない。昭和23年には公職追放となり、6月19日から11月19日まで、那須の開拓農場にある菊池理一の家に滞在して研究した(註23、24)。その間の夏には菊池の提案で中川九一らを交えて、那須で三日間変形菌の採集をした(註25)。これから三年後、小畔は昭和26年に76歳で東京で死去した(註26)。また多数の標本を大切に保存し、死後には家族から中川九一に標本の整理を託され、1978年には同標本が筑波の国立科学博物館に寄贈された(註27)。1995年には小畔の孫の光一より整理ノートが寄贈された。

南方熊楠は1924年8月24日付けの杉田定一宛書簡で次のように述べている。「内国通運会社の専務取締役小畔四郎(日露役に宇品より軍馬を運輸せし人にて陸軍中尉なり。父は有名なる河井継之助の門下にて剣客たりしが西南役に戦死せり)は多忙の身をもって、内地、朝鮮、台湾、北海道、樺太に旅行し、集むるところ多く、今月に入りてより、小生方へ二百二十余点送り来たり、小生十三昼夜かかりて鏡検せしところ、日本に従来知れざりしもの二十二種ありし。実に多忙中の寸暇をよく使いしものにて、小生ロンドンにて発表せんと起稿中にござ候。」

南方熊楠は1929年3月13日付けの山田栄太郎宛書簡で、小畔の家族について次のように書いている。「小畔氏は七歳ばかりの時父に離れ、父は越後長岡藩の有名な剣客にて、河井継之助、外山修造氏等に従い戦争し、敗軍の後非常に困りおりたるところ、十年の西南戦役に復讐のため志願出陣し、豊後の竹田辺で薩人六人を切りたる後討死致し候。三男ありてことごとく貧乏中に勉強し、長兄は東京で大なる銀行の頭取となり、次男は尺八を始めて西洋の音楽通り譜を作りて吹くことを教え、高名の人なりしが、二人とも五、六年前死亡。三男四郎氏は英和学校卒業後船員となりて久しく郵船会社外国船に乗り込みメルボルン、香港等の下宿におびただしく蘭類を植え、今より三十年ほど前に華頂宮殿下や大隈侯よりも多種の蘭類を集めありし。・・・那智山へ始めて行きし次の年(明治35年)の冬、小生一の滝の下にて浴衣一枚に縄の帯で石に生えたる地衣を集めおるところへ、船員らしきもの一人来たりいろいろ話すと、その人は蘭を集めにこの山へ来たりしという。・・・ずいぶん苦労せし人だけあって、悟りも宜しく、むやみに金を積んでも何にもならずとて多忙の余暇に謡曲を稽古し、素人としては東京に一、二の謡曲家・・・なりしが、蘭の栽培家として有名なりしこと上述のごとし。」

南方熊楠は1929年10月9日付けの山田栄太郎宛書簡で次のように書いている。「小畔氏は、申さば一代身上にて、舟の事務員より近海郵船の神戸支店長までなりたる人なるが、長女丙午の生れにて縁談思わしからず、一昨年ごろようやく銀行員へ嫁したるところ、例の銀行取り付け一件起こり、その婿発狂し、小畔氏娘も精神病となり帰宅、ようやく今度再縁調い、今月末にヨメにゆくはずの由。」

南方熊楠は1925年1月31日付けの矢吹義夫宛書簡で次のように書いている。「那智に在りし厳冬の一日(明治35年1月7日のこと)、小生単衣に縄の帯して一の滝の下に岩を砕き、地衣を集めるところへ、背広服をきたる船のボーイごときもの来たり、怪しみ何をするかと問う。それより色々話すにこの人は蘭を集めることを好み、外国通いの船にのり、諸国に通うに至るところ下宿に蘭類を集めありという。奇なことに思い小生の宿へつれゆき一時間ばかり話せり。それが小畔四郎氏にて、そのころようやく船の事務長になりしほどなり。・・・それよりのち、ときどき中絶せしことなきにあらざるも、小畔氏が海外航路から内地駐在に落ちついてのちは絶えず通信し、その同郷の友、上松蓊氏も小畔氏の紹介で文通の友となり、種々この二氏の芳情により学問を進め得たること多し。」

平野威馬雄(1944)は南方を偲ぶ座談会の席で、小畔の語った南方との出会いに関する話を次のように書いている。「それは(明治35年の)十二月か一月かの寒いときでした。菜っ葉服を着てワラジをはいて那智山へ行ったのです。やがて滝を見ようと一、二町手前まで行ったときに、和服を着た大坊主が岩角で何かを一心に見つめている。ちょっと見ると中学校の博物の先生のような感じがした。私は蘭に趣味を持って研究していたので<どうですか>と話しかけたが、<フン>とか<ウン>とか言って、一向相手になってくれない。それで蘭の話を持ちかけると、やっと話に乗ってきた。蘭の学名などもよく知っている。これは話せそうだと、私は名刺を出して郵船に勤めているのだと言うと、その大坊主先生<ワシはここで微生物の研究をしているのだが、郵船の連中ならロンドン時代によく知っている>とロンドンの話が出た。・・・段を降りるときに私に何か入ったふろしき包を持たせてやおら立ち小便だ。そしてしばらく行くと立ち止まってまた小便。まるで犬のようだ。おかしな人だと思っていると先生は<いやこれはまことに失礼した。君は生意気に洋服を着ているので、英語などをしゃべるとワシはラテン語で応接し、まかり間違ったら、これで殴ってやるつもりだった>と私に持たせたふろしき包から取り出して見せたのは金槌、いやどうも危ないところでしたよ。私の泊まっていたのは大阪屋で、そこまで先生が送ってくれた。そして先生は早速二合買わせてグイと飲んだ。実に見事な飲みっぷりでしたよ。それから私は勝浦から船に乗って帰るのだと言うとまた送ってくれた。途中また茶屋で二合買ってグッと飲んだ。そしてケロリとしているのです。」

南方熊楠は1926年2月13日付けの上松蓊宛書簡で次のように書いている。「大王(註:小畔四郎)今日申し越せしは、服部とかいう博士、毎週摂政宮殿下に生物学のご講釈を申し上ぐる由、その人大王の高名を欽し、所集の粘菌拝見ときたので(博士の甥が大王の幕下の由)、この機を逸せず粘菌四、五十種集め、殿下へ奉献の儀を申し出づべしとのことなり。ついては貴下先年湯本にて成熟品、それから数日後、小生鉢山麓にて未熟品を発見せるCribrariaの新種はいっしょに奉献しては如何とのようのことなり。よって小生これをnov. sp.(新種)として台覧に供し(図説共に)、台覧すみの上これをCribraria gratiosissima Minakata et Uematsuとして発表印行せんと欲す。どうなるか知れぬが、大王より指図あり、台覧許可あり次第、さっそく図説を仕上げ、大王までおくり届けんと存じおり候。・・・小生もなるべく大王の面目を全うするため、手許にいっちょうらいの稀品Minakatella等までおくることゆえ、なるべくは大王自集のもののみならず、平沼、貴下および小生、また朝比奈博士の所集をも多少編入されたきことなり。日本にある属で、Dianemaには二種日本にあり、しかるに二種とも標品きわめて小さく、また二つずつしかなく、何ともなりがたし。よってこれのみはその一種をリスター自身の所集品より採用しておくるはずなり。」

1926年発行の植物学雑誌に掲載された記事「粘菌標本の献上」には次のように書いてある。「今回、摂政宮殿下ご台覧の御命により、本会々員小畔四郎氏は本邦産粘菌の標本の中、代表的のもの九十種を献上せられたり。同標本は同氏が南方熊楠氏指導下に、過去数歳にわたり、本邦各地において採集せられたるものにして、同氏は同標本に下記のごとき表啓文を付せられたり。」として、南方の書いた表啓文を小畔四郎の名でその下に掲載した。(次註参照)

小畔四郎(1926)の「本邦産粘菌諸属標本献上表啓」には次のように書いてある。「粘菌の類たる、原始生物の一部に過ぎずといえども、その大気中に結実する故をもって、一見植物の一部たる菌類の感あり。これをもって動植物学者輩互いにこれを自家研究域内の物と思わず、相譲り避けて留意せざりしこと久し。西洋にありては、承応三年(西暦1654年)ドイツ人パンコウがルコガラ属一種の発生する状を図して速成菌と名づけたるが粘菌最初の記載なるも、その後二百年間著しき科学的研究をなさず。安政六年(西暦1859年)ドイツ人デ・バリー粘菌説を著わしてその本性を論じ、その門に出でたるポーランド人ロスタフィンスキーが明治八年(西暦1875年)粘菌譜を作ってその分類を講じてより、諸国ようやくその専攻の学者を出し、研究随って盛んなるに及べり。支那にありては、唐の段成式の『酉陽雑俎』に<鬼矢は陰湿の地に生じ、浅黄白色にして、あるいは時にこれを見る。瘡を治すに主し>の短文あり。その詳を知るに由なしといえども、多分はフリゴ属の粘菌の原形体が突然発生して形色すこぶる不浄に似たるより、この名を負わせしなるべく、果たして然らば西洋人に先だつことおよそ八百年、支那人すでにこの一類を識りて記載したりしなり。しかるに爾後一千年の間、東洋人一言を粘菌類に及ぼしたるを聞かず。帝国産するところの粘菌に至りては明治の初年外人が小笠原島に産する僅々数種を採り去って調査定名せしことあるも、明治三十五年理学博士草野俊助集むるところの十八種をケムブリッジ大学に贈り、故英国学士会員アーサー・リスターがその名を査定して発表せしを、秩序整然たる本邦産粘菌調査報告の嚆矢とす。和歌山県人南方熊楠は、明治十九年海外に渡り欧米諸国に遊ぶこと十四年、その間西インド諸島粘菌等を採集して創見するところあり。故英国学士会員ジョージ・モレイの勧めにより、帰朝後粘菌の研究を続けて倦まず、新種新変種は固よりその発生、形態、奇病等についても創見するところ少なからず。大正二年<訂正本邦産粘菌目録>を出して一百八種の名を列し、大正十年かつて英国菌学会長たりしグリエルマ・リスター女は南方発見の一種に拠って新たにミナカテルラ属を立てたり。臣四郎熊楠の指導により内外諸国に採集すること歳あり。よって獲しところに右の<目録>出でてのち熊楠および同志諸人が集めしところを合わせ現時帝国産粘菌を点検するに、実に三十八属一百九十三種を算し、うち外国に全くなきもの約七種あり。現今世界中より知られたる粘菌すべて五十三属約三百種の中に就いて、英国は四十四属二百種ばかり、米国は四十一属二百二十三種を出だすに対して遜色ありといえども、帝国にこの類の学開けて日なお浅く人少なきを稽うれば反ってその発達の著しきを認めずんばあらず。今回台覧の恩命を拝戴し、一種あるいは数種の標本をもって邦産粘菌の各属を表わし、すべて九十品を撰集して献じ奉る。ただし邦産三十八属の内、ラクノボルス属の標本は解剖し尽したるをもってこれを闕き、オリゴネマ、ジアネマの二属は邦産の標本きわめて微少なれば英国生の品を代用せり。こいねがわくは嘉納あらんことを。臣四郎恐惶謹んで言す。大正十五年十一月。従七位勲五等功五級、小畔四郎。標本献上者、小畔四郎。品種撰定者、南方熊楠。邦字筆者、上松蓊。欧字筆者、平沼大三郎。」

南方熊楠は1927年8月10日付けの宮武省三宛書簡で次のように書いている。「去る七月二十九と三十日、仙台東北大学にて植物学会、動物学会の大会あり。小畔四郎氏小生の名代として出席、粘菌二百四十点ばかり携出、一般の縦覧に供え演説をやらかし、一部分(七十点)を動物学会へ貸し縦覧。三十日夜の宴席にてアマチュールの学問の国家に必要なる所以を演説し、南方先生の一点張りで、アッと言わせて帰り候。地震にあわざりしは幸いなり。この人は大正十二年の東京大震の時も札幌日本郵船支店長をやめられ東京本店へ転任の帰航中、東京に大震あり。留守宅(この田辺旧藩主安藤男の旧邸)も四、五軒さき迄火事襲来の後、止み候て、まことに運のよき人に候。 右大会の最中、小畔、朝比奈博士、落合、久内等、粘菌を東北大学構内にて採集中、徳川義親侯の植物研究所員、江本義数という人、日本に従前なかりしCienkowskia属を採集致され候。また前月、服部広太郎博士(聖上生物学御師範)が赤坂御所にてPhysarella属を採集致し候。これも日本に従前無かりしものに候。どこに何があるやら分からず候。これにて本邦の粘菌属数はおいおい英米においつき申し候。貴地などもあまりかけ回らずとも、ゆっくりかからば色々と珍品新種あることと存じ候。」

小畔は昭和4(1929)年の昭和天皇への御進講について、次のような記事を残している。「申し上げました説明は大変拙いものでありましたが、終始ご熱心にご聴取あそばされ、鋭いご下問が引ききりなしにありました。一通り終って感激に満ちて御前を退出致しました。この時間まさに四十五分、人臣無上の光栄に浴しました。私の標本は粘菌でありますから非常に小さいものばかりで、標本についてご下問になり、それに奉答する際には、ともすると私の汚い頭髪は陛下の御髪と触れんばかりになります。恐れ多くてこまりました。ご熱心なる御態度には申すもかしこし、敬仰の外はありません。只今もなお玉音朗々として耳底に響くのであります。<小畔は思うがままに採集に出かけることができて幸福だよ>とのお言葉を拝聴致しましたことは恐懼おく能わざる次第であります」。

小畔は1929年6月10日付けで、御進講の際の南方を除いた標本提供者12人に礼状を送っている。手紙は活字で印刷され、次のように書いてある。「聖上陛下阪神ご行幸に際し、はからずも粘菌標本献進のご内意に接し候につき、その選定は全部南方先生のお指図を仰ぎ、また先生のご主旨を体し、努めて先生門下各位の採集品を多数選出することに致し候ところ、標本の大部分は田辺と東京にあり、当地にはただその一部分のみに過ぎず、かつまた天覧までの時日差し迫り、各位にご送付を乞うの暇これなく候が、お召しの前夜までに漸く別表の通り各位ご採集の品を選出し、天覧に供すると同時に、ご前において各位の標本とその氏名につき、一々身分職名および粘菌採集・研究せられたる年数、その他をできうるだけ詳細にご披露申し上げ候。例えば<この朝比奈(ご前なるゆえ姓を呼び捨てとす)は東京帝大教授薬学博士で、地衣の研究採集で有名でありますが、日光で大正十三年粘菌採集して以来、粘菌も採集しています>、<この平沼は色々の研究家でありますが、十余年南方の指導を受け、粘菌も熱心に採集しております>と、一々その標本を指し言上申し上げ候ところ、その都度ご熱心に標本にある採集者の名と標本を御覧遊ばされ、かつ全部進献ご嘉納あいなり候。時間少なかりしも、ともかく各位十二氏全部を前例同様にご披露致し、もって南方先生のご主旨に添い得たることは、誠に至高の至りに存じ候。右ご前のご説明はご座所において、陛下お一人と小生のほかは土屋侍従時々ご用のため出入りせられたるのみにつき、思いのまま言上でき候次第に候。かかる無上破格の光栄は、一に南方先生多年懇篤なるご指導の結果にほかならず候も、また各位におかれて多年不肖をご愛顧ご援助下され候賜と感激に堪えず、よってお礼かたがた当時の模様ご報告申し上げたく、かくのごとくにござ候。」

1932年11月10日付けの大阪毎日新聞掲載の小畔談話は次のように紹介されている。「先年御前御講演の光栄を担い畏き御言葉を拝し奉って以来、愈々微才を顧みず、将来ともに粘菌蒐集に務める念を深めましたが、このほど世界的驚異の新発見であるコッコデルマ新属が、上松君の手で発見されたのは実に日本の誇りとも云うべきでありまして、畏くも聖上陛下、大阪行幸に際して、この世界に希な粘菌を御覧に供し得ますればと存じて居りましたところ、侍従の方々のおとりなしもあり、上阪、具さに侍従武官に御執奏方を御願い申上げる次第であります。」

南方熊楠は1932年11月18日付けの上松蓊宛書簡で次のように書いている。「軍国多事の際とて、一切民間よりの献納品を今回は受けさせられぬ由なるに、小畔よりの粘菌標本を受納とあらば、いろいろのひがみ根性のものが誤解を生ずることもあるべしとて、絶対に秘密にすべしとの内約なりしときくに、15日の夕、大毎の当地記者拙宅へ来たり、何か貴方より進献するというがいかなることかと問われ、小生は電報にまで<ヒミツコウ>とあった小畔がなにか洩らせしにやとはなはだ不審に存じおりたるに、昨17日零時半に、16日午後2時出の状を受け取り、また大阪時事の切り抜きを入れあり。・・・秘密ならば絶対に秘を守るべきに、大阪時事通信者に途中で執えられ(会社支店員より洩れたるならん)、右様に吹きたる上は、コッコデルマは大いに評判となるべし。」

南方熊楠は昭和8(1933)年に上松蓊に宛てた書簡の中で次のように書いている。「大王(註:小畔四郎)は福井県庁より招かれ二回行き向い、白山へ上りしもさしたる珍品なく、先はArcyria praestigiosa Koaze(小生命名)なる一新種くらいのものなりしが、県庁受けが甚だ宜しく、今回礼金をくれたるに一切の旅費を差し引いて百七十二円残りしとかにて、昨日百円小生へ送られ候」。

南方熊楠は1936年11月7日付けの上松蓊宛書簡で次のように述べている。「大王(註:小畔四郎)粘菌の図記なかなか上達致し候。先年鹿児島の粘菌ことのほか聖慮に合い候由にて、そのときの鹿児島県知事が今広島県知事たり、八月九月の候、小畔氏を招致しいろいろ指導の末、県下の教員を総動員し採集せしめたるところ、驚くに堪えたり、小生方へ送来せし標品ただ十点ばかりの内に二千七百八十番というのがありし。おそらくは三千点も集まりしことと察し候。大王の妻子三人神戸に踏み止まり、ルペーにてよい加減にこれを淘汰し、さて大王九月中これを精査し図記を作りて小生へ十点ばかり贈り来たる。小生いろいろ助言の上、冊子に印刷し標品に添えて、大演習前広島県江田島に御駐輦中、県知事よりこれを進献せし由。・・・小畔氏の鹿児島、広島の分発表の直後、貴殿在来の集品図説を朝比奈博士の雑誌かまたはニューヨーク植物園の報告にて、来春中に出すべく候。」

平野威馬雄(1944)は1936年4月8日付けの、次のような大阪毎日新聞に掲載された小畔の談話記事を紹介している。「粘菌の名は畏れ多いが、聖上陛下の御研究を俟って有名になった。・・・面白いのはこの研究が沿革的に専門学者の研究室以外の、アマチュアの<変り学>として進められてきたことで、現在その一人者といわれるリスター女史は英国の百万長者で、世界菌類学の大家A・リスターの娘だが、その他会社の社長、弁護士、僧侶といった顔ぶれが多く、学者もあるにはあるが、その業績はとてもアマチュアの敵ではない。と、いうのは粘菌というものは全く経済的価値がゼロ、人間にとって毒でも薬でもない。だから教壇にとり上げる必要がない。だからアマチュアの一義的な好学心に待つほかない、というわけだ。・・・今日発見されている粘菌は、世界中三百二、三十種あるが、英国の二百余種、米国の二百二十種に対して、日本にある種類は未発表のものを合わせて二百四十余種に上って居る。そのうち半数は南方氏の発見、また四分の一が私の発見、残り四分の一が十五、六人の研究家の業績となっている。その研究家には、聖上陛下の御研究にお相手役の光栄を持つ服部博士、学習院の江本博士、台湾の中沢博士、東京帝大の朝比奈、石館、落合各博士、鹿児島高農内藤教授など、すべて学者としての本職以外の研究である。・・・日本は私の考えでは世界一の粘菌国だと思う。と、いうのは気候が粘菌向きだし、それよりも原始林や処女林が比較的保存されているからだ、たとえば私がやっただけでも、福井県を踏査して新種五つを発見したし、昨年は鹿児島県で変種もこめて十種ほど新しい収穫があった。こんなふうで調査が進めばまだまだ世界的新種は出てくるはずだ。だが同時に文化の進みにつれて採取が困難となり、種ぎれになるおそれがないとはいえない。そこで私達の粘菌に対する努力の目的は二つになる。一つは調査研究、他は現在採取した標本の後世研究の資料とするため永遠に保存するということだ。その為に私は現在二万五千−三万の粘菌を持ち保存の為に苦心している。・・・ただ恐ろしいのはカビと虫だ。だから、私は東京の家族と別れて標本貯蔵に一番適している乾燥地の神戸に独身生活を甘んじている。そして粘菌のためには茶を呑む五分間でも惜しいほどの思いだ。」

平野威馬雄(1944)は次のような昭和11年10月31日付けの『神戸新聞』の記事を紹介している。「素人粘菌研究家として有名な石原産業の小畔氏が、過般大阪高島屋をして図案を作成せしめ、これをネクタイに応用、遂に成功したので同店をして9種27本を謹製せしめ、これを、聖上陛下江田島兵学校行幸の御砌り、出光同校々長を通じ天覧に供したところ、陛下には自然生物を図案に応用するは非常に興味あることと御感あり、同ネクタイ全部を御召上げ遊ばされ給うた旨、28日出光校長から通知があった。同氏は、昭和4年、陛下神戸行幸の御砌り軍艦長門で粘菌に就て御説明申し上げ、今又粘菌を図案に応用しネクタイ模様に新機軸を開き、重なる光栄に浴し、深く感激している。」

平野威馬雄(1944)は1936年9月30日付けの『神戸新聞』の次のような記事を紹介している。「しめきった硝子戸の内を覗きこんだ。なるほど粘菌は暗いところに出来るんだなと奥まで目のとどいた時、モクモクと白いものが動きそれに手足がつき顔が乗り、動いて来たのが小畔四郎氏の全裸体に猿股のついた姿だった。さっそくこっちも上衣を取る。シャツにネクタイは畳み込んでしまった。裸体は小畔氏の師南方熊楠氏と同じく微分子の微分子粘菌研究家のタイプなのである。<この箱が献上見本の粘菌、見たまえ>。拡大鏡の中は実に褐色の大森林だ。異様な美観。<こういう順序に採集選択分類する>。ウルトラパークの顕微鏡をのぞく素裸の小畔氏の肌がシャツを着た体にふれると人並のこちらが妙に恥しくなる。此処はミリの百分の一ミクロンの世界。・・・いま、小畔氏のもとに三千種の粘菌が広島より献上品指揮のため送られている。氏も採集のため出張せねばならぬ寸刻を惜しむ時だった。」

原紺勇一(1998)は、1936年に広島県産変形菌の調査に参加した、当時広島市第一高等小学校訓導であった横山宗登の次のような言葉を記録している。「小畔四郎先生は船会社の社長さんで、チョークを持って教壇に立つ先生ではありませんでした。先生のお宅は神戸のとても大きい自宅で、奥さんと子供さんは東京で勉強していらした(子供さんのお世話をなさっていたと思います)。標本はホコリが一番いけないものですから、先生の研究室や寝室は掃除を許されませんでした。人がいることが一番ほこりを立てるので、訪問なども許されませんでした。私もお宅に泊り込んで仕事をしましたが、ホコリは大禁物で動作もお流儀でやらねばなりませんでした。先生の寝床も上げ下ろし一切なしの万年床でした。でも、ふつうのオッサンよりきれいでした」。

南方熊楠は1936年11月4日付けの上松蓊宛書簡で次のように書いている。「広島県では小学教員等を総動員して二千七百八十点も蒐集せしめ小畔氏一家四人総がかりにてしらべ、最後に小生校閲せしも、新品と申すべきは纔かに六点、其内確かな新種は一点。従前新種か新変種か分らざりしもの、今度完全なる品を得て愈よ新種と定りたるもの一点、新変種四点(この内一はあるいは新種かも知れず。)むやみに多く集むるのもよい加減なものと分り候。」

広島県編(1936)の「広島県産粘菌」には次のように書いてある。「本県下に於ける粘菌は、昭和二年一月小畔四郎が、厳島の山林中よりTrichia verrucosa Berk.ほか十二種を採集し、その他数人の採集を聞くも、未だ全般の状態を知るに由無かりしをもって、本年七月より十月初めに至る約三ケ月間にわたり県下全般の調査を試み、採集数三千余点を検査の結果、下記の成績を得たり。28属109種38変種。上記の中未だ世に知られざるものは、新種3(Physarum属1、Diderma属1、Arcyria属1)、新変種2(共にPhysarum lilacinum種)にして、其の他希品数種を得たり。厳島島内のみに得たるもの、60種17変種に達し、其の中希品と称すべきものも少なからず。本年夏季、本県の天候は粘菌採集に適せざりしにも拘わらず前記の成績を得たるを以て、蓋し本県は粘菌豊富の地と云うを得べし。」

南方熊楠は1937年6月1日の上松蓊宛書簡で次のように書いている。「昨日小畔氏より来信あり。小生は初耳乍ら元日の夜、氏の東京宅失火焼亡し了り、粘菌焼失せる由(但し陣笠品のみ)・・・小生もよい加減に見切りをつけ、早く粘菌譜を(小畔氏の分から)出板し、朝比奈博士の雑誌へ小畔の分を出すにつづき、ニウヨルク植物園より交渉ありしを幸い、貴下等の分の粘菌と自分の帽菌と淡水藻を同植物園の報告で出板し、自分専門に非る嚢子菌以下と地衣、輪藻等は分らぬ分は同園で審査しもらい、小生で分った分は校閲しもらい、自分の所見通りなる分は自分の名、多少の校閲を経るものは校閲した学者と小生の連名、その他は小生発見の旨を明記して彼方の学者単独の名で発表せしむる事にかかるべく候。」

小畔が昭和23(1948)年1月31日に菊池理一に宛てた手紙には次のように書いてある。「小生貴地に参上につき、食事向きまでご配慮のこと千万有難く感謝致します。数日の滞在では十分のことできませんが、一カ月、六カ月となるとご迷惑でありはせぬかと存じますが、如何ですか。実は小生、本一月限りで失職(公職追放)となりましたので、今後は粘菌に一生を打ち込むことにして、着々進行しております。神戸に標本の全部と諸書類の大部を置きましたが(東京は戦災全滅)、そのうち東京でできる範囲の調査資料をおいて、今寸暇を惜しんで進渉しておる次第ですが、どうしても好適の採集地で、発生やその環境などを詳細研究致したいので、貴地のごときは、それには最も適当かと思いますから、お言葉に甘え罷り出でたく、楽しみでおります。なにとぞ貴ご都合お洩らし下されたし。」

菊池理一の長男の勉は、小畔が那須で過ごした頃の思い出を、1999年に次のように書いている。「外国製の紅茶を出され、ご馳走にあずかりました。紅茶へブランディを数滴いれることにより、豊潤な香と味がでることを教えてくれましたことがなつかしく思い出されます。・・・先生は採集用のノミとか剪定鋏、ナイフ等は、いずれも外国製のすばらしいものを使用されておられました。そのいずれにも赤色の長い房付きの紐を使用して、もし紛失しても直ぐ発見しやすいようにしておられるようでした。」

中川九一(1981)は昭和23年の採集会のことを次のように書いている。「小畔さんはかくしゃくとして足腰も強く、山登りは我々と全く変わらなかったが、視力の減退は争えず、山頂近く大きな倒木にPhysarella oblongaがびっしり生えている所へどっかと腰を下ろし休憩されるので、<先生oblongaですよ、oblongaクッションの座り心地は如何ですか>と言ったら初めて気付かれ、<イヤ・・・これは君オブロン木だね>というようなこともあった。」

菊地理一は昭和26(1951)年の小畔四郎の追悼文の中で次のように書いている。「私が先生に直接お教えを乞う光栄に浴し得ましたのは、大正15年落合英二博士のご紹介により、爾来絶大なるご指導をかたじけなくして、今日に至ったものであります。すなわち二十有六年間の久しきにおよびました。その間、私に垂れたまわりしご温情は、一に社会人としてのありかたと、二に科学者としての心構えとでありました。ここにその事例を列挙するご無礼はあえて致しませんが、ただ那須野ケ原の一角に、半年を私のために、先生の貴重な時間を空費されながら、ご指導くだされし当時の思い出として、一、二例だけをお許し願いとうございます。先生には昭和23年6月19日から11月19日に至る満半年にわたり、愚輩のため、また家族のためご教導下さいました。しかも、あの最も不完備きわまる開拓地において、いかなる粗食に対しても、<これはなかなか美味だ>、<珍しい>、<初物だ>、<食物というものは、必ず、それぞれの味を有するものだから、一つ一つ生かして、味わうべきです>、など申され、そして、食後は必ず、一時間にわたって、色々有益なるお話をして頂けました。この一時ほど我々一家に意義あらしめたことはありません。月並みな言葉かはしれませぬが、団らんとはかくあるべきことかなと、思いのまま味わいひたることができました。妻は先生には相済まないと申し続けておりました。無分別な子供両人も、それ以来ぴったり食に関する限り、不平を言わないようになりました。<今日も良きお話を承った。どうして先生はかくもお話がご豊富なのかなァー>と、両人おそれいりながら、食後の一時を待ち通した次第であります。」

中川九一(1996)は小畔の標本などについて次のように述べている。「(小畔)先生の未亡人ふみ子氏は、この時(昭和46年)すでに89才の高齢に達しておられたにも拘らず、気丈にも<洗足のうちの粘菌標本に異常がないかどうか、一度中をよく調べてみて下さい。カビや虫つきなどの異常がなければどこか博物館のような所へ納めましょう>とのことだった。日ならず調査に伺った結果、紙製標本箱にアラビアゴム糊で固着し、ナフタリンで防虫し、更に外を鉄板ブリキ箱に納められた標本は美事な状態で確かめることができた。当初菊池理一さんも健康であったので、二人で整理を始める予定であったのに、その菊池さんが同年7月29日癌の悪化により他界を急がれてしまった。それ以来、(小畔)先生の孫の光一氏の協力の下に、洗足の小畔標本庫より逐次国分寺市中川宅に移しつつ、昭和53年9月漸く一応の整理を終わることができた。記録標本数約16000点余、記帳ノートブック48冊であった。」

小林勝 (Kobayashi Masaru, 1896-1981)

[変形菌に関する業績] 1930年頃に若干の南満州産の変形菌を採集し、他の採集者の標本とともに江本義数に送った。論文は江本(1931、1933)が発表した。また1952年と1962年には福島県産変形菌を江本に送り、江本(1964)が福島県産変形菌として発表した。
[略歴] 明治29年8月23日、福島県大沼郡高田町字安田の農家の長男として生まれた。会津若松にある私立会陽義塾を終了し、北会津郡大戸村小学校の准教員となった。大正3年、18歳のときに福島県師範学校本科一部に入学。大正7年同校を卒業し、北会津郡川南小学校訓導となる。大正10年、文部省検定試験(植物科)に合格。大正11年、福島県立白河中学校へ博物学教師として赴任。この学校に在職中に結婚し、文部省検定試験の生理衛生と動物科に合格した。この時の生徒の一人に竹類の研究で有名な鈴木貞雄がいたという。昭和2年には満州の大連一中に赴任。この学校在職中には様々な植物を採集し、種子植物は大井次三郎と北村四郎と北川政夫に、シダ類は田川基二に、コケ類は笹岡久彦と外山礼三に、変形菌類は江本義数に送って同定されたという(註1)。とくにコケ類は笹岡を介して英国のDixonに送られ、彼の標本をタイプとして12種が新種として発表されたという。昭和17年、鞍山中学校教頭、昭和18年にはチチハル中学校々長となった。この学校に在職中にソ連軍が侵入して略奪し、三万点を越す植物標本などは中国軍が持ち去った。また、長男と次男は栄養失調と敗血症で死亡したという。昭和21年に帰国。昭和22年、福島師範学校教授、昭和25年、福島大学学芸学部講師、昭和32年、同校教授となり植物分類学と形態学を教えた。昭和34年、視力低下と体力衰弱のため同校を退職。昭和41年、私立緑ケ丘女子短大教授となる。昭和49年、同校退職。昭和56年4月5日、85歳で老衰のため死去。

江本義数(1933)は「日本に未だ知られなかった変形菌に就いて」の中のモモイロモジホコリについて次のように書いている。「本種は一昨年小林勝氏が筆者に送付せられた南満州産の標本を調べたとき、旅順老鉄山のカワラボウフウ、禾本科植物の葉または葉柄上に発生したものについて命名記載したものであるが、その後大連でダイレンシダの葉または葉柄に発生したのも知られた。

江本義数(1934)は「満州産変形菌に就いて」の中で次のように書いている。「満州産の変形菌に関しては1931年にSkvortzowが、北満ハルビン、二道江子及び臨江県付近で採集した29種を報告したのが最初のもので、次いで江本が大連の小林勝及び北川政夫両氏から南満産標本を得て、同年に17種を報告し、更に上記小林勝、安東の藤田謹次及び奉天の福田八十楠諸氏から再び材料の送付を受けて1933年に26種を報告する事を得たのである。」

小原敬(2003)は1月15日付けの「茅ヶ崎自然の新聞」の中で次のように書いている。「筆者(小原)は1928年から1949年まで南満州に住んでいた。当時在満日本人生物研究者の間では、年間降水量が少ない南満州には変形菌は分布しないだろうと言われていた。ところが、そのころハルピン在住の白系ロシア人生物学者スクヴォルツオフ氏が、北満州の変形菌を調査研究し、フィリピンの博物学雑誌に発表した。白系ロシア人とは、ソ連の十月革命の時、帝政ロシアを支持した人たちのことである。このことは在満日本人研究者の間に大きな衝撃を与えた。大連第一中学校(旧制)の生物担当であった小林勝先生は、このことを教室で話された。それを聞いた生徒の一人であった渓正夫(たにまさお)氏(のち松田に改姓)は、校庭の落ち葉の下から変形菌を見つけて小林先生に報告した。松田氏は富山高校(旧制)在学中に父親を亡くされた。筆者の父・小原敬介が所長をしていたことがある南満州鉄道株式会社(満鉄)熊岳城農業実習所を卒業され、満鉄中央試験所有機化学課有機試験室で元素の微量分析を担当されていた。植物に関しても非常にくわしかった。筆者は中央試験所に勤務していた折、昼休みには毎日のように松田氏の研究室をたずね、植物について色々と指導を受けた。昭和天皇が那須で採取した変形菌を取りまとめた服部廣太郎先生の著者を見せて頂いたこともある。また、戦後、横浜国立大学の教養学部や教育学部の教授であった北川政夫先生が、学生時代に大連に帰省された時、変形菌の調査をされたということも伺った。1934年ごろ、第一次満蒙学術調査が行われた。この調査で植物学関係を担当されたのは、東京帝国大学理学部植物学科の中井猛之進教授、本田正次助教授、北川政夫理学士であり、その報告書には、変形菌のムラサキホコリカビ類が一種、掲載されている。

小林義雄 (Kobayasi Yoshio, 1907-1993)

[変形菌に関する業績] 1950年に日本人として初めて変形菌に寄生する菌を報告した。大台ケ原山産のヘビヌカホコリに寄生したその菌は、新種Hymenostilbe glandiformis Y. Kobayasiと命名された。また、南方熊楠の菌類標本の整理・研究にも携わった。
[略歴] 1907年5月17日、熊本県で生まれた。1911年には家族が東京に転居したため、以後関東で成長し、東京帝国大学理学部植物学科を卒業した。その後は東京文理科大学の草野俊助教授のもとに助手として勤務。1931年以後、アリューシャン列島、サイパン、トラック、ポナペ、小笠原諸島などを調査。1940年、冬虫夏草菌の研究で学位を得る。1941年、満州国々立博物館推任官となる。1947年に帰国して国立科学博物館に勤務。1956年には日本菌学会が創立されたが、その創始者の一人でもある。1967年より同館植物学部長となる。1968-1969年度の日本菌学会会長。1972年には国立科学博物館を退職し、船橋市の自宅に小林菌類研究所を開設して研究を続けた。1972-1976年には国際菌学連盟副会長をつとめた。1982年、日本菌学会名誉会員となる。1993年1月6日、85歳で死去。彼の研究は多岐にわたり、記載した新分類群は1科2属80種以上であるという。彼は上記の他に世界各地に調査旅行に出かけ、オーストラリア、ニュージーランド、ニューギニア、ヨーロッパ、アフリカ、旧ソ連、北米、南米、ヒマラヤ、インドネシア、アラスカ、台湾、北極圏、南極圏などを調査したという。

小林は小林・清水(1983)共著の『冬虫夏草菌図譜』の序文に次のように書いている。「小林が50年間続けてきたこの研究は、本年春にいちおう完成することができた。・・・日本では明治より大正、昭和の初めにかけて、梅村仁太郎、原摂祐、川村清一らの諸先輩が、この菌類(註:冬虫夏草菌)に大きな関心を抱かれ、二、三の業績を残された。またペッチ氏は今世紀の初めより、セイロン島のぺラデニヤ植物園にあって研究報告を発表し、1948年までに35篇を発表した。しかし、残念ながらその年の秋に逝去された。」

小松崎三枝 (Komatsuzaki Sanshi, ?-?)

[変形菌に関する業績] 大正時代頃に四国産変形菌を採集し、安田篤らに送って同定された。また自身でも論文を発表した。
[略歴] 不詳。茨城県師範学校卒業後、文部省検定試験で植物科の免許状を得たと言われている。明治40年愛媛県師範学校教諭となり、大正7年滋賀県師範学校に転勤したと言う。

安田篤の「菌類雑記(63)」の中のホコリタケモドキ(現在のマンジュウドロホコリ)の項には「伊予国松山に産す、大正五年十月五日、小松崎三枝氏の採集に係る」とあり、これが記録にある四国で最初の変形菌の記録であろう。また、変形菌ではないが、「菌類雑記(70)」のガマタケ(Polyporus Komatsuzakii Yasuda, sp. nov.)(1917)の新種記載文には、「学名の種名には、本邦最初の発見者、小松崎三枝の姓を付し」とある。また同論文のカゴメホコリカビ(現在のクモノスホコリ)の説明文には、「伊予国松山に産す、大正六年六月二十五日、小松崎三枝氏の採集に係る」ともある。

佐々木甚英 (Sasaki Jin'ei, ?-?)

[変形菌に関する業績] 東北地方の変形菌を採集し、小畔四郎らの手で標本が昭和天皇に献上された。
[略歴] 不詳。

菊地理一より佐々木へ宛てた昭和4(1929)年の手紙には次のように書いてある。「貴兄昨年八月二十五日豊間根村にてご採集の(今年六月二日献上申し上げたる)粘菌は新変種なる由、次のごとく本日南方熊楠先生よりご通信これあり候間ご一報申し上げ候。南方先生ならびに小畔先生は、貴兄、中川、永沢のご三君に対し非常に期待致しおり候。この夏小畔先生ご来宇(宇都宮のこと)の節、貴兄方のご活動を聞かれ候。以上の次第なれば、なにとぞ粘菌方面のご研究も将来ご努力願い上げ候。南方先生のご文面そのまま、<前日進献せしTrichia alpina Meylanは従来なき珍品にて佐々木甚英氏の発見なり。貴下この人の住所ご承知ならばこれは来年ロンドンにて発表すべきTrichia alpina Meylan var. Hemitrichia Minakata et Sasakiとなしおく旨ご伝達を乞い奉り上げ候>、以上のこと申し参り候間、貴兄より直接先生へ単にお礼状今後のご指導とを懇切にお認めの上お出しなし下されたく候。」

佐藤清明 (Sato Kiyoaki, 1905-1998)

[変形菌に関する業績] 岡山県産の変形菌を採集して小畔四郎や南方熊楠らの同定などを受け、リストをリムルス学会に発表した。これはガリ版刷りであるが、かなり多数の変形菌が記載されている。
[略歴] 明治38年5月9日に岡山県浅口郡里庄町里見に生まれる。1923(大正12)年、金光中学校(現、金光学園)を卒業し、第六高等学校助手をしながら教員免許を取得する。大正14年、福岡県小倉中学校の理科教師となる。ほぼ1年後に結核を患い帰郷する。昭和6年、清心女学校(現、ノートルダム清心学園清心中学・清心女子高等学校)の教師となり岡山市に居住。昭和8年に結婚し、二男一女をもうける。その後、清心女専・清心女子大講師、岡山県立保育専門学校・岡山県立岡山工業高校・関西学園高校・岡山労災看護学院非常勤講師などを務める。昭和20年、里庄町に帰る。昭和23年、岡山県文化財保護審議会委員となる。昭和26(1951)年には倉敷昆虫同好会の設立に尽力する。昭和26年から43年まで岡山女子短大講師。また昭和37年から47年まで作陽女子短大講師、昭和33年から60年まで岡山大学農学部講師、昭和45年から49年まで同大学医学部講師、昭和50年から58年まで同大学薬学部講師などを務める。その間の昭和52年、岡山県知事から同県私立学校永年勤続表彰を受ける。昭和53年、文化庁長官功労賞受賞。昭和54年、私立学校連合会理事長表彰。昭和55年、勲五等双光旭日章受賞。昭和58年、山陽新聞賞受賞。その間には岡山県土地利用開発審査委員、国土利用開発審査委員、自然環境保全審査委員、緑化推進審議委員、ふるさと村研究審議員、吉備路風土記の丘開発委員、岡山博物同好会会長、倉敷昆虫同好会顧問、岡山自然愛護協会会長などをつとめる。平成10(1998)年9月17日、93歳で逝去。趣味は華道(池坊流)であったという。著書に『博物科叢話』(文京書院)、『岡山県博物風土記』(山陽新聞社)、『岡山県植生図』(文化庁)などがある。

佐藤は『博物科叢話』で次のように書いている。「聖上陛下は畏くも夙にこの粘菌学に最も趣味を有し給い、多数の新種をも御発見遊ばされている。中にもデイデルマ・イムペリアリス・エモト、ヘミトリキヤ・イムペリアリス・リスター等の如きは世界独歩のものであり、且つ種名には畏くも御発見の意味が記入されている。」

澤田兼吉 (Sawada Kaneyoshi, 1883-1950)

[変形菌に関する業績] おもに台湾の変形菌を採集し、標本の一部は小畔四郎らによって昭和天皇に献上された。
[略歴] 岩手県盛岡市上田東組裏132で明治16(1883)年12月26日に生まれた。明治36(1903)年、岩手県立盛岡中学校(現、盛岡一高)卒業。同年、盛岡高等農林学校の山田玄太郎教授の植物標本製作助手となり、以後は早地峰山など、岩手県産の高等植物の標本を採集する。明治41(1908)年、台湾総督府農事試験場の植物病理学担当の技手となる。大正3(1914)年には宮部金吾によって命名されていたウドンコ菌を新属Sawadaea Miyabeとして正式に記載した。大正9(1920)年、台湾総督府農事試験場の植物病理学部長心得となる。昭和2(1927)年、台北高等農林学校教授。昭和6(1931)年、台北帝国大学司書官(図書館長)。同年に『台湾産菌類目録』を出版し、その中に中沢亮治の「台湾産粘菌類目録」を再掲した。昭和16(1941)年、勲四等瑞宝章受賞。昭和17(1942)年、台北帝国大学司書官を退職して理農学部講師となる。昭和22(1947)年、帰国して盛岡農林学校嘱託となる。この頃には台湾から持ち帰った文献を古本屋に売り払った金で標本台紙やラベルを買って、植物標本を整理したという。昭和23(1948)年、林業試験場好摩分場助手となる。昭和25(1950)年4月17日、67才で脳溢血のため逝去。

柴田桂太 (Shibata Keita, 1876-1949)

[変形菌に関する業績] 変形菌を採集し、一部の標本は小畔四郎らによって昭和天皇に献上された。
[略歴] 若年期不詳。明治32(1899)年、東京帝国大学理科大学植物学科卒業。この時に明治天皇が卒業式に行幸され、柴田を含む優等生に銀時計を下賜されたという。同年日本で初めて細胞性粘菌ムラサキカビモドキ(Polysphondylium violaceum)の発生を『植物学雑誌』に発表した(註1)。翌年にこの種は『新撰日本植物図説・下等隠花類部』に図説された。明治40(1907)年、一高教授となる。明治41(1908)年、東北帝国大学農科大学の第二講座(植物生理学)の担当となった。明治43(1910)年、東京帝国大学講師となり、同年ライプチヒに留学、またブリュッセルで開催された第三回国際植物学会に出席した。明治45(1912)年、帰国して東京帝国大学の助教授となった。大正7(1918)年、同大学教授となり第二講座(生理学)を三好学と分担し、第三講座(形態学)を藤井健次郎と分担した。同年、「植物界におけるフラボン体の研究」で帝国学士院恩賜賞を受賞した。大正11(1922)年、『Acta Phytochimica(植物生理化学雑誌)』を創刊する。大正13(1924)年、植物生理化学講座が増設されて担任となり、第二講座を分担した。大正15(1926)年、米国コーネル大学で開催された第五回国際植物学会議に出席。昭和13(1938)年、62才で定年退官。昭和13(1938)年と14(1939)年には日本植物学会々長。昭和14(1940)年、帝国学士院会員となる。昭和16(1941)年、資源科学研究所の初代所長となった。昭和17(1942)年から昭和20(1945)年までは再び日本植物学会々長となった。昭和24(1949)年11月19日死去。細胞呼吸など生理化学の開拓者として評価されている。

小林義雄(1962)は次のように書いている。「草野(俊助)先生が東大の植物学科を卒業せられて間もない1899年の夏の話である。その頃、同級の柴田桂太博士が三好教授の指導下に生理の実験をして居られた。偶々実験材料に選ばれた小石川植物園内のモミジの樹幹にイヌノフグリを拡大したような異様な菌を発見し、当時の草野学士に伝えた。これが変形菌類中の珍種チチマメホコリの発見の機縁である。爾来半世紀の間、この菌は日本の誰によっても再び採られて居らないようである。外国でも稀品に属し、Macbride & Martinによれば変形菌中で最大で、最も著しい種であり、ミシシッピー峡谷ではサトウカエデの切株につくとある。ところで日本に於ける最初の発見から丁度50年経った1949年8月20日に、草野先生は福島県相馬郡八幡の御自宅でモミジの上で再び見出だされたのである。」

昭和天皇 (Showa Emperor, 1901-1989)

[変形菌に関する業績] 東京の皇居や栃木県那須や神奈川県逗子などで変形菌を採集し、服部広太郎御用掛の助言や援助を受けて研究を進められた。その後、南方熊楠、小畔四郎、江本義数などを中心とした変形菌研究者の標本献上や同定で、いっそう研究を深められた。その過程で得た日本新産種などを含む成果の発表は、服部と江本に任された。また発見された新種や新変種の記載については、Gulielma Listerと江本に委ねられた。献上標本の保存なども含め、日本における変形菌の分類学上に残された業績は大きい。昭和天皇が発見され、他の学者によって正式に記載されたものは次の5新種3新変種で合計8品である。オオミマルウツボホコリ(G. Lister 1933、那須産)、アミクビナガホコリ(Emoto 1929、逗子神武寺産)、ミカドホネホコリ(Emoto 1929、逗子神武寺産)、ハイキラボシカタホコリ(G. Lister 1933、那須産)、コウキョカタホコリ(G. Lister 1931、皇居産)、オオギミヌカホコリ(G. Lister 1929、赤坂離宮内苑産)、スミレヒモホコリ(G. Lister 1931、那須産)、ナスフクロホコリ(Emoto 1931、那須産)。また、次の5種は昭和天皇採集の日本新産品と認められている。リスポードスワリホコリ(那須産)、ハーベイイトホコリ(那須産)、ホソコホコリ(那須産)、チョウチンホコリ(赤坂離宮内苑産)、カワリモジホコリ(赤坂離宮内苑産)。
[略歴] 明治34(1901)年4月29日、皇太子よしひと嘉仁親王(のちの大正天皇)とさだこ節子妃(のちの貞明皇后)の第一男子として誕生し、みちのみや迪宮ひろひと裕仁親王と命名された。慣例に従い、生後70日目にご養育掛・海軍中将川村純義伯爵邸に預けられた。明治38年、伯爵の死後は青山の皇孫御殿に移った。明治39年、学習院幼稚園入園。明治41年、学習院初等学科に入学した。当時の院長は乃木希典大将であった。明治45年7月30日、明治天皇が59才で崩御され、嘉仁親王が32才で即位して大正と改元され、裕仁親王は皇太子となった。大正3(1914)年、学習院初等学科を卒業し、同年開設された東宮御学問所で帝王学などを学んだ。当時の御学問所総裁は東郷平八郎であった。博物学の御用掛は服部廣太郎が任命された(註1)。大正10年、東宮御学問所終了。同年、軍艦香取で訪欧。同年、大正天皇の健康が優れず皇太子が摂政に就任。大正13年、くにのみや久迩宮くによし邦彦王の第一女子、ながこ良子女王(のちの香淳皇后)と結婚し、赤坂離宮が東宮仮御所とされた。大正14(1925)年、赤坂離宮内に生物学御研究所が設置され、服部が引き続いて御用掛を拝命した。大正15(1926)年11月10日には小畔四郎が東宮御所にて変形菌標本を献上した。同15年12月25日、大正天皇が静養先の葉山御用邸にて47才で崩御され、裕仁親王が25才で皇位を継承し、昭和と改元された。昭和3年、赤坂離宮から宮城(皇居)へ転居し、同年宮城内に生物学御研究所を設置した(註2、3)。昭和4(1929)年6月1日、南方熊楠が昭和天皇関西行幸の折、和歌山県寄港の戦艦長門艦上にて御進講し、変形菌標本を献上した。同年6月8日には小畔四郎が神戸にて変形菌について御進講して標本を献上した(註4、5、6)。昭和7(1932)年11月14日、小畔四郎が大阪にて侍従武官を経て変形菌標本を献上(註7)。昭和8(1933)年、小畔四郎らが採集した福井県産変形菌を福井県知事より同県行幸の折に献上。昭和9(1934)年11月12日、伊藤春夫が陛下の北関東行幸の折、群馬県産変形菌を展示して説明し、標本を献上した。昭和10(1935)年、南九州行幸の折、県知事より小畔四郎や江本義数らが採集した変形菌標本を献上した(註8、9)。同年服部廣太郎が陛下の研究をまとめたとも言える『那須産変形菌類図説』を刊行。昭和11(1936)年10月、広島県江田島へ行幸の折に同県知事より変形菌標本を献上。昭和16年12月8日、宣戦の詔書を発表して太平洋戦争が始まった(註10)。昭和17年、皇居内の吹上御苑に御文庫(防空壕)完成。昭和19年には皇太子(現天皇陛下)が日光に疎開した。同年、両陛下は御文庫に移られた。昭和20(1945)年8月15日、終戦の詔書が放送された(註11)。昭和21年には年頭詔書で人間宣言をした。同年から昭和29年まで各県を地方巡幸した。昭和22年からほぼ毎年、国民体育大会に行幸啓される。昭和23年、宮城を皇居と改称(註12)。昭和25年、勅語をおことばと改める。同年から全国植樹祭に行幸啓する。昭和36年、吹上御所が完成し、御文庫から移転する。昭和37年、初の共著『那須の植物』出版(註13)。昭和39(1964)年、生物学御研究所編『増訂那須産変形菌類図説』が出版された(註14、15)。昭和42年、初の著書『日本産一新属一新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討』を出版。昭和43年、皇居宮殿落成。昭和46年、両陛下訪欧(註16)。昭和50年、両陛下訪米。昭和63年、8冊目の自著『相模湾産ヒドロ虫類』出版。同年9月19日、大量吐血され重体になり、緊急輸血。昭和64(1989)年1月7日、昭和天皇崩御(註17)、皇太子つぐのみや継宮あきひと明仁親王が皇位を継承し、平成と改元。

服部広太郎(1922)は「東宮御所内の博物学標品陳列館」の中で次のように書いている。「大正3年の春東宮御所内に東宮御学問所を御開設になりし当時から、爾来数年間余は博物学科の御用掛を拝命した関係上、今回御所内に在る博物学標品陳列館の模様を記述する機会に接した事は、余の光栄とする所である。のみならず此陳列館内には、東宮殿下の御手づから御採集になったり、或は御買上げになった標品以外に、国民が熱誠をこめて蒐集し、若しくは製造して、台覧に供する為に献納した、多数の標品模型の類も陳列せられて居るのであるから、此等の品々が如何に丁重に保存せられて居るか、又之が如何に殿下の御趣味にかない、御愛好の資料であるかを世間に報ずることを、更に欣ばしく想う次第である。・・・要するに殿下は何事にも御趣味深くして徹底的に御修得になる御資性であらせらるる所から、苟も多少御参考の資料となるべきものは、必ず御保存になって決して之を廃物になさる様なことはない。嘗て箱根の山々を御跋渉の折、余も亦供奉の一員に加わり、御採集の植物などに就き、品名用途などを何心なく有り合せの紙片に書き付けて差出したものが、他日御調製になったさく葉を拝見すると台紙にその紙片が丁寧に貼り付けられてあったり、又札紙上のインキが水ににじんで退色したものなどは、其文字の上を御自身で御書添えになったりして迄、御保存になるのを親しく拝見して、如何にも恐縮に堪えない事が多かった。斯様な訳で人々の献上品なども、毎年両三度は係りの者に防腐、防虫等の手入れをさせ、永久に保存されるのは如何にも有難い次第である。」

服部広太郎(1928)は「日本に知れざりし変形菌の一種に就て」の中で昭和天皇の変形菌の観察について次のように書いている。「近年来、赤坂離宮の内苑や、那須御用邸の付近において、主上が御余暇に親しくご採集になり、ご研究室にあってご鏡検になりし種類は、すこぶる多数に上ったがその種類の中には、新種というべきものではなきも、日本の領域に産することが、未だ学術誌上に報告されておらぬ者が、数種あることを拝見した。その著しきものの一種をここに報告するのお許しを得たことは、余が特に光栄に感ずる次第である。その種類はPhysarella oblonga Morganと称するもので、現今では未だ属中ただ1種である。以下少しくその形態を記述して参考に供しようと思う。・・・この菌の変形体は、胞子を蒔いて培養して得たものに、淡黄色のと深黄色のとあった。これから子嚢体が出来上がるまでに約四十三日間を要した。」

服部広太郎(1928)は「側近に奉仕して」の中で次のように述べている。「御実験の目的で動物を飼う時に、主上が御親ら餌を御与えになったり、其生育の状を御親ら御覧になって、御慈しみなさるるのを拝して感に堪えぬ次第である。近くは去る8月15日に、那須の朝日、三本槍に御登山の折、雨を衝いて御帰路に向わせられ、途中から御乗馬に召されて、坂路を御降りになった。然るに此坂路は火山の泥濘に腐植土の混じたもので、雨後に泥濘深くして歩行困難な通路である。馬は蹄を支うるに由なくして兎角滑り勝ちにて、流石に困却せる様をみそなわして、遂に御馬よりおりさせられ、しばし疲れし御乗馬を御労わりになり、ここより御用邸迄はまだ小一里もあり、しかも雨は猶降りてやまず、途はますます泥深くなりしにも拘らず、遂に此悪路を御徒歩にて、御帰還になったことを拝したら、如何に御仁慈の大御心の尊さが窺わるるであろう。聖徳禽獣に及ぶとは之をしも申すのである。」

グリエルマ・リスター(1929)は「日本産ヌカホコリ属の1新種」で次のように書いている(原文英語)。「1928年春、日本の東京にある皇居の生物学研究所の服部博士から、二つの粘菌標本を受け取りました。標本はガラス蓋付きの箱に収められていて、粘菌の特徴を示す顕微鏡写真が付属していました。二つの標本は日本の天皇ご自身によって皇居で採集されたものです。天皇は粘菌を特に研究されていて、フィールドでこの生物を多く観察されているので、偶然の発見ではありません。全ての国の粘菌研究者はこのような著名な仲間がいることに大きな興味を抱くことでしょう。標本のうちの一つはよく成長したチョウチンホコリで、日本産の記録がなかったものです。他の一つはヌカホコリ属の標本で、服部博士が書いておられるように、同定はやや難しいものです。・・・1928年夏、このヌカホコリの追加標本を服部博士から受け取りました。それは以前に採集された胞子を研究室で培養して得られたものです。彼はこう記録しています。<胞子は1928年2月1日に、注意深く殺菌した腐木の上に播かれ、21℃に保たれた。4月11日以降は室温に曝され、4月30日に子嚢体が形成された。>これは完熟品で全ての点で親株に似ています。・・・服部博士から新種として記載する許可を頂いたので、日本の天皇が最初に採集されたことを記念して、Hemitrichia imperialisと光栄にも命名することを提案します。天皇は恵み深くも標本を大英博物館に寄贈されたことを付け加えます。」

原摂祐(1930)は「御聖徳と粘菌」の中で次のように述べている。「聖上陛下には御政務御多端に渉らせらるを特に本県の産業、教育、民情の上に軫念を垂れさせ給い、今茲清和新緑の五月二十八日から一週間の久しきに亘って、鳳輦を嶽南参州に進め給い、特に御釜を牧野原茶園に抂げさせられ、又製茶の工場、農学実習或は牧牛所に臨光の栄を垂れ給いたるは、斯業に従事する者の面目と感激とは絶えて地上に譬うるものは無い。特に陛下に於せられては天城山に行幸の節は、全く生物学者として粘菌の御採集に御従事遊されたとのことである。恐れ多くも陛下の御専門に遊されて在ます、粘菌は朽木や古木の樹皮面、又は蘚苔の間などに着生して居るもので、専門学者の他は極めて採集することが出来ないものである。故に恐れ多き極みであるが、陛下におかせられては、或は樹に御よじ登りになり、又は朽木の下や雑草の間をかきわけて、子細に御採集遊されたとのことを漏れ承ったのである。又内相や知事に対して何くれとなく粘菌につき御物語りあらせられたとそく聞する。其時の御物語りの内にも陛下が賢くも今迄粘菌の新しいものを3種迄も御発見遊されたことや、又粘菌の研究の方法につきても、何呉れと御説明遊されて、粘菌の種類を知るには現今リスターの世界粘菌譜が完全して居るから、之と比較すれば容易にそれを知ることが出来る。尚お同書に無きものはリスター女史が同定すれば、世界の学者は皆認むる状態であると御説明あらせられたと漏れ承った。・・・英国ロンドンにはエー・リスターが世界の大家であった。今は第二世ジー・リスター女史が其衣鉢を受けて居る。日本ではリスターに師事した南方熊楠老がオーソリチーである。かつて欧州大戦の初頭に、ドイツ軍が飛行機襲撃を行うた時に、リスター女史は若しも此粘菌標本が戦禍の為に失われる様なことがあったなれば、世界的の大損害であると云うので、此標本を二分して一部を南方老人に託せられたと云う事は、私が直接同老人から聞いた話である。従って私は粘菌を調査するには、日本位恵れた都合のよい所は他に無いと信ずる。粘菌研究の学者としては、南方老人の高弟に小畔四郎氏があり、服部宮内省御用掛の下に江本義数氏がある。世界に存する粘菌の総数は300余種であるが、此内本邦には43属210有余種発見されている。世界に産するものの3分の2以上も明らかにされて居ると云うが如きは、粘菌を措いては他にはあるまい。又以て陛下の御聖徳の程を偲ばるる。」

グリエルマ・リスター(1931)は「日本産粘菌の新種」の中で次のように書いている(原文英語)。「有難いことに、今春、日本の東京にある皇居の生物学御研究所の服部博士から同定依頼の粘菌の小包を受け取りました。標本は全て天皇陛下ご自身が採集され、調べられたものであると書いておられました。標本は厚紙に貼付されて、ガラスの上蓋付きの箱に収められ、虫害を防ぐためにナフタリンが沢山入っています。送られた4種のうちの2種は今まで記載されていなくて、服部博士から記載するように頼まれました。」

グリエルマ・リスター(1932)は「日本産粘菌の新変種」の中で次のように書いている。(原文英語)「日本の東京、皇居の生物学研究所長の服部廣太郎博士から、昨夏、栃木県那須で天皇自ら採集された興味深い粘菌の標本数点を拝受しました。それはキラボシカタホコリと、マルウツボホコリの変種で、今まで記載されたことがないものです。標本は完全な状態で到着しました。そして細毛体と胞子の顕微鏡写真が付属していました。」

江本義数(1972)は1935年に行なわれた南九州産の変形菌調査について次のように書いている。「昭和年代の初期は、明治、大正年代と同じく秋には国内二、三県を併せて陸軍特別大演習が行われるのが常であり、陛下が御統監なさるのであった。1935年には九州鹿児島、宮崎両県下で行われた。当時陛下は変形菌を研究遊ばされていたので、両県の知事はそれぞれの県内に産するこの菌類を採集して御覧に入れ、献上することになって、鹿児島県には小畔四郎氏、宮崎県には私が採集の依頼を受けたのである。私は暑中休暇を利用して同県に向かった。宮崎市に着いてみると、高校、中学校または小学校の先生方が待っておられ、例の如くに、菌の生活史を一通りお話してから、青島、都井・・・など約一週間にわたって、数人一団となって採集して廻り、暑いので一同ずい分疲労したが、その甲斐あって多数の標本を得た。」

小畔四郎(1935)は昭和天皇の変形菌研究について次のように述べている。「先年静岡県下に御行幸あらせられたとき、現本県知事、白根竹介閣下が当時同県知事で、県下各地にご随行の際、<粘菌は動物でありますか、あるいは植物でありますか>との意味をお伺い奉ったところ、陛下は白根知事にご所信をお洩らしに相成ったとの事で、その事は私は本誌に記載を差し控えたいのですが、私はただ白根知事のお話を伺って、まことに学者といえどもかかるご卓論を為し得る者があるであろうかと恐懼した次第であります。これはただ一つの例に過ぎません。その他色々と承る事に就きましても<御趣味>などと申すは誠に畏れ多い言葉で、日本に於いて果して陛下の御相手となり得る学者は幾人在りましょうか、最早無いのではなかろうかと、心密かに敬畏しておる次第であります。昨昭和8年福井県で御行幸を機とし県下の粘菌を調査し、御参考に供する企てをせられ、同県知事の御依頼がありましたので、御影師範の紅谷君と愚息正秋と数回出掛け、県下の中小学教師や視学連と共に各地に採集しました。幸い収穫が相当あって、採集標本約300余種を天覧に供することとしました。その時私は、聖上のご研究は単に標本をご調査になるばかりでなく、生態や分布や色々と各方面にわたり、極めて細密に自然の状態をご調査に相成る。即ち生物という自然科学のご研究によって、其の地方の産業に特種の関係を生ずる原因とか、又は気候、地味、風土の異なる事が生物に如何なる影響がある等の事まで、ご研究相成るやに気が付きましたので、其の発生状態の写真やら、又全県下を調査しまして得たる粘菌分布の地図に、特種のものの発生地等を記載してご参考に供して置きましたところ、これらは単に天覧の栄を賜わりましたのみならず、全部を御研究所の御参考品として御嘉納あらせられ、県知事は無上の光栄として感激したと承りました。我々生物学の研究に従事するものが、とかく面白半分に標本を集めてその多きを誇ったり、または新種を発見したと云うて、鬼の首でも取ったように自慢をしたりすることは、学問を弄ぶと云うもので真の学問ではない。」

昭和16(1941)年12月8日の太平洋戦争開始に当たっての詔書は次のように発表された。「朕ここに米国および英国に対して戦いを宣す。・・・東亜安定に関する帝国積年の努力はことごとく水泡に帰し、帝国の存立またまさに危殆に頻せり。事すでにここに至る。帝国は今や自存自営のため蹶然起って一切の障礙を破砕するのほかなきなり。」

昭和20(1945)年8月15日に発表された終戦の詔書の一部は次のように発表された。「朕は時運のおもむくところ、堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す。・・・よろしく挙国一家子孫相伝え、かたく神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを思い、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし、志操をつよくし、国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。」

田中徳(1949)は昭和天皇の変形菌の採集方法などについて、次のように記述している。「変形菌の採集は那須が多かった。八月になると那須に行かれたが、御採集の日は、すがすがしい朝の九時頃御用邸を出て、側近とくつわを並べて、途中まで乗馬でお出かけになる。それからの山路は危険で、あとの小一里を歩いて行かれるが、そこは御採集に適した余笹沢である。温度や湿度が変形菌に適しているらしく、百種以上の変形菌がこの付近の雑木林の中で採集されている。一行には侍従の他に、助手として顧員がピンセットやはさみ、ナイフ、のこぎり、採集瓶などを胴乱に詰めてお供している。陛下は一休みなさる間もなく、長靴で草深い林の中に入って行かれる。山にはあぶが多く、服の上から刺すこともあるので、これには皆注意している。陛下は枯枝をのぞき、落葉を拾って変形菌を探して巡られる。・・・陛下がうす陽さす木陰にかがんで、熱心にル−ペをのぞかれてから何か発見されると、<これを採ってくれ>と呼びかけられる。助手はナイフで枯木の一部を削り取って、ピンセットで大事に採集瓶に採集する。」

昭和37(1962)年5月23日、昭和天皇は『那須の植物』の出版について記者団に次のように語っている。「今度初めて本を作って恥ずかしいような感じもしたが、みんなも喜んでくれるのでうれしく感じています。」

江本義数(1972)は『那須産変形菌類図説』などについて次のように書いている。「当時は御名で御研究結果を発表されることは全く封ぜられており、御用掛服部広太郎博士の発表の形式となって、『那須産変形菌類図説』となった。そして数年前にこの第二版が御研究所編となった。最近では御名で発表されるようになったことは誠にうれしいことで、『那須の植物』などがそれである。実は<陛下御採集>と記すことも当時は問題となっていた。」

江本義数(1968)は「陛下と変形菌」と題して次のような記事を残している。「陛下は、既に1931年(昭和6年)10月22日LondonのLinneon Society(リンネ学会)の特別総会において、全員一致で同学会の名誉会員に推薦されておられる。その当時はわずかにノーベル賞に関して有名なSweden国王だけであった。そもそも一国の元首が科学されているということは、はなはだ希であって、モナコ国王の海洋学の研究が知られており、生物学に深い造詣をもたれた方は、わが陛下だけと思われる次第で、・・・天下に誇る事柄であると確信するのである。・・・『那須産変形菌類図説』第2版・・・は、やはり御研究所編として公表された。しかも陛下は服部御用掛の米寿を記念されて刊行されたもので、聖慮のあるところ深く感銘したのである。・・・陛下には大正の終り頃から変形菌の研究を初められたと記憶する。赤坂離宮内苑、宮城内苑は申すまでもなく、栃木県日光、ことに那須地域はほとんどくまなく御採集のために足跡を留められ、親しく採集、検鏡あそばされ、既に専門家であられる。そして標本を拝見すると、昭和2年から5年頃に最も盛んに採集されたことが判るのである。・・・かつて軍艦に召されて小笠原父島に御上陸、変形菌御採集ということになっていた。ところが行幸というので変形菌がどういう所に発生するかを知らない人々が自然のままにおく御希望を、森の小径に至るまでただお道筋がよごれていてはとの善意から、全く清掃されてあって、お役にたたなかったという笑うこともできなかった話が残っている。・・・さらに材料を御検鏡あそばされる際、前にお採りになった標本と違う時など、何年何月何日、どこでとったものとこれとは違うと御指摘になるそうで、陛下の御強記には全く恐れ入る次第である」。

戦後の生物学御研究所については江本義数(1972)が次のように述べている。「御研究所は吹上御苑の一角、森林に囲まれた地区で二階建で質素な作りで付属温室もあり、階下南側に御研究室があり、水田も前面にある。階下北側の室には専ら液浸標本、階上には乾燥標本が整理されてある。変形菌標本はもちろんここにあって三千点以上を算し、標本戸棚十個以上に納められ、属を基準にA、B、C順に完全に保存されてある。そしてtype-specimenは別棟コンクリート造の建物に大切に保管されている。これらの標本は日本産はもちろん、支那、南米ブラジル、マレー半島など広地域産のものも含まれている。」

昭和天皇の死去について宮内庁は昭和64(1989)年1月7日に次のように発表した。「天皇陛下におかせられましては、本日午前6時33分、吹上御所において、崩御あらせられました。誠に哀痛の極みに存ずる次第であります。天皇陛下には、昨年9月19日夜吐血あそばされて以来、上部消化管から出血が断続的に継続し、胆道系炎症及び閉塞性黄疸も認められ、また尿毒症も併発されて、全力をあげての御治療も及ばず、遂に本日、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺がん)に因り崩御あらせられました。」

白井光太郎 (Shirai Mitsutaro, 1863-1932)

[変形菌に関する業績] 明治29年「駿遠和紀植物採集の記」で変形体について考察した(註1)。明治38年には『日本菌類目録』の中に当時知られていた変形菌をまとめた。
[略歴] 文久3(1863)年6月2日、江戸に生まれたが、郷里は福井市だとも言われている。明治19(1886)年に帝国大学理科大学植物学科を卒業し、東京農林学校教授となる。明治23(1890)年、学制改革で東京農林学校は帝国大学農科大学となり、白井は助教授となった。同24(1891)年、『日本博物学年表』出版。明治32(1899)年、カシワ類に寄生するサビ菌の銹胞子時代が松類に瘤病を起こすものと同種(異種寄生性)であることを証明した。明治33(1900)年、ドイツに留学(註2)。1905年、『日本菌類目録』を著わした(第二版は1917年三宅市郎増補。第三版は1927年原摂祐増補)。明治39(1906)年に帝国大学農科大学に植物病理学講座が開設され、白井は1907年から東京帝国大学農科大学教授となり、以後、大正14(1925)年まで白井がこの講座を担当した。この間には南方熊楠とも交際があった(註3)。大正14(1925)年、東京帝国大学農科大学名誉教授。昭和7(1932)年5月30日、69才で急死した。死因はトリカブトの根を健康薬として飲んだ結果であると言われている(註4)。彼の後は草野俊助が植物病理学講座を1934年まで担当し、草野の後は中田覚五郎が担当した。白井は日本における植物病理学の開祖と言われ、モチ病菌属や本草学史などの研究も行った。

白井(1896)は「駿遠和紀植物採集の記(承前)」の「硫黄色の変形菌」で次のように書いている。「硫黄色の変形菌は和州(註:奈良県)山上岳辺の地上および路傍の草葉上にあり。深黄色にしてあたかも硫黄の如し。羊歯葉などに付着せる場合には変形体その全葉面を覆い小葉の先まで葉の形に従いて平布し美事なり。予その一葉を採り、宿舎の戸隙に挿みおき、翌朝に至りこれを見たるに、変形体悉く葉頭の裏面に移り、葉面にはふたたびその痕跡を見ざりし。山上岳は雲霧多き処にて宿舎の夜具畳など悉く湿り不快言うべからず。朝は霧にて咫尺を弁ぜざるほどなり。かかる処なる故かくの如く大なる変形菌も発生し得るなるべし。洋書中に見るところのFuligo variansなるものは疑うらくば是なり。」

小林義雄(1988)によれば、白井は明治33年10月12日付けでベルリンから草野俊助に宛てて、次のような手紙を送ったと言う。「市川(延次郎こと)氏の近況如何。当地友人間不評判なり。帰国旅費を友人より得てその後不沙汰とのことなり。稲麹お送りはなるべく速やかに願い上げ候。菊類図説ぐずぐずとは残念なり。何でも始めたら続ける覚悟なくては叶わずと存じ候。大に外国の信用にも関し申し候。ツクバネに寄生ご研究の由、大賀に候。天狗巣も大賀。菌類標本沢山この便お送り下さり有難く、右は二包に分け、一部をヘニングス氏に託し申し候。土佐、井上氏(註:吉永虎馬のこと)より六十余種菌、池野氏(註:誠一郎のこと)の菌若干、貴君の今度のものと合わせ又々一報告でき申すべく存じ候。」

南方熊楠は1911年11月28日付けの柳田国男宛書簡で次のように書いている。「白井博士はまことに一徹な人と存ぜられ候。小生に対し、文通を謝絶せられたり。・・・小生年来、十津川および熊野にて集めし粘菌というもの、白井氏を経て農科大学へ寄付するつもりで品はすでに択みあり。・・・貴下へ贈るゆえ何とぞ白井氏にお手渡し下されたく候。」

昭和7年5日付の『大阪毎日新聞』には次のように書いてある。「自ら発明した長生薬で絶命−−白井博士の死因判明す−−世界的植物病理研究家でまたわが国本草学の権威だった故東京帝大名誉教授理学博士白井光太郎氏(70)の五十忌は三日しめやかに行なわれたが、たまたまこの席上、白井博士の急死の真相が遺族の口から洩れて学界にセンセーションを起こしている。去る五月三十日午後七時博士が死去した当時、その原因は心臓麻痺と発表されていたが、実は博士が苦心研究の結果発見した不老長生の秘薬ウズ(註:トリカブト)を服用したところ配剤を誤り、中毒症を起こして変死したことが明らかとなった。」

田中(市川)延次郎 (Tanaka Nobujiro = Ichikawa N., 1864-1905)

[変形菌に関する業績] 日本人として初めて変形菌に関する論文を発表し、その際に「変形菌」という語を創案した。日本で最も早く湿室培養を行なった人でもある。
[略歴] 元治元年3月16日、東京千住駅南組にあった酒問屋の市川甚平衛の長男として生まれた。幼時より神童と言われ、4才で天皇社ののぼりに大書を揮ごうし、童齢で「秋園」という書号を与えられたという。またのちには謡曲も得意であったという。明治5年、東京浅草待乳山小学校に入学。明治8年、東京英語学校入学。その後大学予備門を白井光太郎と同時に卒業し、明治18年、東京大学理科大学撰科に入学。明治21年、日本人初の変形菌に関する二論文、「一種の変形菌の生存期限」・「一種の変形菌の発生実験記」を発表し、この際に「変形菌」という用語を創案して使用した(註1)。明治22年東京帝国大学理科大学植物学科卒業。明治23(1890)年、『植物学雑誌』にキノコの二新種(ハツタケとアカハツ)を記載した。これが日本人による菌類の新種の初記載で、翌年イギリスの雑誌『グレヴィレア』に転載された。同年にはクサムラサキホコリに関する報告も出している(註2)。明治25年より名古屋で愛知県桑樹萎縮病試験委員を勤めたが、早く夫人を失った。明治30年、東京蚕業講習所内の技手として桑樹萎縮病調査会に勤務し、後妻を迎えた。明治30-31年、ドイツのミュンヘン大学に私費留学して酒麹や細菌培養法などを研究。明治32-33年東京帝国大学理科大学講師。明治36年、調査会廃止後は就職口がなく、夫人も亡くした。その後、精神病を患い、明治38年6月21日に42才で早世した。彼が変形菌関係の論文を書いたときは田中姓で発表している。彼の姓が変わった理由は、学問をするため家業を弟に譲って一時的に田中姓を継いだためと言われるが、一説では兵役関係のためであったとも言う。彼は東京植物学会(現在の日本植物学会)の創立に参加し、『植物学雑誌』(現在のPlant Research)の創刊に大久保三郎、染谷徳五郎、牧野富太郎らと共に関わった。今も使われているこの雑誌の題字は彼の筆になるものという。

田中(1888)は「一種の変形菌の生存期限」の中で次のように書いている。「去る五月中旬に友人荒井健次郎氏が脳状菌科(Tremellaceae)のキクラゲ属(Tremella)に属する一種の菌の生じたる朽木の一片を贈られましたが、他に研究せねばならぬことが夥多ござりまして、この菌を見る余暇がござりませんでした。さりとてせっかく友人より贈られたものを、そのまま徒に朽ちさするも本意でござりませぬゆえ、菌の乾枯を防ぐために、朽木に生じたるままこれを鉢に納め、少量の水を注ぎ入れ、ガラス製の大なるおおいをなしておきました。その後二、三日過ぎて少し余暇を得ましたゆえ、先の菌を見んものと、ガラスのおおいを取り除けて鉢の中をよくうかがい見ますと、朽木の表面ならびに菌の縁辺に沿って一面に、小さき留め針のごときもの(長さ五ミリ位)が生じておりました。すなわちこれがPhysarum属に属する一種の変形菌であることは委しくその性質、形状および発生等を実験した後に分かりました。図らず夥多の変形菌を得、限りなき喜びとともに、実験中に材料が消滅しはせぬかという心配ができました。そこで種々考え、くふうし、また書き物も捜索しましたが、別にこれぞと思う良法ござりませんでした。ただデ・バリー氏の『Comparative Morphology of the Fungi, Mycetozoa and Bacteria』第四百五十丁の変形菌栄養のことを論じた条に<変形菌はおもに死した植物体に生ずるゆえ、その養料に灰分が必要であることは知れてあれど、いかなる化学的物質が常食であるかは一つの問題でまだ分からず>と記してござりましたゆえ、新たに朽木などを時々鉢の中へ入れては水を少し加え、初めて変形菌が生じた時のようになしておきました。しかるに一両日あるいは四、五日おきくらいに数個あるいは夥多の変形菌を生じて、最初生じた時(去る五月中旬)より今日まで六週間にもなりますが、芽胞より変形体を生じ、変形体より芽胞を生じ、絶えず同じことを繰り返し、少しも衰えた様子には見えません。この間に実験した事項は好き折をみてこれも本誌に載せましょう。」

田中(1890)は『植物学雑誌』第4巻「くさびろうどたけ(新称)」の中で次のように書いている。「前種びろうどたけに似て形やや小、高五<ミ、ミ>あり、鉄褐色。子実球形九ないし十<ミクロ、ミ、ミ>径あり。その学名はStemonitis herbatica Peckなり。この菌は本年九月三十日松平斉君栽培コンニャクの茎に発生せり。草本植物を好みその葉および茎等に生ずるをもってくさびろうどたけと名づけたり。」

田辺義忠 (Tanabe Yoshitada, 1906-1963)

[変形菌に関する業績] 昭和11年頃に昭和天皇献上用の広島県比婆郡の変形菌を採集した。
[略歴] 明治39年4月30日、広島県比婆郡峰田村(現庄原市峰田町)で、田辺昇一の長男として生まれる。大正10年、峰田尋常高等小学校高等科を卒業。中学校編入学後、大正11年に広島県師範学校(現広島大学教育学部東雲分校)本科へ入学。大正15年、同校を卒業して竹原尋常高等小学校へ赴任。昭和2年賀茂郡寺西尋常小学校、昭和3年、庄原市高尋常高等小学校、昭和4年、双三郡香淀尋常高等小学校に奉職。昭和9年には比婆郡竹地谷尋常小学校々長として赴任した。校長在任中の昭和11年には昭和天皇にお目にかける広島県産粘菌目録作成のために比婆郡の変形菌を採集した。昭和14年、郷里に帰り、峰田尋常高等小学校に奉職。昭和18年、比婆郡山内東小学校教頭。昭和20年、応召したが南朝鮮で終戦となり、帰国後復職する。昭和21年、比婆郡上谷国民学校々長。昭和24年、比婆郡本田中学校。翌25年には広島での第23回日本遺伝学会大会で「樟脳によるアケビ・トマトの種子なし果実について」を発表する。昭和31年、庄原市立川北中学校。昭和36年、同校退職。昭和38年1月18日、肺炎にて56歳で死去。彼は比婆科学教育振興会の創始者と言われている。

田辺義忠とともに広島県比婆郡産の変形菌の調査をした堀江和七(1965)は、次のように書いている。「古老の語るところによると、田辺家には代々家伝の秘法として、マムシの牙抜きということが伝えられ、ワクチンの無かった時代、山村ではこのマムシは最大の恐怖であったが、毒がリンパ腺を通って体中に回ることを気づいて、その毒道を見つけて毒を絞り出す法である。」

槌賀安平 (Tsuchiga Yasuhei, 1886-1971)

[変形菌に関する業績] 昭和17(1942)年に「伊勢神宮宮域産粘菌図説」を著わした。この論文の図は服部廣太郎(1935)の図をコピーしたものである。
[略歴] 不詳。論文には神宮司庁嘱託とある。

槌賀(1942)は次のように書いている。「我が皇国の偉容厳然として東亜に君臨し、国威隆々として栄え、毅然として他を睥睨する所以のものは、実に敬神崇祖の大道より発揮する道義立国の国是に帰せねばならぬ。しかれども敬神崇祖の意義たるや実に深厚にして博大、これを能く自得せんとせば、まず我々の環境たる山水の美・風光の秀、さてはこれが服飾美たる動植物を子細に点検して、その秘奥を示すことより始めねばならぬ。・・・私はさきに神宮蘚類および神宮蜘蛛類の著を以てした。今回はからずも再び神宮粘菌図説をものして神威山霊相共に、長久に、永遠に我らを教化し、守護せさせ給うことを祈る次第である。」

鶴田章逸 (Tsuruta Shoitsu, 1888-1918)

[変形菌に関する業績] 日本でいわゆる変形菌病を発表した最初の人。タバコ病害研究の先駆者。
[略歴] 不祥。

鶴田(1917)は「煙草の灰色埃黴病」の中で、次のように書いている。「大正五年四月二十六日余はたまたま、遠州引佐郡井伊谷村巡視中、同村字横尾なる久保井京助氏煙草苗圃に生育せる煙草苗に、一種淡黄白色なる粘質物が付着し、一病状を呈するを発見したるが、後にて考うれば本病菌の融合変形体時代なりき。然るところ同年、五月三十日、引佐郡鹿玉村高井直吉氏は、同村字宮口、高井清平および三目理太郎両氏煙草苗圃に発生せる本菌を、余のもとに左の書面と共に送付せられたり。<煙草苗床に一種の菌類発生し、わら、床土、煙草苗、雑草等の別なく蔓延繁殖せり。現下の状況によれば即ち寄生を受けたる煙草苗は、枯死せざるも生育不良なり・・・>かくて余はさらに本菌を安田(篤)理学士に送付し、これが鑑定を乞いしところ、五月八日付をもって灰色埃黴なる事を教示せられたり。」

富樫浩吾(Togashi Kogo?, 1895-1952)

[変形菌に関する業績] 日本国内で初めてモモイロモジホコリを採集し、江本義数により報告された(註1)。
[略歴] 明治28年に山形県に生まれる。大正11年、北海道帝国大学農学部農業生物学科を卒業し、大学院に入学。大学院では宮部金吾教授に指導を受けた。大正13年6月に京都帝国大学農学部助手、9月に講師となる。大正14年、同大学助教授。大正15年、盛岡高等農林学校教授。昭和6年に「桃樹胴枯病の病理学的研究」で農学博士となる。昭和11年から二年間、米・英・独・スイスに留学。昭和19年には華北産業科学研究所の招請で作物病害調査のため中国に出張する。昭和21年、神奈川青年師範学校校長、兼盛岡農林専門学校教授。昭和24年、学制改革により横浜国立大学教授となる。昭和27年7月逝去。著書に『果樹病学』などがある。

江本義数(1933)は「日本に未だ知られなかった変形菌に就いて(三)」で次のように書いている。「我が国に於いても昨年本種(Physarum puniceum)が発見された。即ち盛岡高等農林学校校庭に秋九月生育しつつあるオオバコ、タンポポ、チドメクサ、シロツメクサ、スズメノヒエ、ナババクサ及びヒメジハ<原文のまま>の葉又は葉柄上に生じたのである。これらを富樫教授が採集せられて筆者に贈られた。この種は皆生育する草の葉等に生ずることは注意すべきである。尚小畔氏からの最近の通信により、本種が朝鮮においても採集せられたとのことである。・・・標本を贈られた盛岡高等農林学校の富樫浩吾教授とPhysarum puniceumが朝鮮に産することを報ぜられた小畔四郎氏に深謝する次第である。」

伊藤一雄(1966)は次のように書いている。「北米合衆国に留学した頃、彼の地の研究者は氏(富樫)に<君の英語の論文は君自身が書いたのか>と質問したほど、会話の英語はあまりうまくなかった・・・。氏は明朗闊達で門下生を愛すること慈父の如く、盛岡高等農林学校時代の教え児で親しく師事した人々は、香月繁孝博士を中心に、毎年正月三日には氏の家庭に集まって歓談することを楽しみにしていたのであるが、氏亡きのちでも令夫人を招いて慰める行事は今なお続いている。」

内藤喬 (Naito Takashi, 1891-1957)

[変形菌に関する業績] 昭和10年に行われた昭和天皇の南九州行幸の折に、小畔四郎らとともに鹿児島県産の変形菌を採集して献上した。また、昭和11年にも江田島行幸の折、小畔らとともに広島県産変形菌を採集して献上した。
[略歴] 明治24年12月18日、島根県能義郡母里村西母里224番地で長男として生まれた。明治42年、鳥取県立倉吉農学校を卒業。大正3年、鹿児島高等農林学校卒業。同年、同校植物学教室助手となる。大正4年、志願兵として善通寺歩兵第四十三連隊に入営する。大正5年、同連隊を満期退営する。大正6年、島根県平田農学校教諭。大正7年、長崎県立農学校教諭となった。同年、結婚して長崎市の土橋青村の短歌会に夫婦で入会。大正8年、陸軍歩兵少尉。同年、長崎医専教授で歌人の斉藤茂吉に会って話を聞く。大正10年、島根県立益田農林学校教諭。大正11年、鹿児島高等農林学校助手から助教授となる。大正13年、妻と死別。同年、東北帝国大学のハンス・モーリッシュ博士の講習会に出席。帰途長野県諏訪町に歌人の島木赤彦を訪問。大正15年、比叡山アララギ安居会に出席し、斉藤茂吉、土屋文明らの伴をして高野山に行く。昭和2年、沖縄の植物を調査する。同年8月、昭和天皇が奄美大島に行幸の際、お召し艦上にて植物を展覧に供す。昭和3年、応用菌学と植物生理学研究のため米国留学。この際、斉藤茂吉や土屋文明らの見送りを受けたという。昭和4年には米国より英国へ渡り、オーストリアのウィーンに着く。ウィーンでは斉藤茂吉の下宿だったという家に滞在した。昭和5年、イタリアのナポリより帰国。同年、鹿児島高等農林学校教授となり、林学科で森林植物および樹病を担当。昭和8年、土屋文明が鹿児島県阿久根町で行なわれたアララギ歌会に出席し、鹿児島高農を訪問した。昭和10(1935)年には昭和天皇の南九州行幸の折に、小畔四郎らとともに鹿児島県産の変形菌を採集して献上した。昭和11年にも昭和天皇の江田島行幸の折、小畔らとともに広島県産変形菌を採集して献上した。昭和14年、斉藤茂吉が鹿児島県の招待で高千穂峰に来た際、供をして登山杖を頂戴したという。昭和24年、学制改革で鹿児島大学文理学部教授。昭和30年『鹿児島アララギ』に「野草漫稿」を連載。これはのちに『鹿児島民俗植物記』に転載された。昭和32年、鹿児島大学・琉球大学合同学術調査団に参加して沖縄の植物を調査中、10月31日に琉球大学演習林事務所において心臓マヒで急逝。享年67才。従三位勲三等瑞宝章を授与され、昭和天皇から祭祀料が下賜された。昭和33年、土屋文明は『アララギ』一月号に「賜はりし素馨(そけい)の花の終りにて内藤喬を思ふこの頃」などの挽歌を発表したという。昭和39年、内藤喬遺稿集『鹿児島民俗植物記』が発行された。昭和41(1966)年『内藤喬歌集』が刊行された(註1)。平成3年『鹿児島民俗植物記』復刻版が発行された。

内藤喬歌集の編者で、彼の妻である内藤ふゆ子(1966)は次のように書いている。「初めて(内藤喬の)作品がアララギに載りました大正八年から、逐年頁を繰って夫の歌を見出しては抄録致しました。この事は自ずとアララギの歴史を展望する思いが致しまして、誠に感慨深く、そして思いがけない勉強になりました。このようにして昭和十年までまいりましたが、十一年からはふっつりと作品が絶えている事に驚きました。よほど以前から自分の怠りを申訳ないと繰り返し申してはいましたが、まさかこれ程までとは思いませんでした。昭和十年は本県で特別大演習があり天皇陛下の行幸がありました。夫は学校では植物<メヒルギ>について、また県からの依頼で粘菌を採集して展覧に供え、鹿児島市ではこの為に編纂する『薩摩の文化』の中の<薬園と本草学>に関して担当し非常に感激しておりましたので、これを短歌に表現する為に想を練っていますうちに、意外に時は流れ去ったのがきっかけとなり、遂にそのまま月日が積み重なっていったものと推測されるようでございます。」

中川九一 (Nakagawa Kuichi, 1908-1998)

[変形菌に関する業績] 昭和初期に朝鮮産変形菌を採集してリストを発表した。1981年にはいわゆる変形菌病についてまとめた。特に、小畔四郎の残した標本を整理して国立科学博物館に保存し、現在の研究者の資料とした功績は高く評価される。
[略歴] 明治41年、愛知県名古屋市に生まれる。宇都宮高等農林学校に在学中、菊池理一講師に病理の手ほどきを受けた。菊池はタバコ苗床などに変形菌が多いことに注目して採集していたので、その感化を受けたという。昭和3年には小畔四郎が日光採集の途次に宇都宮に高農の菊池を訪問した際、一緒に半日採集した。高農三年生の夏休みに千葉県の清澄山で採集した変形菌に、南方熊楠がCribraria cylindrica Minakata & Nakagawa(現在のタチフンホコリ)と命名したことなどから、変形菌のとりこになったという。同校を卒業し、陸軍幹部候補生として十カ月訓練を受けたのち、ソウル南方の水原にある朝鮮総督府農事試験場に就職。朝鮮でも病理の研究のかたわら変形菌の採集を続けて、昭和9年に小畔らの指導で朝鮮産変形菌のリストをまとめた(註1、2、3)。当時、小畔は朝鮮郵船の総会に春と秋の年二回来ていたので、小畔の乗車している列車に水原から乗り込んで標本を手渡したり、ソウルで一緒に採集したという。昭和10年には植物検疫官として新義州植物検疫所に転出。昭和16年には中国の上海の華中棉産改進会に勤務。昭和19年2月に召集され、おもに湖南省で従軍した。昭和20年6月に本土兵備要員となり、朝鮮の釜山に到着したときに終戦となった。同年復員し、昭和21年から福島県農業試験場に勤務。昭和23年夏には菊池の提案で、菊池、小畔、中川らで那須の変形菌の採集を行なった。昭和40年同場を退官し、八洲化学に入社して技術顧問となった。昭和46年から小畔家の依頼で、小畔四郎の残した変形菌標本の整理を始め、報農会の援助を得てこれを完成した。その標本は現在、国立科学博物館に収められている。平成10年2月死去。

朝鮮産で新変種として記載されたTubifera ferruginosa var. subungulataについては、中川がのちに次のような思い出を書いている。「小畔さんの校閲で胞子嚢の形が、馬の蹄を更に押しつぶした形、もしくは婦人の乳の垂れたるがごとしと直してある。そこで摘要の方も、depressed hoof or hanging breast of womanとやって中山部長に伺いを立てたら、breast of womanとはもってのほかと叱られ、この部分は削除されてしまった」。

中川(1934)は「朝鮮産粘菌目録」で次のように書いている。「我国に於ける粘菌の研究は近年漸次盛となり、現在知られている本邦産粘菌類の総数は、最近原摂祐氏の目録による43属350種(変種共)、及び其後に於ける江本義数氏発表による1属4種を加えて、44属354種(変種共)に達し、猶お之れに南方熊楠、小畔四郎両氏未発表の1種5変種を加えれば、総計44属360種(変種共)となることとなる。然るに朝鮮にあっては、従来粘菌研究の記録殆んど無く、僅かに中田氏等の1種、及び前記原氏目録中に小畔四郎氏採集に係わる朝鮮産3種3変種を挙げるのみである。今回小畔氏は大正十二年以来92種(変種共)に登る自らの採集目録を著者に提供せられ、又伊藤春夫氏は昭和六、七両年北鮮地方に於ける採集目録を貸与せられたので、之れに著者の採った品を加えて、総計29属135種(変種共)の目録を得た。今之れを前記本邦産のものに比較すれば少数なるも、之れは未だ採集の充分行届かぬ為であり、この点は今後の採集に俟つこととし、一先ず斯学の参考に供することとした。・・・著者の標本は総て南方熊楠、小畔四郎両氏の綿密な鑑定を仰いだばかりでなく、小畔氏は前記の如く貴重な目録を貸与せられ、又本稿校閲の労を執られたことに対して、ここに謹んで謝意を表するものである。伊藤春夫氏は同様に貴重な目録を贈って著者を援助せられ、菊池理一氏は本目録発表に当り多くの助言を賜った。ともに厚く御礼申上げる次第である。」

菊池理一(1934)は中川に宛てて次のような手紙を書いている。「ご恵贈の<朝鮮産粘菌目録>(朝鮮博物学会雑誌第十七号別刷)四部、昨十二日正に落手、お礼申し上げます。早速拝見致しました。非常によくできておりました。註とか採集者として中田先生のも加えられた点、誠に結構です。Stemonitis splendens var. flaccida form. fenestrataの註は面白く拝見致しました。このことについては小畔先生からもご注意があって、採集の都度留意鏡検していたのであります。Stemonitis herbaticaにも面白いのがあるようです。図版はなかなかよくできました。写真は物足らぬ点があります。印刷がやはり下手なんでしょう。原板はなかなか立派なものでしたが、惜しいことをしました。resumeを付けられ誠に結構です。別刷は藍沢氏に一部、森本勇氏(当試験場技師)、小生従兄福田鉄雄(薬学士)に分けます。小生の名をお出しになられしも、何らお手伝いもできず甚だ赤面です。次の方々にお送り願えますれば幸甚です。台北中央研究所、中沢亮治氏(農博)。東京帝国大学薬学教室、落合英二氏(薬博)。宇都宮高農、渡辺龍雄氏。大阪市浪速区大阪地方専売局、中村壽夫氏。東京市西ケ原農林省農事試験場、田杉平司氏。同、山田済氏。同、黒沢英一氏。北海道札幌市帝国大学農学部、伊藤誠哉氏。台北帝国大学理農学部、松本巍氏。京都帝国大学農学部、逸見武雄氏。長野県立農事試験場、栗林数衛氏。以上のほか植物病理研究に従事せる人々(各大学および農試、高農関係)にお送り願います。原氏、江本、渡辺両氏にも同様。小生一昨年来採集の粘菌一つも整理つかず閉口しております。そろそろ採集期に入ります。」

中川は平成5年5月18日付けの筆者宛ての手紙で次のように書いている。「小生6年前に発病、脳梗塞後遺症と診断されています。左半身不随、但し軽いとのことですが。その頃(昨年手紙を頂いた頃)病妻を亡くし、御返事を致すべくしてその意を失っておりました。今、八十余才にして長年の伴侶を失うということが、如何なることかと思い知らされております。ご依頼の主旨に答えるには私の記憶も不正確となりましたので、私の所属、日本植物病理学会永年会員ですが、既往の文献・記録の一部などをお送りし、それによってお取り纏め頂いた方がよいかと考えました。勝手乍らよろしくお願いします。」

中沢亮治 (Nakazawa Ryodi, 1878-1974)

[変形菌に関する業績] 台湾産変形菌を採集して報告した。
[略歴] 明治11年12月18日、東京の日本橋で生まれる。明治38年に東京帝国大学農科大学農芸化学科卒業後、国税庁醸造試験所勤務。明治40年から明治43年にかけてドイツに留学。明治44(1911)年に台湾総督府中央研究所技師として台北へ赴任。大正4(1915)年には泡盛や芋焼酎の糖化菌Aspergillus awamori Nakazawaを分離した。大正15(1926)年頃から台湾産変形菌の採集を始め、昭和4(1929)年には台湾産の変形菌のリストを発表した(註1、2)。なお、このリストは沢田兼吉(1883-1950)が1931年に著わした『台湾産菌類目録』にも再掲載されている。昭和4(1929)年に再び渡欧したときには、英国の変形菌分類学の大家、グリエルマ・リスター女史に会い、同年に帰国後、和歌山県の南方熊楠を訪問した折に、彼女の伝言を伝えたという(註3)。昭和5(1930)年よりは台北帝国大学農学部教授を兼任。昭和6(1931)年には小畔四郎の採集した台湾産のミナカタホコリを報告した。これらの論文はローマ字で書かれていて、当時行なっていたローマ字運動をしのばせる。その後の採集品も小畔に送っていたようであるが、発表されたことはない(註4)。昭和14(1939)年に退職して武田薬品工業の顧問となる。昭和19(1944)年からは発酵研究所の初代所長を勤めた。昭和21(1946)年、所長を退職。その後は再び武田薬品工業に勤務した。発酵の研究などで昭和33(1958)年に紫綬褒賞を受賞した。昭和44(1968)年には日本菌学会名誉会員に推挙された。昭和49(1974)年12月2日、95歳で死去した。

南方熊楠は、1928年6月10日付けの上松蓊宛書簡の中で、次のように書いている。「台湾にある中沢という薬学士か薬物学博士、小畔氏のため多く粘菌を送りこせり、その内にPhysarum luteo-album Listerあり。欧米及び印度の外に見出さず、日本では創見に候。」

中沢(1929)は「台湾産粘菌目録I」の中で次のように書いている(原文ローマ字)。「台湾で粘菌を採集したのは、私の知っておる範囲では1924年2月に小畔四郎氏が阿里山で二、三種類を採ったのが初めてである。その後、朝比奈泰彦博士、石館守三氏が1925年12月から1926年の1月にかけて、他の植物を採集するかたわら、台湾のいろいろの所で採集し、落合英二博士は1927年1月にまた採集されておる。1928年の6月に小畔氏は再び台湾に来られて方々で採集された。私は1926年から粘菌の採集を始めた。小畔氏はわずか一月に足りない間に26属113種(変種とも)を得られたことは、いかに台湾がこの粘菌に富んでいるかということを示すに足り、また、ことにわが国で発見されなかったものが十数種に及び、世界に紹介されなかったものも数種あることは、特に目をつける値打があろうと思われる。今までこれらの人々の採った粘菌の目録を作ってみたのが次の表である。なおこの中に学名の発表されないものもあるが、それは今は仮にnov. sp. Aとかnov. var. Bとして、この表には1928年6月までに学名の発表されたものだけを報告しておく。なお、学名の鑑定はことごとく南方熊楠(註:原文はMinamikata Kusuguma)先生のお力によったことに対して厚くお礼を申し上げる。また、小畔、朝比奈、石館、落合氏らが各々その採集目録をお送り下さったことに対して厚くお礼を述べる。」

南方熊楠は1929年12月19日付けの上松蓊宛書簡に次のように書いている。「十四、十五両日、中沢亮治博士来訪、この人は醸造学の名士にこれあり、色々談りも承はり、又、リスター女史よりの伝語をも拝聞致し候。本年中は随分困厄中にありしも、粘菌は精査を重ね、大王(註:小畔四郎)所集の分も悉く調査し了り候につき、いよいよ来年よりロンドンで公表せんと存じおり候。」

南方熊楠は1932年2月28日付けの上松蓊宛書簡で次のように書いている。「台湾の中沢亮治博士の採集品が小畔(四郎)氏方へおびただしく来たりあり。その内Physarum echinosporum List.これは西インド諸島中もっとも小さきアンチガ島にのみ産するもの、またAlwisia bombarda Berk. & Br.はヤマイカ島、セイロン、マレイ地方だけに出たるものなるに、この二品を右の集品中より大王(註:小畔四郎)捻出致し候は大いなる功名なり。」

中田覚五郎 (Nakata Kakugoro, 1887-1939)

[変形菌に関する業績] 1922年に朝鮮で甜菜に発生する変形菌病を中島友輔、滝元清透とともに、また1928年には滝元清透とともに記載した。
[略歴] 不詳。東京帝国大学農学部卒業。のち九州帝国大学教授となる。草野俊介が定年退官したあとの東京帝国大学農科大学の樹病学も教え、昭和10年兼任講師、昭和12(1937)年から14(1939)年まで兼任教授となる。なお、中田の急逝後は宮崎高等農林学校教授の日野厳が昭和15(1940)年から17(1942)年まで東京帝国大学農科大学の兼任講師として樹病学を講義した。 原摂祐(1927)は『訂正増補日本菌類目録』の「三版序」の中で次のように書いている。「本目録全般にわたり増補訂正を要すること極めて多し。ゆえに九州帝国大学教授中田覚五郎氏に諮り、同氏は植物病原細菌部を、予は菌類部の増補をなし、原著者白井先生の快諾を得てこれを鉛槧に付し、もって菌類学、植物病理学ならびに微生物学の進歩発達の資に供せんと欲す。」

中村寿夫 (Nakamura Hisao, 1904-1962)

[変形菌に関する業績] タバコ苗床に発生するいわゆる変形菌病を研究して発表した。
[略歴] 不詳。論文発表当時は秦野煙草専売局技手、のち秦野試験場々長となる。

中村(1931)は「本邦煙草苗床に発生する変形菌とその防除法」で次のように書いている。「従来本邦に於いて煙草苗床に発生して有害なる変形菌(Mycetozoa)として知られたるものは僅かにPhysarum cinereum Pers.(はいいろほこりかび又ははいいろふくろかび)一種に過ぎず。鶴田氏(1917)は初めて本種が静岡県下の煙草苗床に発生して有害なる事実を報告せり。その後安田氏(1922)による本種に関する記載、及び出田氏(1925)による植物病理学著書中に、鶴田氏の報告が引用収録せられたるを見る。外国に於いても、煙草を害するとして知られたる変形菌は稀なるものの如し。Seymour(1922)による北米産菌類奇主目録中にも、煙草に発生する変形菌としては、僅かにPhysarum compressum Alb. et Schw. (P. nephroideum Rost.)一種を挙げたるのみ。最近著者は専売局秦野試験場において調査研究の結果、本邦煙草苗床にはPhysarum cinereum Pers.を始め、その他多数の変形菌が発生し、これらの中のある種のものは明らかに煙草苗を害し、時として本圃煙草にも発生することを認めたり。」

野口彰 (Noguchi Akira, 1907-1988)

[変形菌に関する業績] 昭和11年に昭和天皇が江田島行幸の折、天皇に進献するための広島県産変形菌を小畔四郎らと一緒に採集した。
[略歴] 明治40(1907)年7月14日、宮崎県北諸県郡五十市町で生まれる。同県で小・中学校を卒業後、小学校で一年間教鞭をとる。大正15(1926)年、広島高等師範学校教員養成所入学。昭和4(1929)年、同校を卒業して宮城県仙台育英中学校の教師となる。昭和6(1931)年、広島文理科大学開校と同時に同校の生物学科に入学。昭和9(1934)年、同校を卒業して広島県立三次中学校教諭となる。同年初めてのコケに関する論文を発表する。以後おもに蘚類を研究する。昭和11(1936)年に昭和天皇の江田島行幸の折、天皇に進献するための広島県産変形菌を小畔四郎らと一緒に採集した。昭和13(1938)年、大分師範学校に勤務。1943年制度改革により教授となる。昭和24(1949)年、学制変更で大分大学の文理学部生物学科の教授となる。同年、大分県文化賞と大分合同新聞社賞受賞。昭和28年、西日本文化賞受賞。昭和30(1955)年、熊本大学生物学科教授となる。1960年から一年間文理学部長を勤める。1962年から1969年まで理学部長。昭和48(1973)年、65歳で同大学を退官して名誉教授となる。同年から服部研究所研究員となる。1974年から1977年まで日本蘚苔学会々長。昭和53(1978)年、勲三等旭日中授賞と熊日賞受賞。昭和63(1988)年9月24日、満81歳で脳梗塞や肺炎が原因で逝去。

橋岡良夫 (Hashioka Yoshio, 1911-?)

[変形菌に関する業績] 変形菌の属までの検索表と和名を発表した。
[略歴] 不祥。昭和6(1931)年、鳥取高等農業学校農学科第三学年のときに『草原(鳥取高農校友会誌)』に「変形菌の検索に就きて」と題して、変形菌の属までの検索表と和名を発表した(註1)。その後は銹菌や植物病理学的研究などをした(註2)。「いもち病感染機構の電子顕微鏡的研究」により昭和51(1976)年度日本植物病理学会賞受賞。平成2(1990)年には日本菌学会名誉会員に推挙された。

橋岡(1931)は「変形菌の検索に就きて」の中に次のように書いている。「斯学入門者の第一に逢着する問題は、採集せる標本の種名検索にして、その分類学的知識の必要多きも、現今の状勢においては、アマチュアの研究者においては適当なる参考書を得ること甚だ困難なり。ここにおいて筆者はSchinz、Lister、Schroeter、Macbride、Saccardo諸氏の著を参考とし、変形菌の属名までの検索表を作り、如上の欠陥を幾分なりとも補わんとす。本表が幸いに斯学研究者の参考となるところあらば、筆者の甚だ喜とするところなり。本稿を草するにあたり、種々ご教示を賜りし紀州田辺町南方熊楠、徳川生物学研究所江本義数両氏に深甚の謝意を表す。」

平塚直秀(1937)は「台湾で採集された銹菌の一珍種」で次のように書いている。「橋岡良夫学士・・・が台湾で初めて採集された一珍種、Pucciniosira Clemensiae Arth. et Cumm.を紹介する。同種はクロミノヘビノボラズ・・・の葉の裏面に寄生するもので・・・。Pucciniosira属菌が我国領土内に見いだされたのはこれが最初であり、植物地理学上非常に興味深いのである。」

橋本梧郎 (Hashimoto Goro, ?-)

[変形菌に関する業績] ブラジルのサンパウロ州付近の変形菌を仲間とともに採集した。標本は小畔四郎によって同定されて昭和天皇に献上された。1953年には自身でブラジル産の変形菌を報告した。
[略歴] 不詳。(註1参照)

橋本は平成11(1999)年9月28日付けの萩原博光宛の書簡で次のように述べている。「私は当時、1936年に創設された、ブラジル・サンパウロ市に本部をおく、栗原自然科学研究所の生物学部長としておりまして、ブラジルの植物を広く採収・研究しておりました。1939年帰朝の駐伯大使澤田節蔵氏から同研究所に、昭和天皇にお土産として、ブラジルの動植物の標本を差し上げたいから、その採集・調整の依頼がありました。この研究所は所長が神屋信一、所員として大窪文秀(天文)、酒井喜重(考古)、小生(生物)そのほかに三名ばかりが在任していました。三宮直巳氏はサンパウロ州奥地のグアララペス市に住み、研究所の支部長をしていたものです。採収は小生の指示で行なわれたものでありますが、小生もこの類(変形菌類)の専門家ではありませんので、標本の調整をしただけで、分類は一切しませんでしたので、当時の御用係服部広太郎先生ではないかと存じます。この後、私も一時粘菌に興味をもち、Serra do Diabo産の種類を発表しましたが、これは昨年訪問の節、(国立科学博物館の)事務長の方にお渡しいたしました。」

服部廣太郎 (Hattori Hirotaro, 1875-1965)

[変形菌に関する業績] 天皇の御用掛として昭和天皇の変形菌研究を援助した。また天皇の研究成果を『植物研究雑誌』に発表し、一般の研究者に資料を提供した。特に『那須産変形菌図説』をまとめて、一般に変形菌に関する知識を普及させた功績は大きい。
[略歴] 愛知県丹波郡西成村を郷里とし、明治8(1875)年5月1日に東京で生まれる。明治25年、開成中学校を卒業して第一高等学校に入学。明治29(1896)年、帝国大学理科大学植物学科入学。明治32(1899)年、同校卒業。同34(1901)年、東京帝国大学理科大学助手。明治38年、学習院講師となる。明治40(1907)年、東京帝国大学理科大学第二講座(植物生理学)講師。大正3年、東宮御学問所御用掛、学習院教授となる。大正5年、学位受領。大正12年、徳川生物学研究所長となる。大正14年、東宮職御用掛。昭和元年より宮内省御用掛として生物学御研究所主任を永く勤め、昭和天皇の生物学研究を援助した(註1、2)。昭和4(1929)年には御進講の件などで南方熊楠を訪問した(註3)。昭和6年、財団法人尾張徳川黎明会理事長兼常務理事。昭和7年、徳川黎明会生物学研究所々長。昭和10(1935)年には昭和天皇の那須での変形菌の採集品をまとめて『那須産変形菌類図説』を出版した(註4、5)。昭和22年、宮内府御用掛、侍従職。昭和25年、徳川黎明会評議員。昭和30年から37年まで、学校法人服部学園理事長、お茶の水美術学院長、服部学園長。その間の昭和34年には高血圧のため眼底出血し、のちに失明したという。昭和39(1964)年には『那須産変形菌類図説』の増訂版が生物学御研究所編として出版された(註6)。昭和40年、風呂場で転倒して左大腿骨を骨折して病床に伏し、9月30日に90歳で死去した。同年には勳二等瑞宝章を授賞して従三位となった。彼の専門は細菌やプランクトン類であり、観世流の謡曲や大鼓や小鼓は玄人はだしであったと言われている。

南方熊楠は大正15(1926)年11月12日付けの、平沼大三郎宛書簡に次のように書いている。「昨日着せし九日出小畔氏の状見るに、服部博士は進献表の発端に小生が<粘菌は原始動物の一部>と書きしに反対にて、原始生物と直したら良きようの指示ありしようにて、小畔氏は電信にて小生に問い合わされしも、依然原始動物で押し通すべしと小生返事せしよりやや不快らしく、これがため進献に故障を生じはせずやと心配のあまり発病し、進献の当日このことが出たら原始生物と書き替える旨申し来たり候。・・・粘菌、これは古くて今日用いぬ語に候(Myxo+mycetes粘る菌類)。今日はもっぱらロスタフィンスキーの菌虫(Myceto+zoa菌類動物)なる語を用い候。・・・粘菌という名は廃止したきも、日本では故市川延次郎氏がこの語を用い出してより、今に粘菌で通り、新たに菌虫など訳出すると何のことか通ぜず、ややもすれば冬虫夏草などに誤解さるべくもやと差し控いおり候。・・・デ・バリー、シェンコウスキーに後るること六十年以上なる今日までも、粘菌は植物なりと教導する者あらば、それは三重県の内に相違なき北・南牟婁郡のことを、漠然たる旧慣薫習によりて和歌山号に載せて職責をはたしたと想いおるようなものに候。・・・粘菌のことは小生一日の長あり、リスター父子のごとき事ごとに相談をかけられたる小生なるにおいてをや。第一こんなことが英国などへ聴こえたら・・・オクスフォード、ケンブリッジ諸大学(秩父宮様御留学の)ではよき物笑いの種と存じ候。・・・博士などいうもの大抵こんな人と思うとあいそがつき申し候。・・・小生はこの上あまり宮廷の御用などを承るよりは、何とぞ尊母よりのご寄付金を活用し、早く粘菌新種だけの図説にても出板発表致したく候。」

南方熊楠は服部について、昭和3(1928)年3月18日付けの上松蓊宛の手紙で次のように書いている。「服部氏は小生へ色々聞き合わさるる質問ていどより察するに、小畔氏ほども粘菌を実地に見たことのなき人らしく、専ら書籍をあてに講習しおる内、幸いに小畔氏の多大なる標品を見、またもらい受け、それより忽ち根拠をつかみ得て、本年二月の『科学知識』に日本の粘菌学は実に成績微々たるものというようなことを書き、また創見品として六種までの名を列せり。・・・服部が聖上ご採集品を御研究所員所集と偽ったり、もしくは御研究所員所集品をご採集品と矯たり、どちらにするも偽言を何とも思わず、また先年進献表の<動物>の字を<生物>と私竄したりするような人物なれば、此方もうそを言うも言い次第にて少しもかまわず。ゆえに貴下は何分小畔氏にどんなうそでも言うてこの上御研究所とは交渉を絶つよう勧告を願い上げ候。」

南方熊楠は昭和4(1929)年5月15日付け古田幸吉宛書簡で次のように述べている。「今月三月五日、宮城内生物学御研究所主任服部広太郎博士、今月当地方行幸諸地下検分として出発、県庁にも知らさず当郡に入り、まず拙宅を訪われ、次に瀬戸岬なる臨海京都大学研究所に臨まれ候。次に四月二十五日・・・ジャワの汎太平洋会議へ派遣の途次、神戸に立ち寄れる服部博士より、同地近海郵船会社支店長小畔四郎(日露役に宇品より軍馬を渡せる有名な人で小生の門人)に托し書信あり。<多年篤学の趣き、かねてより聖聴に達しあるをもって、今年5月貴地方御寄りの節、じきじき御前にて生物学上の御説明の儀を仰せ出ださる>とのことなり。・・・わが一門の光栄これに過ぎず。ことにじきじきの御説明を申し上ぐるは、無上の面目たり。よって小生はひたすら謹慎罷り在り候。」

服部(1935)は『那須産変形菌類図説』の序文に次のように書いている。「集録の種類を特に下野国那須山麓高原所産のもののみに限ったことについては、いささかここにその理由を述べねばならぬ。去る大正14年6月、宮中に生物学御研究室をご新設になった際、余は菲才自らはばからず、御用掛として側近に奉仕しうるの恩命を拝し、爾来今日に及んで満10ケ年の歳月を、幸にして大瑕なく経過するを得しのみならず、那須に行幸御駐輦の期間には、しばしば御用邸に伺候して、あるいは三本鎗の絶顛に、あるいは余笹沢・黒木谷などの那須高原に行幸あって、変形菌をご採集の際には常に供奉し、且つ御研究室内にありて親しくこのご採集品を一々ご検討の際にも、側近に奉仕してお手伝いをするが例であった。これらの事を回想して、この一学究が辱うせし鴻恩の余栄を、永く記念し奉らんがために本書を編纂して、特に那須産の文字を冠したる所以である。」

南方熊楠は『那須産変形菌類図説』について、昭和10(1925)年に上松蓊に宛てた手紙で次のように書いている。「服部廣太郎博士より『那須産変形菌類図説』という美本一冊贈来、非売品なり。誰かが画いた着色図版は小児共の目を悦ばすに甚だしからんも、粘菌の事には無関係の人らしく、あんまり確かなものに非ず。全編みな内外人の説を拾い集めただけなり。批評眼を以て書きたるものに非ず。産地等に至っては、一々原氏の目録や小生の目録、また聖上ご参考品(主として小生と小畔の進献)に由りたらしきが一言もこれに言及せず。まずは著書と言わんより編纂物に候。」

生物学御研究所編(1964)の『増訂那須産変形菌図説』の序文の中にある「増訂に際して」には次のように記述されている。「本書の原書は理学博士服部広太郎編『那須産変形菌類図説』である。昭和のはじめに天皇陛下が変形菌の研究をなさっていた頃、服部博士は御研究のお手伝いをしていた。博士がお相手を勤めた光栄を記念して、原書を刊行したのは陛下の御研究内容の一端を広く紹介するためであった。したがって原書は刊行の形式こそ異なっていたけれども、生物学御研究所編として、相ついで刊行された相模湾産生物の諸研究の叢書に入るべきものである。・・・博士が昭和10年(1935年)に自費出版した原書は、印刷部数が少なかったため、刊行後数年のうちに絶版となり、博士がその後改定を切に希望し、総説を書き改めた程であったにもかかわらず、種々の事情から刊行は困難となり、ついに中止のやむなきに至った。このような事情が陛下のお耳に入って、今回本書が永年生物学御研究所主任であった博士の米寿を記念し、生物学御研究所編として刊行されることになったのである。」

原摂祐 (Hara Kanesuke, 1885-1962)

[変形菌に関する業績] 南方熊楠らの協力を得て、当時知られていた日本産変形菌を三度にわたってまとめ、情報の整理をした。残念なことに誤植がかなり多かった。
[略歴] 明治18年1月、岐阜県恵那郡川上村に生まれる。小学校を卒業したのち、明治33年に岐阜県農学校に入学したが二年で退学。明治37年より名和昆虫研究所に出入りして昆虫や冬虫夏草を調べた。明治40年には名和昆虫研究所に付設された農学校に入学したが同年退学。上京して東京帝国大学農科大学の無給介補となり、白井光太郎と三宅市郎に師事して植物病理学を学ぶ。明治43(1910)年には同大学の助手となった。その後、病気のため一時帰郷して菌類を研究した。大正7(1918)年、同大学の助手を辞任し、宮部金吾の推薦で静岡県農会技師となり、静岡県害虫駆除委員、食事講習所講師、農事試験場病害調査員、静岡県農業教員養成所教授嘱託などを兼務した(註1、2)。1923年には『樹病学各論』と『樹病学提要』を出版した。昭和2(1927)年には白井光太郎の『日本菌類目録』を改訂して第三版を完成、また『実験樹木病害篇』を出版した。昭和5年、帰郷して伴野農薬製造所技師となる。1931-1932年には「日本粘菌目録」を『応用動物学雑誌』に発表した。その後、日本菌類学会を創立して機関誌『菌類』を発行したが三号で休刊した。昭和11(1936)年『日本害菌学』出版。昭和16(1941)年には『日本粘菌類目録』をまとめた(註3)。昭和30年「日本菌類目録編纂並びに本邦菌学に対する貢献」で日本植物病理学会賞を受賞。昭和37年8月逝去。彼の標本の一部は現在国立科学博物館に保存されている(註4)。

南方熊楠は1925年1月31日付けの矢吹義夫宛書簡で次のように書いている。「原摂祐というは岐阜の人で、独学で英仏独伊拉の諸語に通じ、前年まで辱知白井光太郎教授の助手として駒場農科大学に在りしが、白井氏の気に合わず廃止となり、静岡県農会の技手たり。・・・原氏本人が大分変わった人で、たとえば資金補助申請書にそえて身体診断証を出せと言わるると、今日でも明日どんな死にあうかもしれず無用のことなりなど言いはるゆえ、出るべき金も出しくれず。この人東京に出で来たり小生を旅館に訪われし時、その宿所を問いしに、<浅草辺なれど下谷かもしれず、酒屋のあるところなり>など、漠たることをいう。・・・この人はよほど小生をたよりにしおると見え、前年自ら当地へ小生を来訪されたることあり。」

南方熊楠は1933年4月10日付けの榎本宇三郎宛書簡で次のように書いている。「もと農科大学の助手で只今は浪人しおる原摂祐と申し、小生よりは二十年も若いが、世界中に有名な菌学者あり、この人に頼み、ワンジュの菌(榎本ミミタケ)の解剖図をかきもらい候。」

南方熊楠は1941年に上松蓊に宛てた書簡で次のように述べている。「原摂祐等より現在<日本粘菌目録>を出すに付き校訂してくれと申し来たり候。この原というもの粘菌に付き何の経験なし。故白井博士の菌類目録の継続とのことを信じ、小生が目録を作りやりし、それを自分のものとして出し、別刊本は一部のみ小生へ送り来たり、内外人士より望まれて小生四十円ほど自腹を切り、買い入れて送り候。」

土居祥兌(1990)は『日本菌学会ニュース』に原の標本について次のように書いている。「原摂祐コレクションは現在専用の標本ケースに保管されているが、東京大学農学部植物病理学研究室から移管頂いた植物病害菌類標本にもいくらか含まれている。いずれ分類群別に配列した標本ケースに組み入れる予定である。原摂祐氏が発表された新種のタイプ標本のかなりがこのコレクションには含まれていない。またTYPEと朱印を押してある標本にタイプ標本でないものが含まれる半面、タイプ標本であるのに標本に朱印を押してないものもある。」

久内清孝 (Hisauchi Kiyotaka, 1884-1981)

[変形菌に関する業績] 変形菌を採集し、一部の標本が小畔四郎らを介して昭和天皇に献上された。また、小畔四郎らの協力で変形菌の採集や標本製作法についてまとめた。
[略歴] 明治17(1884)年3月10日、東京で生まれる。明治29(1896)年、麻布中学校入学。明治32(1899)年、横浜英語学校入学。明治34(1901)年、同校卒業。明治42(1909)年、牧野富太郎門下に入り、横浜植物同校会々員となる。大正5(1916)年、牧野が久内採集のオカイボタを『植物研究雑誌』創刊号に新種記載する。大正6(1917)年、伊豆の淨蓮の滝でハイコモチシダを発見。その後、種々の高等植物を発見する。1922-1923年、ジャパンタイムズ社横浜支店長。1923年、朝比奈泰彦の研究室に入り生薬学を学ぶ。大正13(1924)年、横浜の私立本牧中学校で英語と植物を教える。1926年、ガロア虫を高尾山で発見。1929年、帝国女子医学薬学専門学校教授。昭和6(1931)年、本田正次・久内清孝『植物の採集と標本の製作』出版。同書の1937年版にはその中に小畔四郎が「粘菌の採集とその標本製作保存法」を書いている。1941年に資源科学研究所が設立されたときに多くの植物標本を寄贈したが、1945年の戦災で焼失したという。昭和24(1949)年から昭和44(1969)年まで東邦大学薬学部教授。昭和24年に出版された柴田桂太編の『資源植物事典』には久内の知識が多く取り入れられているという。1950年『帰化植物』を出版。1969年、東邦大学を85才で退職して名誉教授となり、その後昭和49(1974)年まで講師を務める。1981年4月12日、97才で逝去。

原寛(1988)は久内について次のようなことを書いている。「お人柄は高潔で全く私心がなく、進歩的で国際感覚を身につけておられ、心身とも常に若々しく健康だった。またウィットに富み茶目っ気があり、人を引きつける魅力があったが、また厳しい一面があり、反骨の精神も貫かれた。列車の中や野外で食物を落としたりすると、先生は手早くひろってパッとごみをはたいて食べてしまわれた。その食物に細菌がついてそれで病気になる確率がいかに低いかを知っておられ、自分の行動に確信をもっておいでだった。」

日野厳 (Hino Iwao?, 1898-1985)

[変形菌に関する業績] 1931年に『聖上陛下の生物学御研究』を出版し、その中で昭和天皇の変形菌の研究を紹介した。
[略歴] 明治31年9月に山口県に生まれる。青森県立青森中学校卒業後、大正9年に岡山の第六高等学校二部丙を卒業して東京帝国大学農学部農学科に入学。大正12年、同大学を卒業して九州帝国大学農学部助手となる。大正15年、宮崎高等農林学校講師。昭和3年、同校教授。昭和4年、京都帝国大学農学部講師兼任。昭和5年「土壌繊毛虫の生理学的研究」で農学博士になる。昭和9年からフランス、ブラジル、米国に留学。昭和10年、オックスフォードで開催された第三回国際土壌学会議とアムステルダムでの第六回国際植物学会議に日本代表として出席。昭和11年帰国し、宮崎高等農林学校教授兼同校農業博物館長となる。昭和15-17年、東京帝国大学農学部講師兼任。昭和16年、内務省の都市計画宮崎地方委員会委員。昭和17年、陸軍司政官となって南方に転出。昭和18年、クアラルンプール博物館長、セルダン農業学校講師。昭和20年、インドシナ農業畜産総監兼水利山林総監、農林研究所長、農林大学長、獣医大学長。同年インドシナ大学理学部長兼務。昭和21年復員して山口獣医畜産専門学校講師となる。昭和22年、同校教授。昭和23-26年、山口県立医科大学予科講師兼任。昭和25年、山口大学農学部教授。昭和26年、山口生物学会会長。昭和28-37年、山口大学文理学部講師を兼任。その間、昭和28年より同大学農学部長に三選される。昭和31年、山口県科学教室会長。昭和33年、山口県農業会議々員となり、リオデジャネイロ植物園記念牌と中国文化賞を受賞した。昭和34年、紺綬褒章を受ける。昭和35年、山口県自然公園審議委員会長となり、文部省の文化財功労者表彰を受ける。昭和36年、日本植物病理学会々長。昭和37年「日本産タケ・ササ類の菌類研究」で理学博士となる。同年、山口大学を定年退官して宇部短期大学教授となり、山口大学講師を兼任。昭和40年、山口県文化財専門委員となり、文部大臣から産業教育功績者表彰を受ける。昭和53年には『植物怪異伝説新考』と『植物歳時記』を出版した。昭和60年、逝去。

日野(1931)は『聖上陛下の生物学御研究』の「跋」の中で次のように書いている。「かつて、日本の動物学の恩人モールス先生(Ed. S. Morse)が貝塚中の貝類の研究を行ないまして、その結果を進化論の開祖ダーウィン(Ch. Darwin)に通信致しますと、その返事に<世界のすべての不思議のうち、あなたが援助しつつある日本の進歩ほど不思議なものはない>と付け加えてあったそうであります。ダーウィンの眼識もさることながら、われわれの幾多の先輩が本邦学界の未開領域を開拓するために、なげうった尊い血と汗にも感謝の念を忘れてはなりませぬ。また後進のわれわれは一層の努力を先輩に誓わねばなりませぬ。申すも畏きことながら、陛下御みずから顕微鏡を手にさせ給いて科学の進歩を画らせ給い、また、尊き御手に鋤鍬をとらせ給いて農業の発達を念じさせ給うておられます。誠に恐懼に堪えぬ次第でございます。昭和の大御代に生きとし生けるものは、陛下の大御心を体し更に更に一層の努力を致さねばなりませぬ。」

伊藤一雄(1966)は日野について次のように書いている。「氏の研究対象は非常に広範囲にわたり、原生動物、ウィルス、菌類とゆくとして可ならざるはなく、また考古学・民俗学・方言学にも造詣深く、語学に堪能で、これらのどの分野でも一家をなしている。その博学なこと、スケールの大きいことは現今他に比類をみず、誠に偉大な学者といわなければならない。氏のように多方面にわたる研究を行ない、しかもいずれにおいても一頭地を抜く博識の士はおそらく今後出現しないであろう。・・・氏の研究論文は数百に及んでいるが、著書としては『微生物学汎論』、『植物病理学体系』、『植物疾病診断学』、『植物病学発達史』、『新制植物病理学講義』等があり、また古文献あるいは古書籍の印行出版にも意をつくした。」

平田半之助 (Hirata Hannosuke, 1924-?)

[変形菌に関する業績] 昭和27年に三重県伊勢神宮の「神宮宮域産生物目録V.変形菌類」を発表した。
[略歴] 不詳。1924年三重県一志郡波瀬村に生まれる。1944年以降、植物分類学を研究する。1950年から神宮産変形菌を調査する。

平田(1952)は「神宮宮域産生物目録」の中で次のように書いている。「私が、神宮農業館の嘱託によって現在までに行なった調査範囲は、いわゆる神宮宮域の極く一部分・・・にとどまる。・・・本目録を纏めることができたのは、全く、理学博士江本義数氏のご指導の賜で、同博士に対して、ここに謹んで深甚なる感謝の意を表すると共に、本調査に御協力、御便宜を与えて下さった槌賀安平、田端茂の両氏、並びに神宮司庁林務課長、神宮技師岩田利治氏に対しても、併せて厚く鳴謝するものである。」

平沼大三郎 (Hiranuma Daizaburo, 1900-1942)

[変形菌に関する業績] 変形菌を採集して南方熊楠らに贈って研究を助け、一部の標本は昭和天皇に献上された。母のさく子と共に南方熊楠に書籍購入などの経済的援助もした。彼の名は変形菌アカハシラホコリの学名などに残っている。
[略歴] 不詳。横浜市に生まれ、本町2-27に居住。富豪の平沼専蔵の孫であるという。暁星中学校中退(?)後は家業に従事し、園芸学や人類学の研究をしていたと言われる。大正11(1922)年、南方熊楠が上京の折、南方や上松蓊や六鵜保らと共に一週間ほど日光で変形菌を採集した。大正12(1923)年9月1日の関東大震災の際には別荘でけがをして、その後は健康が優れなかったと言われる。昭和3(1928)年には和歌山県の南方熊楠邸を訪問した(註1)。

南方熊楠は昭和3(1928)年10月29日付けの宮武省三宛書簡で、次のように書いている。「十月十一日平沼大三郎、上松蓊二氏田辺へ来たり、十五日に平沼氏は東帰、上松氏は小生と十八日田辺出立、日高郡川又官林に来たりしも別段珍種も見出ず。十九日にこの妹尾官林に来たり、翌日上松氏右のDiderma koazeiを夥しく採集、二十一日早朝田辺拙宅へ出立、二十三日に東上され候。小生は逗留致し日々夥しく菌と粘菌を見出しおり候。」

藤田衛 (Fujita Mamoru, 1904?-1950)

[変形菌に関する業績] 福井県の変形菌を採集して保存した。
[略歴] 不詳。昭和8年に福井県で陸軍大演習がおこなわれた際、昭和天皇に福井県の動植物を紹介するため大がかりな採集が行なわれた。その折に多数の変形菌を採集して標本を保存した。当時は福井県坂井郡大石小学校訓導。のちに福井市砂子坂に住んだが、昭和25年に46歳で没した。標本の大半は火事で焼失したが、70点ほどは福井市立郷土自然科学博物館に保存されているという。

紅谷進二 (Benitani Shinji?, ?-?)

[変形菌に関する業績] 昭和8年に行なわれた昭和天皇の福井県行幸の折、福井県産変形菌を採集して献上した。昭和9年夏には小畔四郎父子と丹波で変形菌を採集して報告した(註1)。昭和10年に行なわれた昭和天皇の南九州行幸の際には、鹿児島県産変形菌を採集した。標本は小畔らを介して昭和天皇に献上された。
[略歴] 不詳。標本献上当時は兵庫県御影師範学校教諭として勤務していた。1971年には『兵庫県植物目録』(六月社書房)を出版したと言う。

紅谷(1935)は「丹波粘菌一瞥」の中で、次のように書いている。「相当な獲物があるものと小畔先生も予想されて、令息東京府立高等学校高等科在学の正秋君と共にご出動、我々をご指導下さることになった。昨年、福井県に先生のお供をした経験から、採集箱の手製を試み出来上がったのが、採集中諸君の目に異様に写ったのであろうところのかの携帯箱、安部会長は、<君は一行と離れたら押売と誤られそうだよ>と申された。実際かような姿でかの品を持って市内を歩いたら、駆け込んで戸口を閉める人があるかも知れぬ。ある人は申された。<君それは救急箱か>と。まあ普通の植物採集会では見られぬ風景であったであろう。」

松田英二 (Matuda Eidi?, 1893-1978)

[変形菌に関する業績] メキシコのチアパス州産変形菌を採集した。成果は江本義数によって報告された。
[略歴] 不詳。1892年に時の榎本外相がメキシコに植民が可能か問い合わせた結果、メキシコからチアパス州などに払い下げ地の用意があると返事があったと言う。翌年榎本を会長に植民協会が結成され、植民政策が進められたが、結局は失敗に終わったと言われる。チアパス州アカコヤグアにある榎本植民70周年記念事業碑の裏面には、松田の筆になる芭蕉の俳句「夏草やつわもの共の夢の跡」が刻まれていると言う。松田はメキシコ産植物を30年にわたって研究したと言われ、葉の上に花があるように見える蘭、Pleurothalis matsudianaは松田英二を記念した蘭だと言う。

江本義数(1933)は『植物学雑誌』に発表した「メキシコ産変形菌」で次のように書いている(原文独語)。「つい先頃、メキシコのチアパス州、エスクィントラの松田英二氏が現地で採集した100点ほどの標本を送って下さり、ご親切にも、私に研究のため自由に使用することを許可された。この標本には14属約30種が含まれていた。この標本と、以前にマクブライドとスミスによって報告された種とを併せたリストをここに発表する。」

安田篤(1922)は「菌類雑記(123)」の「正誤」で次のように書いている。「フルイタケの学名をHexagonia tenuis Hook.と改む、本菌は小笠原島の外、淡路国津名郡三熊山(松澤重太郎氏採集)、台湾阿?庁武威山(松田英二氏採集)および南洋トルック島(藤井潔氏採集)にも産す。」

南方熊楠 (Minakata Kumagusu, 1867-1941)

[変形菌に関する業績] おもに和歌山県付近の変形菌を採集し、協力者の採集品と共に標本を英国のアーサー・リスターとその娘グリエルマ・リスターに送って同定を受けて研究を深め、日本産変形菌のリストや変形体の色に関する論文を発表した。その中でも生木変形菌の採集は世界に先駆けてなされたものである。彼の発見した新分類群は殆ど英国でリスター父娘によって発表され、彼自身が正式に新分類群を記載することはなかった。標本の一部は昭和天皇に献上され、昭和4年には御進講もした。小畔四郎・上松蓊・平沼大三郎・六鵜保ら多くの研究者や採集者を育てた業績は大きい。
[略歴] 慶応3年4月15日、和歌山市橋町の金物商の次男として生まれた。明治6(1873)年、雄小学校に入学。明治9(1876)年、鍾秀小学校入学。明治12(1879)年、和歌山中学校入学。明治16(1883)年、東京神田の共立学校に入学。明治17(1884)年、大学予備門に入学。明治19(1886)年、大学予備門を退学して渡米した。明治20(1887)年、サンフランシスコのパシフィック・ビジネス・カレッジに入学。同年、ミシガン州のランシング州立農科大学に転入学。明治21(1888)年、同大学を退学してミシガン州アナーバに移る。明治24(1891)年、フロリダ州ジャクソンビルに移住して西インド諸島などを旅行した。明治25(1892)年、渡英。その後はロンドンに居住し、大英博物館などで独学する。明治33(1900)年、帰国して和歌山市近辺で暮らす(註1)。明治34(1901)年、那智勝浦に移って近郊の生物を調査する。明治35(1902)年、田辺に移って付近を調査する。明治39(1906)年には結婚した。この年よりアーサー・リスターと文通が始まる(註2、3)。明治41(1908)年よりグリエルマ・リスターと文通が始まる(註4)。同年、南方は初めて変形菌に関する論文を発表した(註5)。明治43(1910)年、神社合祀反対などのため、家宅侵入罪で18日間入監。明治44(1911)年、グリエルマ・リスターが『粘菌モノグラフ』の第二版を出版(註6)。大正2(1913)年、南方が「訂正本邦産粘菌目録」を発表した(註7)。大正4(1915)年、グリエルマ・リスターが「日本産粘菌」を発表する(註8)。大正5(1916)年、和歌山県田辺町中屋敷町に380坪の家を構え、その後終生居住。大正9(1920)年8月には小畔四郎、川島友吉(草堂)、宇野確雄らと高野山に旅行して採集する。大正10(1921)年11月には楠本秀男と一緒に高野山に行き採集する。同年、グリエルマ・リスターは「粘菌の新種、希種」を発表し、その中で、南方が自宅の柿の木で採集した変形菌を新属ミナカタホコリ属(Minakatella)として発表した。(註9)。大正11(1922)年、東京に5カ月間旅行し、その間の夏には上松蓊、平沼大三郎、六鵜保と一緒に日光で採集した(註10)。大正14(1925)年には長男が土佐中高校受験の際、高知市にて精神病を発病し、以後ずっと病人を抱えることになった。同年、グリエルマは『粘菌モノグラフ』の第3版を出版した(註11、12)。昭和2(1927)年、南方は「現今本邦に産すと知れた粘菌種の目録」を発表(註13)。昭和4(1929)年、グリエルマが昭和天皇の採集品を新種オオギミヌカホコリとして発表した(註14)。同年、南方は昭和天皇に戦艦長門艦上で御進講し、変形菌標本などを献上した(註15、16)。昭和6(1931)年、グリエルマは昭和天皇の標本に基づいて新種スミレヒモホコリとコウキョカタホコリを発表、南方宛の最後の手紙を送った(註17、18、19、20)。昭和16(1941)年12月29日、74歳で萎縮腎に黄疸を発して死去した(註21、22、23、24)。標本の大部分は小畔四郎や中川九一らの手を経て国立科学博物館に収められた(註25)。その後、南方の残した標本や図の検討・整理が進められつつある(註26、27)。

南方は1911年8月29日付けの松村任三宛書簡で、変形菌の研究を始めた動機を書いている。「小生は植物大家などとちらほら東京大阪の新聞へ出候が、小生は植物学を正則に学んだことはなく、在英のとき書籍学(ビブリオグラフィー)を日々の営業とし、そのひまに遊んでもおられぬゆえ、手当り次第に書籍のcontentsを誦じたり。さて帰国のとき大英博物館のモレー(George Murray)を訪いしに、日本は隠花植物(菌藻等)の目録未だ成らぬは遺憾なり、何卒ひまあらば骨折られたきことなりとのことにて、帰国後商業はきらいなり、すでに11年、この熊野におり、主として淡水藻と菌類及び粘菌を集め画し、粘菌はその発生経過等のことを少々潜心して研究せり。」

アーサー・リスターの南方宛1906年2月23日付けの封書には次のように書かれている(原文英語)。「拝啓、貴方が御親切にも大英博物館に提供して下さるという、興味深い日本産の粘菌標本を、博物館自然史部のジェップ氏が同定用に送って下さいました。3年前、東京の三好教授からケンブリッジのマーシャル・ワード教授に送られた18種の標本を受け取った時(それが貴国からの初標本でした)と同様に、私は大変嬉しいです。貴方の標本は新種はありませんでしたが大変面白いものでした。地理的分布や変異度(数点の標本による)に関する知識が増えました。貴方が送って下さった標本について私の意見を書いていきます。貴方が言及されたその他の標本も調べることができれば、私は大変嬉しいです。標本は直接私宛にお送り頂いた方がよいと思います。私は適当な標本を大英博物館に回すようにしましょう。・・・書籍小包で大英博物館の『英国産粘菌ガイド』改訂版をお送りするつもりです。貴方が送って下さった粘菌のうち数種はこの中では扱われていませんが、近いうちに『粘菌モノグラフ』を続いてお送りするつもりです。この本は既知の全種類を扱うことを目的の一つにしています。貴方が採集された大量の菌やコケなどの標本に関するご質問には、きっとジェップ氏が答えていることと思います。私は特に粘菌に興味があり、日本で発見された全種類を可能な限り大英博物館が所有することを切望しています。貴方が書いておられる採集日や発生基物などは大変貴重な事柄です。変形体や採集高度などの記事も大歓迎です。早々。」

リスター父子(1906)は「日本産粘菌」の中で次のように書いている(原文英語)。「1906年1月、大英博物館植物学部は粘菌標本29種46点を受け取った。それは南方熊楠氏が提供されたもので、1902年から1905年までに北緯約34度にある日本本土南端の紀伊で採集されたものである。日本産の標本で我々が知っているのは、1902年に三好教授がマーシャル・ワード教授に送り、今、ケンブリッジの標本庫に収められているものだけである。それは18種の標本で1904年の本誌97頁に報告された。そのうち9種は下記のリストに含まれていて、アステリスクを付してある。従って、我々の知る限りでは、現在までに記録された日本産粘菌の総数は38種である。完全な新種は含まれてはいない。いくつかは希種で非常に興味深いものであるが、米国と西インド諸島産粘菌の特徴と一致する。」

グリエルマ・リスターの1908年10月12日付け南方宛書簡には次のように書いてある(原文英語)。「拝啓、7月17日付の父へのお手紙のお礼状も書かず申し訳ありません。月末に送って下さるという標本の小包が間もなく届くだろうと思って、待っていました。小包はまだ着いていません。父は数週間患った後、7月19日に亡くなりました。お知らせするのがこれ以上遅くなってはいけないと思って、お便りを書いています。父は好きなことに対して興味を失うことはありませんでした。78才でしたが、元気で若々しかったので、私どもは最後まで快復すると思っていました。貴方のお手紙と送って頂いた標本を見て父はいつも喜んでいました。父は貴方を真の友人だと感じていたと思います。今、私は父の仕事を一人で続けようとしています。私どもは全てのことを何年間も一緒にやってきました。父と娘がこれほども完璧な共同研究者であった例は希だと思います。もし、これからも標本を送って頂くことができましたら、私は喜んで調べてでき得る限りの同定をします。私は昨年来『粘菌モノグラフ』第二版を完成させる仕事をしていて大変多忙です。そのため御返事は遅くなるかも知れません。草々。」

南方熊楠(1908)は「本邦産粘菌類目録」の中で次のように書いている。「本誌第235号181-182頁に、明治39年、予がブリチシュ博物館に寄贈せる粘菌の標本を、リスター氏親子が検して、新たに日本に産することを知るに及べる20種の名を載せたり。その後続いて採集し発送せる粘菌にして、両氏の鑑定を経たるもの、さらに36種を増せり。かくて、本邦産この類の総数は74種に達し、中に予発見の新種1、新変種若干あり、左に目録を具して同好の士に便す。その拠るところはアーサー・リスター著『粘菌譜』(1894年版行)、同『英国粘菌手引草』(1905、再版)、リスター親子が度々『ジョーナル・オヴ・ボタニー』に出せる諸篇と予に宛てたる数回の書信、および本誌211号、草野氏所集の<粘菌目録>等なり、しかして、整列の順序は、主として昨年5月の『ジョーナル』に掲げたる、リスター親子合作の<粘菌目属種一覧>に従う。」

グリエルマ・リスター(1911)は『粘菌モノグラフ』の中の「第2版へのノート」で次のように書いている(原文英語)。「初版の序で、父がご援助頂いた方に謝意を表していますので、ここに父の言葉を引用します。<次の方々のおかげで種々の標本庫の標本を研究することができたので、御礼申し上げる。キュー王立植物園のディレクターは管理下の標本を調べる際、特に便宜をはかって下さった。それはバークレーの貴重な標本で、ロスタフィンスキーが彼の『モノグラフ補遺』に利用した資料の大部分で、インド、ニュージーランド、アメリカ産の多くのタイプ標本を含んでいる。これらのタイプ標本は大英博物館のブルーメとラヴェネルの標本に相当数の重複標本が収められている。ベイリー・バルフォア教授は親切なご援助とエジンバラの王立標本庫の標本を調べる機会を与えて下さった。それはグレヴィルの標本と故ド・バリー教授のタイプ標本の殆ど完全なセットであった。ファン・ティージェム教授はパリ博物館の標本、ブリュット教授はクリスチャニア博物館の非常に重要なタイプ標本を調査する機会を与えて下さった。ベルラーゲ博士にはライデンの標本を調べさせて頂いた。グラフ・ツ・ゾルムズ=ラウバッハ氏はシュトラスブルクにある貴重なド・バリーの標本を調べる機会を与えて下さった。それはロスタインスキーが『モノグラフ』に引用した多くのタイプ標本を含んでいる。フィラデルフィアのレックス博士には米国で発見された種の殆ど完全なセットを頂いた。それは現在、大英博物館に保存されている。また永年にわたって注意深く調査した粘菌に関する通信も頂いた。友人のファーロウ教授には多くの貴重な標本と有益な助言を頂いた。アイオワのマクブライド教授とオハイオのモーガン氏からはその地方の優れた粘菌標本を頂いた。ハヴィランド博士には非常に興味深いボルネオ産粘菌を頂いた。スメスウィックのカム氏とルトンのソーンダース氏には英国産の多数の希種を頂いた。フィリップス氏とマッシー氏はご親切にも、標本を調べさせて下さった>。本書の初版の出版以来、標本送付と文通によって父と私を援助して下さった方々に厚く御礼申し上げます。コロラド・スプリングズのスタージス博士は14年間信頼してきた親切な研究仲間です。ベルリンのヤーン博士は私どもの申し出に応えて、粘菌の生活史に関する研究をこの本のために提供して下さいました。種の分布については次のような標本に非常に負うところが大きいです。西インド諸島でのクラン師とラウンケル教授の、スウェーデンとボリビヤでのフリース博士の、ジャワでのペンチッヒ教授の、ペンシルヴァニアでのヒューゴ・ビルグラム氏の標本。友人のペッチ氏によるセイロン産粘菌の観察は非常に価値があります。日本産粘菌に関する知識は、南方氏の不断の努力と詳しい通信で大いに増加しました。彼からは約300点の標本を受け取りました。ポルトガルのトレント博士による多数の採集品はこの国での最初の記録で、研究のために親切に送って下さっています。ツェラコフスキー博士はボヘミア産の貴重な標本を提供して下さいました。友人であるチューリッヒのハンス・シンツ教授は多くのスイス産の粘菌を送って下さいます。最近はジュラ山地のメラン氏が標本を送って下さっています。お世話になっていながら、お名前をあげていない方々がまだまだ多くいます。またファーロウ教授の相変わらぬご援助と思いやりに、また、ジェームズ・ソンダース氏の相変わらぬ観察報告や喚興させる勤勉さに再び感謝申し上げます。父の仕事を継続するにあたり、信頼する兄との相談や彼の経験が非常に貴重であったことを付言しておきます。」

南方(1913)は「訂正本邦産粘菌目録」で次のように書いている。「明治四十一年九月発行本誌二百六十号、三百十七至三百二十二頁に、予の<本邦産粘菌目録>掲載後、毎年採集を続け、ために該<目録>所載七十四種の外、さらに三十四種を見出だし、現時予が知れる本邦産粘菌は合わせて一百八種を産す。その内東京と小笠原島の産を除きて、他はことごとく予がみずから採り、もしくは少数の知人より得たるところにして、念のため英国に送り、リスター親子の審査を経たるもの一百六種に及ぶ。Dictydiaethalium plumbeumとLamproderma violaceumの二種のみ二氏の一覧を経ざれど、特徴顕著にして他種と紛うべくもあらず。二氏の『粘菌図譜』は、一昨年末その第二版を発行され、日本産すべて八十三種を挙げたれど、その後予が見出だせし二十五種は無論これを掲げず。よって斯類を研究する人の便宜のために、かの『図譜』中の属種の順序を追い、グリエルマ・リスター女史の最新訂正を経たる種名に従ってこの「目録」を作る。種名の次に括弧に挿める異名は、四十一年出せし予の「目録」所用の種名にて、『図譜』第二版により廃せられたるものなり。『図譜』初版に原形体の色不詳と記せるを、予が実物につきその色を確かめ、第二版に収録されしもの多し。予その後また見出だして、ロンドンの雑誌『ネーチュール』(1910年83巻489頁と昨年90巻220頁)に載せたるもの若干、なおその後見出だして今日まで公けにせざるもの多少あり。かく散在するのみにては、ちょっと要ある人の眼に触るることむつかしければ、第二版『図譜』に不詳とせる原形体の色にして、予が確かめ得たるところは、ことごとく本<目録>それぞれの種の下に付記す。・・・現時予が知り及べる粘菌類の総種数は、二百四十八、しかして英国百五十八種、米国百八十五種を見出だせり。この<目録>載せるところ邦産百八種、遠くかの二国の種数に及ばずといえども、これは主として予が見聞の狭きと、わが邦いまだこの類を集むる人多からざるに因る。『図譜』に拠って、リスター親子が、多年その閑棲地ライム・レギス地方にて集めたる総種数を算うるに六十二種あり。これに対し、予が諸事多忙の暇をもって過ぐる九年間、田辺町より一里以内の地にて見出だすところ、合して実に七十八種を計え、その五十一種は左まで広からざる予の生地内に生ぜり。もって本邦に粘菌の好産地多きを察すべし。よって想うに世間篤志の諸士、各自その住地に就いて精査蒐集せば、僅々数年にして、英米を駕すべき多数種類が、本邦に産するを確知し得べきは必然ならん。ついでに述ぶ。Diderma arboreum G. Lister & Petchは十一年前、予紀伊の鉛山にて創めて見出だし、次に七年前ペッチ氏これをセイロンより検出し、如上の名を付けたり。日本にて活きたる樹(桃、梅、マキ、エノキ、橙)の皮にのみ生じ、決して枯枝、僵幹等の朽木に付かざる粘菌はこの一種あるのみ。このこと大いに考察を要す。近日リスター女史の通信に拠れば、活樹に限りて生ずる粘菌はこの物の外ただ四種あり、Badhamia capsulifera var. arborea G. Lister; B. affinis Rost.; B. versicolor Lister; Lamproderma insessum G. Listerこれなりと。熊楠田辺等にてしばしば見たるB. affinisは生きたる梅と樟の死せる皮に付きおりたれば、これはDiderma arboreumほど活樹皮に限りて生ずる種にあらず。また付記す。四、五年前ニューヨークの住人予に一書を贈り、化石せる粘菌を発見せる由を報ぜる者あり。頃日リスター女史より来書中またこのことに談及し、いわく、<いわゆる粘菌化石手に入りし時、化石学の大家ジー・エチ・スコット博士と共にこれを精査せしに、全く粘菌の化石にあらざりし>と。」

グリエルマ・リスター(1915)は「日本産粘菌」の中で次のように書いている(原文英語)。「過去8年間、私どもは親しい文通者、南方熊楠氏から日本産粘菌に関する手紙と標本を拝受しました。1906年に南方氏は大英博物館の植物学当局に粘菌の小包を送り、できる限り完全な日本産粘菌の標本を提供するが、標本を同定してくれるかどうか問い合わせてきました。この申し出は直ちに受理されました。それまでは日本産粘菌については余り記録がありませんでした。1902年に東京の植物園で採集された草野氏の18種の標本が、ケンブリッジのマーシャル・ワード教授に送られ、父と私が調べました。そのうちの1〜2種は既知種でした。南方氏が調査を開始するまでは日本産粘菌についての知識はそれだけでした。現在は彼のおかげで110種になり、そのうち3種は新種です。また、種の分布や発生頻度や子実体の変異などについて多くの情報を得ることができました。・・・日本産の種類を列挙し、特に興味深いものについて論評する前に、南方氏に関して少し述べさせて頂きたいと思います。彼には御迷惑になるかもしれませんが、彼の英語は、やや一般に使われるものではないとしても、完全に明瞭に書かれていますので、手紙を引用しようと思います。手紙は彼の熱心さと頑固なまでの同定作業について、読者に何らかを喚起させることと思います。南方氏は多くのことに興味を持ち、読書家でもあります。遥かにヨーロッパ、イギリス、アメリカ、西インド諸島を旅行しています。粘菌の他には真菌、藻、蘚、苔、種子植物を研究しています。研究は職業に没頭する時以外の短期間になされねばなりませんでした。彼と家族が住んでいる紀伊の田辺付近は科学的研究に適した所です。彼は次のように言っています。<この小さな田辺の町でも、勤勉な調査を償うに足る充分な密林と多くの木屑がある。また、周辺には樹木に覆われた丘や、日陰のある谷や、茂みのある神社がたくさんある>。不幸にも、現在の日本の功利主義のためにこのような多くの神聖な森が破壊される恐れがあります。森は気候に有益であるばかりでなく、この国に非常な美しさを与えます。神社の森は長い間住民に尊敬されてきました。彼は神社と森に深い国家的重要性を感じ、住民が大切に祭るのと同じ感情で、これらを救おうと非常に努力を払いました。彼が海のような緑色の子実体を持った新種の粘菌アオウツボホコリを発見したのは、紀伊の糸田にある猿神の近くの森であったと言っています。父から新種だと知らされたとき、彼は次のように書いてきました。<昨年採集した日(1906年6月)と同時期に、殆ど絶え間なくそこへ行き、ついに二度めの採集に成功した。それは腐りかけたタブノキの材の上に発生する。不幸なことに、政府は今年布告を発効させ、小さい神社はより重要な神社の側に移すようにしてしまった。猿神も同じ運命であった。今春に猿神は近所の稲荷神社の側に移された。これらの動物神の境内は粘菌を多産したので、我々は動物神に真に感謝しなければならない>。二年後の1909年5月に、彼は次のように書いています。<糸田の猿神社の神聖な森が皆無になっていることを旅行から帰る際に見つけ、失望し、あっけにとられた。数百年を経たタブノキの保護など全く問題外である。景観は完全に破壊された。このようなことは日本では近頃毎年のように行われているが、やがてはすさまじい日本人の審美感と愛国心の破壊を招くであろう>。この悲しみが非常に深かったことは1910年4月の手紙で解ります。<非常に古くからある神社を絶えず破壊している当局に対して、昨年9月より精力的に反対運動をしている。当局のやり方は神聖な森があってこそ、その生命を維持してきた多くの動植物の悲しむべき全滅を必ずひきおこすであろう。貪欲な輩は木を切り倒し金に換えている。この3月に友人の議員が衆議院で私に代わって長い演説を行って31名に賛成された。糸田の神社は最も憂うべき科学的損失の一例として示された。その結果、同日に内務大臣は古くからある科学的価値のある神社については、最大限の考慮を払うことを地方当局に命ずると約束した>。彼の努力にもかかわらず、当局の活動は余り活発ではなかったことが次の手紙で解ります。1911年に彼は書いてきています。<私は神社の保存のために闘ってきた。今はわが国の大多数の学者が賛同してくれていることに満足している。私の反対は非常に烈しかったので昨年9月に18日間拘留された。しかし、私のために起こった激しい非難により放免された>。彼は付け加えています。<科学のために被った拘禁中の記念品として、拘置所内の古い杭の上に生じたムラサキホコリを採集した。それは今回送った標本の中に入っている>。最近の手紙から推測すると、森や神社は貴重な国民の財産だと考え、それを破壊から守るために彼は未だに全力を尽くしていると思います。その他の彼の手紙は生き生きと絵のように、山間地での標本採集の際の冒険談を語っています。その間に田舎の慣習についての楽しい脱線話や、ひなびた地方に生活する人々の心の中に未だに生きている民間伝承を散りばめています。標本の記載文は詩的な熱中から生じる魅力を持っています。彼はしばしば小さな研究対象の美しさに畏敬と賛美を示しています。記載文には子実体の発生状況や構造を説明するため、ペンで描いたスケッチがしばしば添えられています。採集地の景観を示す写真も送られてきました。彼は日本産粘菌について二論文を東京の『植物学雑誌』に発表しています。それは日本語で書かれていますが、ラテン語の学名が示され、英語の短い説明が添えられていることもあります。さて、私どもに送られた標本について書いてみましょう。荷造りに関して問題があったことはありません。標本は浅いボール紙製の小箱に丈夫に貼付されています。送られた450標本の中で、長旅の結果でガタついたものはありません。標本箱は樟脳と綿と一緒に大きな木の箱に詰められ、紙と油布で幾重にも包まれています。標本箱の蓋には標本番号、採集地、日付、同定可能な場合は発生基物となっている植物の学名が記され、更に可能な時は変形体の色も書かれています。彼は希にしか種名を示唆することはありません。しかし、何種か大体知っていて、以前に採集したことがあるかどうかについては確実に判っていると思います。彼の視力は素晴らしいに違いありません。送られて来る子実体はしばしば非常に小さく、高倍率のレンズで探さないと見つけられないことがあります。彼は最近書いてきました。<私の視力は他の人より優れているかも知れないない。しかし、年々衰えている>。次が送られた種のリストです。最近の採集品の中にアカフシサカズキホコリと命名した完全な新種と思われるものがあります。もう一つは日本産の種ヌカホコリの新変種イボヌカホコリで、更に一つはキフウセンホコリの屈曲子嚢体型の変種ハイキフウセンホコリで、以前数回採集されていて、基本種とは明らかに異なり、変種として区別できるものです。」

グリエルマ・リスター(1921)は「粘菌の新種、希種」で次のように書いている(原文英語)。「クダマキフクロホコリ。本種の変形体の色は白色、クリーム色がかった白色、黄色、鈍汚白色などと記載されている。南方氏は1918年10月に日本の田辺付近の地上に大きな変形体が出現したことを記録している。それは初めに白色で、のちにアマゾナイトのような淡い青色に変わった。彼は酒樽の木栓の上に網状に広がった青い変形体の驚くべき様子を描いた彩色のスケッチを送ってきています。その栓は(良い標本が作成し易いので)土の上より栓の上で子実体を形成するようにと願って置いたものです。変形体が乾くと青色は乳白色、クリーム色、最後に血赤色そして黒味がかった色へと変化します。南方氏は古い中国の伝説に言及して次のように言っています。<無実の罪で殺された潔白な犠牲者の血が、殺された場所に毎年、血赤色ではなくてスカイ・ブルーの様な色で現れるという伝説は、クダマキフクロホコリの青い変形体が土の中から出現することに起源をもつものかも知れない>。ミナカタホコリ、新属、新種。・・・本種は南方熊楠氏によって1917年8月に日本の紀伊にある田辺付近の生きたカキノキの幹の樹皮と地衣上で発見された。標本は4個の子実体からなっていて、2個は少し壊れている。それは、外見がやや似ているLiceopsis lobata Torrend一種のみを含む<Liceopsis属>とラベルされて送られてきた。この新種は明らかにウツボホコリ科に属し、ヒモホコリ属に類縁関係があります。しかし、ヒモホコリ属の全種とは、細毛体が平滑で着合子嚢体を形成する点で異なります。私はこの属に、日本産粘菌に関する研究によって科学のために大きな貢献をしている発見者の名前を付けることができて大変嬉しく思っています。種小名longifilaは細毛体の性質を参照して命名したものです。」

南方は1922年9月3日付けの六鵜保宛書簡で次のように書いている。「リスター女史『粘菌図譜』第三板近々出板、小生の助けを乞い来たれり。よって近日大挙してこの三年間集むるところ三百点ばかりおくるはずなり。竣成の上は一冊呈上仕るべく候。英国も物価高きゆえ、とても第二板ごとく着色板多く入れ得ず。拙妻発見のMinakatellaはぜひ三色刷にする由。今度日光の分はみな上松、平沼、六鵜、南方、と採者の名を明記し送り申し候。それぞれ一種くらいは新種ある見込みなり。」

グリエルマ・リスター(1925)は『粘菌モノグラフ』の「第3版へのノート」の中で次のように書いている(原文英語)。「1911年にこのカタログの第二版を出版して以後、新旧の文通者より貴重なご援助を頂きました。アバディーンシャーのクラン師、スイスのメラン氏、日本の南方氏はたくさんの興味ある標本を送って下さいました。マラヤのサンダーソン氏、サウス・ナイジェリアの故ファーカーソン氏は熱帯産粘菌の貴重な情報を与えて下さいました。チーズマン氏のオーストラリアとニュージーランド、デューティー嬢のケープ地方、ブランツァ教授のルーマニアでの採集標本は多くの種の分布に関する知識を広げてくれました。粘菌研究者は、非常に優れた一連のルーマニア産標本を寛大に配布してくれているブランツァ教授に特に感謝しなければならないと思います。ステルフォックス夫人、リー嬢、ガン氏はアイルランド産粘菌の情報を増加させました。西イングランドのハッデン氏、ウォーウィックシャーのエリオット博士、ノーフォークのハワード氏、サリーのアレクサンダー師は各地の非常に興味深いフィールド・ノートと標本を下さいました。レンドル博士と大英博物館の植物学部員には本書の出版で大変お世話になりました。ラムスボトム氏は原稿を読んで多くの有益な助言を下さいました。私を援助して下さったこれらの方々とその他の多くの文通者と友人に心より感謝します。」

南方は1926年の宇井縫蔵宛書簡で次のように書いている。「小生の発見せる粘菌をリスターが命名し来り、それをその通り小生が雑誌へ出し了らざる内に、リスターが又其名を変改せしこと多し。是れ等細心の至りといえばいうものの朝令暮改、実は学問を児戯視する様なものに御座候。」

南方(1927)は「現今本邦に産すと知れた粘菌種の目録」で次のように書いている。「本誌第二百六十号に予の<本邦産粘菌類目録>を出した時は七十四種、第三百二十一号に<訂正目録>を出した時は百八種であった。しかるにその後十三年間に、辱知諸君やそのまた諸友の熱心なる採集により、おびただしく種や変種を本邦で見及ぶに至った。昨年十一月十日、予が撰定し置いた品種を小畔君が整い揃えて、摂政宮殿下に献上した時の表啓に、<現時帝国産粘菌を点検するに、実に三十八属百九十三種を産し>とあったが、そののち平沼大三郎君が今年夏秋の採集品四十六点を贈られ、鏡検して新種一と、本邦で初めての種二を見出でたから、只今帝国より知られおる粘菌の種数は百九十六である。件の表啓文を本誌へ載せられたに、これら百九十六種の名を出さないと物足らぬようだから、その目録を拵えて差し上げ置く。変種の名をもことごとく書き入れ、また予が新種と判定して名を付けた物どもの図録をも掲げようと思うたれど、家内に故障あって糸状体や胞子の大きさを精細に観察することがならず、よってその図と記載は追って別に出すこととし、今はただ各種の名を列するに止めおく。種名ごとの次に、その種を日本の版図内で初めて見出だした地の名と人の名を出す。それを見ていかに小畔君が多年粘菌学のために広く諸方を駆け廻り、鋭意詳察しておびただしく稀有また斬新な物を見出だされたかを知られたい。」

グリエルマ・リスターの1928年5月3日付け南方宛の葉書には次のように書いてある(原文英語)。「拝啓、もしお暇があればお便りを頂きたいと思っています。粘菌に対する興味とは全く別に、幸せな文通のおかげで、私達は友情の絆で結ばれたと感じています。ご家族についてのご心配、またお世話が沢山あるのではないかと心配しています。そして暗雲が晴れるようにと願っています。次のことをお知らせします。最近ラセンウツボホコリとチョウチンホコリの標本を服部(廣太郎)博士から受け取りました。両方とも貴国の天皇陛下が皇居の庭で採集なさったものです。陛下は粘菌に関しては唯一の皇室関係の採集者だと思います。草々。」

平野威馬雄(1944)は南方が1929年に行なった御進講後の談話を次のように紹介している。「この光栄の日(6月1日)、私は正午過ぎ田辺を発し、御用船に便乗した。飯尾公壽氏(和歌山県水産試験所長)に迎えられ、船を神島の西方に止めて、聖上の御出を待っていたが、ふと見ると早や間近に小さな御坐船に召され、陛下の御姿を拝しましたので、謹んで頭を下げてお迎え申し上げると、畏くも陛下には、中打帽を右手にお取り遊ばされて、いと御丁重な御挨拶を賜って、恐懼身に余る光栄に感激した。神島の周囲を南から北へ、次で西から一周した時、メガホンで上陸の知らせがあったので島に上陸すると、陛下におかせられても御上陸遊ばされ、険しい道なき道を御わけになり、林中へつかつかと御歩みを運ばせられて、粘菌を御熱心にさがし給うたが、何分雨天のことで、御着衣さえ濡れそぼって居られることとて、御好みの粘菌はなかなか御探しになるのが御困難にあらせられた。御熱心の陛下には、約二十五分にわたって林中をあちこちとお探しにならせられた。ついで、畠島で約四十五分御上陸遊ばされている間に、私は中島涛三氏(田辺中学教諭)の随行でお召艦長門に向かった。丁重なる扱いを受けて、ふと見ると、ロンドンにいた時代の旧友加藤寛治(海軍大将)がいる。約四十分も待っていると、陛下が長門に御帰艦あらせ給うたので、私は立派な御部屋に案内された。時に五時半ごろだった。時間が少いので成るべく早口に、先づ、尾端にエビが付いて居て紫色の光を発し、龍が玉を抱く姿で泳ぐウガを天覧に供して御説明申し上げ、第二にグァレクタ・クバナという地衣(苔の類)を御見せ申した。これは私が二十四歳の時、西インドキューバ島で発見したもので、東洋人が外国で発見した最初のものである事を申し上げると、有難くも陛下の御面には嘉賞の御気色を拝し、非常に感激に打たれた事であった。第三には私が二十五歳のとき、米国南部フロリダ州と西印度諸島を回って採集した菌類数千種のうち、若干をとじた厚さ二寸位の標本帳一冊を恐る恐る御前に捧げた。<これは四十年前にアメリカの地で、米人の気のつかぬ種類の物も沢山あって、アメリカ人から買戻しに来たが、昔、薩摩人が英国と戦って獲った碇を英国へ返し、後人に笑はれた例も御座いますから、私は断然これを外国に売りません>と申し上げると、陛下には、いとご満足にお笑いになられた。第四は和歌山県日高郡川上村山林で、零下二度の山奥で、昨年十月十八日から本年一月四日まで、約八十日間篭って、その間九十六町の山道をソリで四十五分ですべり落ちたような危険を冒して採集した菌類、約三百二十種を天覧に供した。第五には海に棲む珍しい蜘蛛を、それは二十七年前に此の近海で発見した外国でも珍しいものだが、<私では研究できないから、宮城内御研究所で研究おさせ下さい>と献上したが、非常に御喜びの御模様だった。第六にはやどかりの珍種で、琉球や小笠原へ行くと海に生れて後、海を離れて丘にあがり、昼は山へ登り樹に登るものが、本州では瀬戸内海鉛山のみにある。第七には日本産の粘菌二百種ほど献上申し上げるつもりで、一週間ほど前から寝食を忘れて整理につとめたが、海の蜘蛛捕りに往って風邪を引いたので、出来上ったもの百十種ほど献上申し上げ、御嘉賞の光栄に浴し、約二十五分間にして御暇を乞いましたところ、御傍より<モウ五分ほど御進講申上ぐるように>と有難き御沙汰を拝し、<日本の粘菌はどの辺に多いか>などと御熱心なる御下問を拝し、ただただ無上の光栄に感激しつつ御召艦を辞したのです。」

南方は1929年9月8日付けの服部広太郎宛の書簡で次のように書いている。「小生は六月一日御前進講の節粘菌二百点を献進せんとあせりしも、いろいろ多事にて百十点しか献進を果たさず。よって今九十点を献上せんと、六月十日来今に四千点ばかりある標品を鏡検中にこれあり。・・・手前にある『日本粘菌図譜』稿本は、昭和二年に英国にて連載すべく(『英国菌学会報』等へ)、彩画入りにて出来上がりたるを、発送前に校字のため書斎に持ち出しありしを、五月二十三日午後、精神病者たる拙児が書斎に入りたるゆえ、小生はそれより程遠き室に移り、定めて拙児は心のままに熟眠したるここと思いおりしに、夕刻に至り妻走り来たり、書斎にありし書翰を一切拙児がさき破りたるを只今気付きたりと告げ来たる。よって行きて見るに、書翰は残らず、右の図譜稿も十の八、九まで微細に引き裂きあり。早速取り納めて7日ばかりかかりいろいろつぎ合わせ試みたるも、紙の表裏共に認めたる故、全譜の半分のみは恢復し得るも、半分は恢復し得ず。またあまりに細かく粉砕せるところは、今さら何とも致し方なし。よって友人どもに通信したる控え文の中より、それこれと写し集めなど致せしも、至細なる胞子、糸状体等の数量的観測の控えは、右の本稿にのみありしものゆえ、今さら再び知るに由なく、これを再検するに多大の時間を要し、只今ようやく十の三,四まで再び検出したり。この数量的観測を再了したる上、英国へおくり、かの地にて出板するはずなり。・・・小生はもと新種の新変種のということを好まず。故フッカーが植物の数を多くみれば種の変種のということが一切ないように見ゆると言いしを信じ候。いわんや粘菌類は唯今も変化進退して一日も止まざるものなれば、実際判然たる新種などいうものはなきことと存じ候。・・・小生は故アーサー・リスターが粘菌の種や変種がむやみに増加され行くを遺憾とし、日夜精査して種数、変種数を刪正するを当務としたるを賛し、もっぱらその刪正事業に参加したるも、かの人死してのちは、リスター女史またおいおい世間なみに新種、新変種を増加するを事とし、亡父が刪除せるものを復興すること多し。小生このことを快しとせず。この数年黙視しおりたるが、近く右述の日本粘菌稿を贈ると同時に、何とぞ小生の所論を参考して、新種新変種を設くるよりは、本種従前の定義を増補廓強emendせんことを節に勧め試みんと存ずるなり。・・・しかしながら世間何ごとにもその時々の流行は免るべからず。種数刪減を惟事としたる人の娘に、ややもすれば父と反対せる方向に種数、変種数を増加して怡ぶ人のあるも、また免れ得ざる流行の響きなるべし。小生も形態学上の議論を出さんに、第101号とかXの第11号とか符号を付くるばかりでは、自分のみわかりて他人にはさらに通ぜず。止むを得ず近来種名や変種名を付くることと致せしが、本志右のごとくなれば、この新種名や新変種名はfinaleのものとは決して想わず候。・・・スイス人Meylanはいささか在来の記載と異なる点あるものをことごとく新植物変種とと立てる。他人はこれを承諾せず。毎度立てて毎度取り消さる。増加しゆくものはsynonymsのみで終にはsynonymsの辞彙を作らねばならず。・・・拙家病人多く費用増すばかりゆえ小生肉食せず、眼力弱くなり、この状を書くに文字が読めず。自分に読めぬほどゆえ定めて御難読と察し候。」

グリエルマ・リスターは1931年1月21日付けの南方宛書簡で次のように書いている(原文英語)。「随分長い間、お便りを頂きません。皆様のお元気な様子を知らせる数行のお便りを頂ければ、大変嬉しいです。あなたと父、そして私との長い間の文通で、粘菌に対する興味を超えて、強い絆ができたと感じています。もちろん、あなたは江本義数博士の研究はご存じだと思います。更に、貴国の畏い天皇陛下のご研究にも興味を持たれ、満足しておいでのことと思います。あなたが日本における粘菌研究の大きな基礎を築いたことを、彼らはよく知っています。それはあなたご自身のお骨折りと、あなたのお友達に未調査地の調査を奨励された結果、なされたものです。粘菌の類縁関係を正しく理解するためには、更に情報が必要な種類があります。Lamproderma属は低地より高地で変異が多くあって特に難しいです。最近、江本博士から昨年マラヤで採集した数点の標本を確認または同定のために受け取りました。その短報はまもなく『英国植物学雑誌』に掲載されると思います。彼はあなたが私どもに大きな興味をわかせ、かつ情報を与えて下さったような採集地の記述などは送ってくれません。」

南方は1931年2月23日付けの上松蓊宛書簡で次のように書いている。「リスター女史より昨日午後三時十五分に来信あり。小生は順序を追うて事を行なう規則で只今かかりおることをすませたる上、女史の状を見るつもりなり。故に何をいうてきたかさらに分からねど、本状は必ず早晩来たるべしとまちおりたるもので、近来怪しき連中がややもすれば粘菌粘菌新種新種と、何とも分からぬ落第点に近い記載文を出し、図を出さぬ等のこと多きより、どうせ小生へ聞き合わさねば判断付かず、何とも査定のしかたなきよりの来信と存じ候。これが来たれるは発表を開始すべき絶好の機会なるにより、三,四日内にいよいよ始むるつもりに御座候。まず誰が見ても判然新種として一点の疑いなきもの、すなわち貴下と小生と担い持ちのCribraria gratiosissima Min. & Uem.より始むることに候。」

南方は1931年6月7日付けの上松蓊宛書簡で次のように書いている。「四月にリスター女史より特に書面来たり、新種新変種発表を急がれ候が、小生はこの貴下の奥利根の集品と飛騨にある大江氏の集品をもって打ちきりと致したく、まち望みおりたるに候。・・・Diderma asteroides List.に似たもの貴集中にある由、これは従前日本には似たものは多少ありしも、判然たる本種は未曾有なり。原氏近日出すべき『日本粘菌目録』に出したく候に付き、査定のためこれだけでもさっそく御送来願い上げ奉り候。」

南方は1931年6月9日の上松蓊宛書簡で次のように書いている。「リスター女史は、小生が夥しく粘菌を発見せるを聞き及び(これは原氏がなにかへ小生の新種、新変種の総目録を出せしを見及びし事と存じ候)荐りに発表の債促あり。然るに小生はむやみに新種、新変種の披露をするより、従来西人の立てたる種と変種をreviewして減殺しやらんと考えおる。然し研究には際限なき物故、なにさま今年下半季中に多少の出板を始めんと随分忙ぎ居る所へ、菌が夥しく発見する事引きもきらぬ故、一日一日と粘菌の方が延引し居る。とにかく二、三十品でも遠からぬ内に英国で発表せんと存じおり候。」

南方は1941年3月1日付けの江本義数宛書簡で次のように書いている。「小生こと五年前の七月の一夜、自宅竹林中に電灯を持って粘菌の原形体の動作を視察中、誤って足を踏み外し、樹の株に強く腰を打ち付け、それより足叶わず、廃疾同然となり候。年来貯うるところの粘菌はことごとく倉の二階に上げあり、まだ寒威強き昨今、二階に上がること叶わず、また多くの長持に入れあるゆえ、うつむきて数千の標品を鏡検して取り出すことは当分出来べくもあらず。五年の間封じ置きたるものゆえ、この辺の夏日の暑さにナフタリンは著しく耗散したるべければ、粘菌の現状如何なりたるやを知らず。・・・十三年ばかり前にツェッコスロヴァキア国(?)のBrandza氏より贈り来たれるAmaurochaete comata G. Lister et Brandzaというものは、全くA. fuliginosaともA. cribrosaとも異なるものと相見え候。・・・小生今年七十五歳、生来頑健なりしも、近年いろいろ不幸なこと多く、五年前より老衰はなはだしく、行歩確かならぬゆえ外出も致し得ず。多年所集の標本、図書、また明治十三年以来続けおる日本菌譜、自分と娘とにて図録するところ、近々五千点に達すべし。保存費もずいぶんのべら棒なればなるべく早く切り上げ、自分は日本最古の孫逸仙の知友たる縁により、みずから携帯渡海し、広東大学へ寄贈せんとかかりおり候。それがため粘菌の方はこの六、七年一向関係せず。」

江本義数(1942)は南方を偲んで次のように書いている。「昨年の暮も押し詰った29日午後5時、マレー半島及びフィリッピンに於ける皇軍破竹の進撃に感激しながらラジオニュースを聞いたが、国内ニュースの最後に至って、紀州田辺町の南方熊楠翁が75歳の高齢で亡くなられたことが報ぜられ、私は非常に驚いた。恐らく翁を知る人々は私と同様に驚愕されたことと思う。それで、ここに変形菌研究の先覚者としての翁を偲ぼうと思う。・・・翁を知ったのは私が変形菌類を研究し始めてからで、変形菌学の先輩として私かに敬慕して居た一人である。そして私が二、三回教えを乞い、また材料の分与方を願ったことがあったが、そのつどごていねいな書状を頂いて感激した次第である。私としては一度機会を得てお目にかかることができたらと念願していたのであったが、ついにその願いもかなわぬうちに他界されたのは、私にとって千歳の痛恨事であるが、また学会にとっても大なる損失で、実に惜しいことをしたと嘆息せざるを得ない。・・・昭和六、七年に原摂祐氏が発表した目録によると、翁によって初めて我が国に発見された類は約100種、40変種、1品種となっている。そして現在我が国に産すると知られるものが約230種、85変種あるので、その約半数が翁によって発見されたこととなるのである。その上、翁が単独に命名された新種は6、新変種は16、新品種は3、また共同研究によって命名されたものは8新種、13新変種、3新品種に達している。もっていかに翁が我国変形菌学に貢献されたかを知ることができよう。しかしながら、これらの多くはその記載が発表されておらぬことは甚だ遺憾である。私は翁が老後に変形菌の図譜を作らるるということを承ったが、それを完成されたならば、必ずこれら未記載の種および変種も完全な記載が与えられて、私達後輩に多大なる便益がもたらされるであろうと思って、これが公にされる日の一日も早からんことを心待ちにしていたのであるが、天は翁に齢をかさず、忽然として長逝されたのは誠に痛恨に堪えぬ次第である。」

牧野富太郎(1942)は「南方熊楠翁の事ども」で次のように書いている。「紀州の南方熊楠君が宿痾の萎縮腎療養中たまたま黄疸を併発し、ために昨昭和16年12月29日に突然長逝せられた新聞を見て、驚いた事であり、また残念に思った事であった。と言うのは、南方君には今日までその謡われ来たった声名に対して何等相応しい著述、すなわちそれは同君の存在を後世に伝うべき大作巨篇が一もなかったからで、これは是非ともその天資に酬ゆべき博識宏覧な筆を残して置いて貰いたかった。・・・南方君は往々新聞などでは世界の植物学界に巨大な足跡を印した大植物学者だと書かれ、また世人の多くもそう信じているようだが、実は同君は大なる文学者でこそあったが、決して大なる植物学者ではなかった。植物ことに粘菌については、それはかなり研究せられた事はあったようだが、しからばそれについて刊行せられた一の成書かあるいは論文かがあるかと言うと、私は全くそれが存在しているかを知らない。」

小畔四郎は平野威馬雄(1944)の『博物学者・南方熊楠の生涯』の序文の中で次のように書いている。「奈良大仏の巨鐘をステッキで敲いたれば<コツン>と響いたばかりで、石で叩いたれば<カチン>と鳴った。これは巨鐘の本音ではない。本音の轟音は奈良はもちろん野山を越えて遠く近郊にまで<ゴーン>と鳴り渡り、その余韻が<ボーン・ボーン>と響いて消えぬのである。南方先生のごとき大人物を敲き、その本音を聞かんとするなら、杖や小石ではだめである。先生の相手になり得るほどの学問知識あり、研磨を積み、創意推理の能力あるものが、渾身の力をもって大鐘つきを打ち込むべきで、しかもそれが先生の気持ちをつかんで先生の機嫌の好いときでなければまただめである。一、二回の対談や、一、二年の交際で評論するがごときは盲人の探象のごときに異ならずと思う。あるいは先生が常に研究に耽り学界に発表したことが殆ど皆無であるのを見て、その造詣の深浅を言うものもあるが、これは自己の浅見を告白するもので、むしろ憐れむべきである。それが学界人にもあるに至っては日本の学者が低級なるを慨嘆せざるを得ん。」

岡本清造(南方熊楠令婿)は昭和46年8月3日付けの、笠井清(南方熊楠伝の著者)宛の葉書で次のように書いている。これは筆者が笠井に南方の標本について質問したことに対する岡本の解答を、笠井が回送してくれたものである。「粘菌のことは全部小畔四郎氏に譲り、標本もたしか全部贈呈いたしたので、研究(検鏡など)は自らいたしましたが、結果?は小畔家にあるはずです。但し正式の方法をとらなかっただろうことは判明しており、江本義数博士からも小生いろいろ聞き知っておりますが、今の処どうとも処置いたしかねている次第です。四郎氏令嗣が粘菌研究をつづけていましたが、可惜、本年五月初旬御急逝され、小畔家保存中の標本類は菊池理一博士外の手で整理することになっている由。それができれば、小畔・南方の標本整理はひとまずできることになると思っています。故小畔正秋氏と両家の粘菌標本の目録整理をしようと約束していたのが御急逝され、小生途方に暮れています。」

小林義雄(1987)は『南方熊楠菌誌』第一巻の「標本、彩色図、記載に就いて」の中で次のように書いている。「(南方の)彩色図については、いささか幻滅を感じた。書簡その他で屡々<彩色図3000?5000>と記されてあったが、私が見た限りでは画用紙にキノコの外郭線を鉛筆でたどり、それに淡彩をほどこしたものであり、そのまま印刷可能のものは殆ど見当たらなかった。胞子など顕微鏡図も要点は捉えてあるが、印刷に値するものはなかった。結局これらの図は記載の補助的役割をしているに過ぎない。・・・すべての記載が英文であり、ラテン語が見当たらなかったのは奇異である・・・多くの新種名があるが、今後の研究の結果は、本当の新種として取り扱ってよいものは南方所収の1/10以下であろう。・・・図集の表題にしばしば屡々<日本産菌蕈類>と記されてあるが、私が見た限りでは紀州、熊野産であった。記録によっても日光へ1回、その他1?2回の採集旅行が行なわれたとしても、その数量は僅少であろう。すなわち紀州、熊野産菌蕈類とした方が明確である。」

小林義雄(1987)は『南方熊楠菌誌』第一巻の「南方熊楠の"種"の概念」の中で次のように書いている。「<小生(註:南方熊楠)も形態学上の議論を出さんに、第101号とかXの第11号とか符号を付くるばかりでは、自分のみわかりて他人にはさらに通ぜず。止むを得ず近来種名や変種名を付くることと致せしが、本志右のごとくなれば、この新種名や新変種名はfinaleのものとは決して想わず候>、これで南方の"新種"の考え方は分ったとして、しからば1700点近い新種の整理は一体どうせよというのか。1つの方法は(勿論好ましくないが)、南方の記載通り原図とともに印刷に付することである。幸いに現今の国際命名規約ではこの方法で発表された新名は認められないことになっている。・・・南方のものの考え方は、彼が正式に発表した論文の一部など、とり挙げて論評すると困ったことになり兼ねない。どうしても断簡零墨に至るまで目を通さねばならない。真に骨の折れることに御座候。」

宮武省三 (Miyatake Shozo, 1882-1964)

[変形菌に関する業績] 変形菌を採集して南方熊楠に送って彼の研究を援助し、経済的にも貢献をした。
[略歴] 明治15年3月、香川県高松市で高松藩士の三男として生まれる。南方熊楠の伝記を著した笠井清の叔父(父の弟)にあたる。郷里の学校を終了して、早稲田大学に学んだ。英語が得意であったので、その際はイーストレーキ博士の家に仮寓したと言う。卒業後は大阪商船会社に勤務する。大正12(1923)年に南方熊楠に質問の書簡を送ったのが縁で、民俗学や変形菌の研究を深めた(註1、2、3、4、5)。昭和7(1932)年には南方を田辺に訪問した。大阪商船の小倉、鹿児島、神戸などの支店長、東洋部次長を経て定年退職し、その後は関西汽船の相談役などを勤める。戦後は妹の婚家である香川県多度津の小国家に寄遇して過ごし、昭和39年4月、83歳で逝去。一生独身で過ごした。読書と旅行が好きで、民俗学に関心があり、『讃州高松叢誌』、『習俗雑記』、『九州路の祭儀と民俗』、『鹿児島風物誌』などの著書がある。

南方熊楠は大正15年11月18日付けの宮武宛書簡で次のように書いている。「近日リスターへ多く標品をおくると同時に貴下へも四十点ばかり各属の代表品を送り上ぐべく候間、採集にとりかかられたく候(冬中は至って少なけれども、冬中のものに新奇の珍種多く候)。虫めがね(ルペー又はレンズなど申す)(図略)こんなやつ一つ買わねばならず。採集品は柔らかな紙にふわりと包み、マッチ又シガレットの小紙箱に入れ運んで宜しく候。なるべくくずさぬ様に心がけられたく候。但しつぶれても鏡検はきっと成り申し候。九州のものは薩摩の城山と、黒崎町とか申す筑前辺の小都会と門司の外一向知れ居らず。熱帯、亜熱帯の産多きことと今より楽しみ居り申し候。・・・つまらぬと思うものも、なるべく多量にとられたく候。つまらぬような物に、時に大発見が見え候。素人が珍とするものにつまらぬもの多く候。」

南方熊楠は大正15年11月20日付けの宮武宛書簡で次のように書いている。「リスター図譜は最初小生が平沼氏の出資で買い、上松蓊氏に贈らしめたところ、今春進献の儀起こるに及び、進献の標品と共にこの書を献上したてまつるため、幸い上松氏の本は少しも汚れなきよりそれを進献と決し、平沼氏また別に一本を買い上松氏におくられ候。然るに上松氏は高橋本教氏・・・旅行中同氏に嘱し一本を買いおくりもらいたる故、二冊もつこととなれり。さて最初平沼氏より上松氏におくりし本は(すなわち貴方へ今度おくりしもの)、本月初め進献表中にそのことを具したるところに、殿下にはこの書を第二板、第三板ともご所蔵ゆえ、小生より石館守一<註:守三が正>(東大の助手にて、昨年と今年四種までも日本に従前見及ばざりし粘菌を見出せし若き人)へ贈るべく、小畔氏に注意したところ、小畔氏は既に一本を購い同氏に贈りたりとのこと。よって上松氏は二本もち小畔氏方には進献に準備した本が一冊残ることとなる。よって貴下はこの学の九州四国の探題重鎮となるべき人ゆえ貴下へ贈らしめしなり。平沼氏はご存じ通り故専蔵氏の孫にて千万長者義太郎氏の弟なれば、十円や十五円のことを何とも思わず。礼状のみを出し・・・礼にはおいおい粘菌を集めて小生まで送らるれば新種希品ある毎に、小生より貴下の贈品として平沼へおくるにて足れり。些細のものなど送ったところで、先方は面倒に思うべし。」

南方熊楠は昭和4(1929)年3月13日付けの山田栄太郎宛書簡で次のように書いている。「(宮武は)今に一円二円ずつ集め、また自分の著書出る毎に売り上げ高を悉く寄付しくれ候。その篤志小生は三万円一度に寄付してくれたる人(註:平沼大三郎の母)と径庭なく感心致し候。」

南方熊楠は昭和6(1931)年12月17日付けの大阪商船神戸支店の宮武宛書簡で次のように書いている。「この状添付の木箱一個(安藤ミカンが果して小畔氏等若干人の言うとおり、米国の近時入り来たりおれる何とかいうミカンを駆逐するに足るものなりや否を、柑橘専門の人士に判断せしむるため、その果実七十一個をヒガンバナの葉で厳重に詰め入れたるなり)をなるべく速く、かつもっとも安全に台湾(台北)総督府研究所、中沢亮治博士へ送られたきなり。」

南方熊楠は昭和7年11月15日付けの宮武宛葉書で次のように書いている。「小畔氏は侍従官の旅館へ昨夜参上、粘菌の話を申し上げたる上、同氏手許の標品若干と小生より同氏へ急送せる粘菌十四点とを、侍従官を経て献上、ご嘉納の由、今日電報を受け候。右小生より進献目録の随一に貴下創見の新種Comatricha umbilicata Minakata & Miyatakeありたり。貴下創見の品は破損甚だしかりしゆえ、拙宅で昭和四年八月に採りしものを進献致し候が、とにかく小生と貴下合名にて命名したるものが、御研究所の常備参考品となりしことゆえ申し上げおき候。」

宮部金吾 (Miyabe Kingo, 1860-1951)

[変形菌に関する業績] 米国留学中に田中延次郎のために変形菌(上州磯部産のノアザミに付着したジクホコリ)の同定を米国人から受け、田中に知らせた。これが日本人採集の変形菌として初めて学名が明らかになった種である。
[略歴] 若年期不詳。札幌農学校(現北海道大学)の第二回生として明治14(1881)年に同校を卒業し、帝国大学の矢田部良吉教授のもとで、開拓使御用掛として二年間植物を研究した。明治16(1883)年からは札幌農学校の助教として勤務した。明治19(1886)年から三年間は米国のハーバード大学に留学し、ファーローに藻学と菌学を学んだ(註1)。帰国後は札幌農学校教授となった。明治33(1900)年、札幌農学校付属植物園が開設され、初代園長となった。明治38(1905)年には新領地となった樺太の植物を調査した。明治40(1907)年に同校は改編されて東北帝国大学農科大学となり、宮部が第一講座(植物学)を担当した。なお明治41(1908)年には第二講座(植物生理学)が増設され、柴田桂太がこれを一時担当した。大正7(1918)年には同校が北海道帝国大学農学部として独立した。大正10(1921)年には第三講座(植物病理・菌学)が設置され、同校卒業生の伊藤誠哉が担当した。昭和5(1930)年に宮部は帝国学士院会員となり、同年定年退官した。昭和11(1936)年、日本植物学会々長となる。昭和26(1951)年、死去。

田中延次郎は明治23年に「菌類採集案内第二報」で次のように書いている。「以上三十四種は兼ねて米国に留学せられし友人、宮部金吾氏の厚意により学名を知るを得たるものなり。」

三好學 (Miyoshi Manabu, 1861-1939)

[変形菌に関する業績] 草野俊助採集の変形菌標本を英国に送付し、日本産変形菌が明らかになった。大学で多くの研究者を育て、その研究を指導・援助した業績は大きい。
[略歴] 文久元(1861)年、岐阜県岩村藩士の次男として生まれた(註1)。明治22(1889)年、帝国大学理科大学(現東京大学理学部)を卒業して大学院に入学。明治24(1891)年、大学院生としてドイツのライプチッヒ大学のペッファー教授のもとに留学。明治26(1893)年には地衣類のイワタケを新種として記載したが、これが日本人記載の地衣類の初新種である。明治28(1895)年、帰国して理科大学教授となって植物学の第二講座(生理学)を担当し、理学博士の学位を授与された。明治30(1897)年、帝国大学理科大学は東京帝国大学理科大学となり、植物園を併置した。明治35(1902)年には草野俊助らの採集した変形菌標本を英国に送付した(註2)。明治36(1903)年、『植物の社会』を出版。明治39(1906)年と明治41(1908)年には日本植物学会々長となった。明治41年には『普通植物生態学(上巻)』を出版し、生態学という訳語を考案し、植物生態学の創始者となった。大正7(1918)年には三好教授は第二講座を柴田桂太教授と分担した。なお柴田は第三講座(植物形態学)も分担した。大正8(1919)年には史蹟名勝天然記念物保存法が発布されたが、この法律の制定にも尽力している。大正9(1920)年には帝国学士院会員となった。大正11(1921)年、東京帝国大学付属植物園長。大正12(1923)年から昭和10(1935)年まで日本植物学会々長。この間の大正13(1923)年に三好は64才で同大学を定年退官して名誉教授となった。昭和10(1935)年には田辺の南方熊楠を訪問し、神島を調査した(註3)。昭和14(1939)年5月11日、植物の天然記念物を視察するために群馬県に出張した折、急性肺炎となり79歳で急逝した。同年、勲三等旭日重光賞を受賞した。

三好は昭和13(1938)年に出版された著書『桜』の序文に次のように書いている。「私の幼年のときは旧藩の領邑、美濃の岩村にいた。ここの屋敷は明治維新の際、拙家が江戸の藩邸内から引っ越してきたとき、旧藩主から拝領したもので、城山の麓の熊洞という寂しい谷間にあった。門外の渓流に架した土橋を渡って山中に入ると山桜が生え、花時にはよく遊びに行った。記憶はないが、桜についての最初の印象を得たのはこの頃であったかと思う。明治十五年以来東京に住まって上野、向島あたりの桜を観たが、しかし桜の美性について感興を催したのは、同二十八年の春、ドイツ留学から帰朝して、本郷西片町の拙宅の庭に五本の里桜が咲きそろっていたのを見たときである。これらの桜は花の形や色が勝れたのみならず、芳香さえ発したものがあった。その後年々自宅の桜を見るにつけても、その名称と来歴や系統が調べたくなったが、あたかもその頃、東京市外の荒川の五色桜が有名になり、古来の里桜の名種を知るには屈きょうの場所であることがわかった。これと同時にまた山桜では、小金井の長堤に列植された一々の天然品種の甄別の必要を認めたから、まずこの両所の桜の研究を始めることにした。これらの研究は数年間にわたって継続したが、後には次第に調査範囲を拡め、ついで大正八年史蹟名勝記念物保存法の発布とともに、全国各地の桜の巨樹名木ならびに名所の実査にあたることとなり、その結果保存を要する桜が多々発見された。」

リスター父子(1904)は「日本産粘菌ノート」に次のように書いている(原文英語)。「1902年春、マーシャル・ワード教授が、東京帝国大学植物学教室の三好教授に、日本で粘菌の研究が行われているかどうか問い合わせ、標本を提供してもらえれば幸甚である旨を書き添えた。同年10月三好教授は保存状態の良い18標本を送ってきた。ワード教授はその標本を研究用として我々に提供された。」

南方熊楠は1935年8月24日の上松蓊宛書簡で次のように書いている。「本月5日、三好学博士、胃腸病を推してバナナと特製パン携帯、汽車の寝台を買った上拙宅へ来られ、毛利等と神島に渡り写真をとり、午後2時55分、田辺駅発汽車にて直ちに帰京の途につかれ候。」

安田篤 (Yasuda Atsushi, 1868-1924)

[変形菌に関する業績] 1897年に、日本人として初めて変形菌に関する生理学的論文を発表した。明治44(1911)年刊行の『植物学各論隠花部』に変形菌を記述し、一部の種に和名を付けた。大正2(1913)年より「菌類雑記」を『植物学雑誌』に発表し、その中で変形菌の産地や和名などを報告した。
[略歴] 明治元年9月8日、東京下谷練塀町の旧旗本家に生まれた。明治20(1887)年に第一高等学校入学。明治25(1892)年に東京帝国大学理科大学に入学。明治28(1895)年に同大学を卒業して大学院に入学し、松村任三や三好学に指導を受けた。大学在学中は成績優秀で特待生にも選ばれたという。明治30(1897)年に第二高等学校講師、のち教授となった。同年、日本人として初めて変形菌に関する生理学的論文を『植物学雑誌』第11巻に「変形菌の刺激感応について」と題して発表した。初期には解剖学や生理学的研究を行なったが、のちにはコケ類や菌類や地衣類を研究し、新種を24種記載したという。地衣類はフィンランドのワイニオ(Vainio)に送り、5種に彼の名が付けられたと言われている(註1)。担子菌類のヒダナシタケ類は現在知られている日本産種の半数以上を発見して和名をつけたと言われている。二高教授に在職中の大正13(1924)年5月14日に脳溢血が原因で死去した。同年、従三位で勲四等旭日小綬賞を受けた。彼の標本は国立科学博物館に保存されている(註2)。

根本(1966)は次のような記事を書いている。「その頃、日本の地衣学者として名のあったのは、仙台の旧制第二高等学校の安田篤教授であった。安田教授は『隠花植物』(註:『植物学各論隠花部』)の著書でも知られる稀にみる篤学者で、二高出身の落合英二氏や石館守三氏の恩師である。(朝比奈泰彦)先生は(東京帝国大学の)学生時代の落合氏を介して、安田教授と学問上の交際を始められた由である。そのきっかけは大正11年夏、天城山万三郎岳の頂上付近で採集した地衣を、安田教授に送って鑑定を求めたところ、新種と認められ、Parmelia Asahinae Yasudaと学名を付けられた。」

土居祥兌(1990)は『日本菌学会ニュース』に安田の標本について次のように書いている。「安田篤コレクションは太平洋戦争中、茶箱につめて上野の当時の国立科学博物館から疎開したことがあるそうで、筆者が当館(国立科学博物館)に奉職した1965年当時も、標本の入ったその茶箱の一部が残されていた。そのような状況下で安田篤コレクションの一部標本はネズミにかじられ、あるいはラベルが脱落し、また一部は紛失したようである。」

柳田文雄 (Yanagita Fumio, 1906-1981)

[変形菌に関する業績] 四国産の変形菌を採集して報告した。昭和25年、昭和天皇の高知県への行幸の際には変形菌標本を展覧に供した(註1)。
[略歴] 明治39年9月29日、鹿児島市に生まれる。鹿児島の篤志家の助言や援助などで上京し、第一中等学校、第一高等学校に進学する。その後、大正12年9月1日の関東大震災と体調不調のため鹿児島市に帰省し、第七高等学校に再入学。同校卒業後、京都帝国大学理学部植物学科に入学した。大学ではボート(エイト)の選手としても活躍し、菊の分類学的研究で有名な北村四郎と同期で親友であったという。同大学卒業後、徳島県立美馬高等女学校に奉職。その後、鹿児島県立加世田高等女学校に転勤。昭和18年には高知女子師範学校に転勤。戦後に同校は学制改革により高知大学教育学部となったので、同校の植物学の教授となり、高知県天然記念物調査委員(植物部門)なども勤めた。高知県大豊町の大杉の保存法なども調査したことがある。趣味は絵を描くことや骨董品の蒐集やカメラいじりであったという。昭和45年に同校を定年退職し、名誉教授となる。昭和56年12月15日、75歳で高知市にて死去。

柳田(1951)は「四国産変形菌」の中で次のように書いている。「四国地方に於ける変形菌研究に関しては、江本並びに安部両氏の研究調査に依る、土佐産変形菌第一報(1941)に報ぜられたるものが唯一のものと言える。其の後に於いても四国地方の何処に於いても、変形菌の研究報告を聞知しないところである。ここに於いて温暖多湿の四国南部を含む該地域の該菌究明は、その産種の分類学的研究と相俟って、その分布に関して興味ある問題と筆者は考え、その究明の目的を以って1948年以降、新しく該菌の採集を志し、一々検鏡、調査研究の歩を進めつつあったが、その結果を昭和25年『植物分類地理』に報告発表するところがあった。其の後、同年3月、陛下四国御巡幸の途次、高知市御訪問の際、前期標品と当地宇佐町竜付近産のもの、併せて45種を展覧の栄に浴せしめた。・・・筆者は京都大学理学部植物学教室、北村四郎教授の御指導と鞭撻に対し謝意を表するとともに、標品採集に当たり御厚意を頂きし諸学兄に深謝する。」

柳田先生は筆者が大学入学のとき(昭和41年)から卒業(昭和45年)までの補導教官であり、2年生からの指導教官でもあった。そして、筆者が先生の最後の卒論指導生徒となった。つまり、筆者は先生の退官と同時に高知大学を卒業した。筆者が大学にいた間に、先生の指導下で植物学を専攻したのは筆者一人であったので、殆どずっと先生の管理される部屋にいたが、2-3年生の頃は電子顕微鏡室の片隅で、後は新築の植物生理学研究室で変形菌を研究した。生理学研究室は大学紛争の時にかなり荒らされたが、筆者の標本は無事であった。卒業論文は「高知県産変形菌の顕微鏡的観察」であったが、先生の「ドイツ語で書かなければ"優"はやらん」というお言葉で、ドイツ語で仕上げることになってしまった。先生は優しい方であったが、面白い面もある先生で、時に内ポケットから女性の写真やウィスキーの小瓶を取り出して「これはどうかね」などと仰っていたのを思い出す。御自宅にお伺いした折には、奥様が親切にお茶などを出して下さって恐縮したことを思い出す。特にカメラは好きであったらしく、そのためか高知大学では生物学概論の他に視聴覚教育も担当し、筆者も受講した。卒業時に鮎の絵を描いた先生の色紙を頂いたが、それには「唯我独生」と書いてある。

山城守也 (Yamashiro Moriya, 1903-1987)

[変形菌に関する業績] スイスのメランに九州・中国・四国地方の変形菌を採集して送り、メランにより4新変種が記載された。その後、山城自身が南九州産の変形菌を報告し、3新種3新変種を記載した。戦前、日本人で正式に変形菌の新分類群を記載したのは山城と江本義数のみである。しかも、惜しいことに山城が書いた論文は1編のみである。
[略歴] 本籍は鹿児島県曽於郡財部町。昭和3年に広島高等師範学校理科三部卒業後、埼玉県立不動岡中学校教諭となる。昭和7(1932)年、広島文理科大学生物学科(植物学)入学。昭和10(1935)年に同校を卒業。この年、スイスのメランに送付した標本の同定結果が『ヴォ自然科学協会報告』に発表された(註1)。翌、昭和11(1936)年には彼自身が南九州産変形菌を報告し、3新種ヤマシロホコリ、クネリカタホコリ、アナアキカタホコリ、新変種タマミカタクミホコリなどを記載した。その中でヤマシロホコリの種小名は祖母「あいの」を記念して命名されている(註2)。同年に彰化高等女学校に赴任。翌年から台湾公立高等女学校教諭も兼任。昭和17年、台北帝大農学部入学。昭和20年、同校卒業。昭和21年に台湾より帰国した。昭和23-25年には南邦水産株式会社社長。昭和26-37年には鹿児島県立種子島高等学校勤務。昭和36年メヒルギの生態学的研究で学位取得。昭和37-44年、福岡工業大学教授。昭和41-50年、九州女子大学教授。昭和62(1987)年6月15日に83歳で急性心不全のため、広島大学付属病院で死去。彼の標本の一部は国立科学博物館にある江本義数の標本の中に保存されている。

メラン(1935)は「日本産変形菌」に中で次のように書いている(原文仏語)。「日本の山城守也博士から、おもに広島付近で採集された変形菌を検査するように依頼を受けた。標本の中に新しい分類群が含まれていたが、私がそれを発表するように頼まれた。日本は非常に変形菌が豊富な国で、若干の種は日本以外では再採集されていない。そのことは、変形菌の発育に特に必要な湿気のある海洋性気候と確かに関係があるだろうと思う。日本産変形菌は若干の研究者によって採集されてはいるが、確かに多くの希品が残っている」。

山城守也(1936)は「南九州産の若干の新しい変形菌について」で次のように述べている(原文英語)。「九州南部は日本の亜熱帯に位置し、森林が豊富である。温度が適当で雨が多くて変形菌の発生に適している。しかしながら、現在まで変形菌はわずかしか報告されていない。1933年に服部広太郎博士が、日野厳博士の霧島山での採集品に基づいて、ルリホコリを報告した。また、シャルル・メラン博士は昨年報告した<日本産変形菌>の中で、筆者の鹿児島県財部村での採集品に基づいてシロアシモジホコリ、シロモジホコリ、キケホコリを報告した。筆者は過去三年間、本菌を九州南部の主として屋久島と鹿児島県財部村で採集・研究してきた。屋久島は九州南端から約44マイル南の小島で、財部は霧島山の南麓にある村である。本研究にご助言、ご指導を頂いた乾環、岸谷貞次郎、堀川芳雄各博士にお礼申し上げる。」

吉永虎馬 (Yoshinaga Torama, 1871-1946)

[変形菌に関する業績] 1929年から1930年にかけて高知県産の種を採集し、江本義数に送って同定を受けた。その一部は江本・安部(1941)によって報告された。
[略歴] 明治4年7月15日に高知県高岡郡佐川村(現佐川町)西谷に生まれる。明治25(1892)年、一時佐川村の井上氏の養子となったがのちに復姓した。同年(1892)に高知県師範学校を卒業。佐川小学校、須崎小学校教員などを経て、明治35(1902)年に高知県立第一中学校教諭となり、その後、県立第三中学校に転勤し、県立高等女学校の教員を永く勤めた。その間、熱心に植物学の研究をした。昭和9(1934)年、高知高等学校講師、昭和19年には同校教授となり同年退官。昭和21年2月22日に74歳で没した。

吉永はキレンゲショウマ、ナカガワノギク、コオロギラン、クロガネシダなど多数の高等植物を発見・採集して同郷の佐川町出身の牧野富太郎に送り、その研究を助けた。その中でもヤッコソウは、高知県土佐清水市加久見で高知師範学校の生徒が採集し、それを明治40年に同校教諭の山本一が吉永の家に持参し、草野俊助を通じて牧野富太郎に届けられ、牧野が明治42年に新属新種として記載した。またコケ類はドイツのシュテファニーに送って研究し、サカワヤスデゴケ、カビゴゲ、ニシヤマヤスデゴケ、ミカンゴケなどを発見した。サビ菌やウドンコ菌なども熱心に採集して白井光太郎や三好学を介して欧州の有名な菌学者ディーテルやヘニングスらの同定を受け、日本の菌学研究にも多大の貢献をした。1901−1904年には高知県産の菌類について『植物学雑誌』に論文を発表した。昭和10(1935)年には平塚直秀と共著で四国産のサビ菌の論文も出している。また蝶のミカドアゲハの古い採集者としても知られている。収集した文献は服部植物研究所、標本の一部は国立科学博物館に保存されている。兄の吉永悦郷も羊歯類(トキワシダ、アツイタなど)の発見で高等植物の研究に寄与している。南方熊楠とも交流があり、彼の長男が和歌山田辺から土佐中高等学校(筆者の母校)を受験に来た折には、世話をしたと言われている(註1)。

南方熊楠は1929年3月13日付けの山田栄太郎宛書簡で次のように書いている。「拙弟常楠は・・・小生と絶信し、約定の出金を一文も出さぬのみならず、従前毎月送り来たりし小生の糊口料をも送らず。・・・かかる紛議を洩れ聞いて拙児は日夜憂悩し、ちょうどそのころ卒業試験、また土佐高中受験の準備中なりしゆえ、はなはだしく脳を痛め、土佐へ渡る船中大風波にあい、高知へ着せし時はすでに発狂しありしなり。」

六鵜保 (Rokuu Tamotsu, 1885-1955)

[変形菌に関する業績] 変形菌を採集して南方熊楠らに送って研究を助けた。
[略歴] 明治18年、大分県宇佐郡長洲(現宇佐市)の資産家に生まれる。同地で小学校・中学校を終え、明治41(1908)年に山口高等商業学校を第一期生として卒業。愛媛県の住友別子銅山鉱業所庶務課に約9年間勤め、愛媛県新居浜市惣開に居住して、従業員の師弟に商業などを教えた。この間に石鎚山などに登山したと言われる。大正5年に南方熊楠に初めて年賀状を送った。以後、南方に変形菌の標本などを送って研究を援助した。大正6年には田辺の南方熊楠邸を訪問して神島などの調査をした。この頃、別子銅山鉱業所を辞職して、東京三井物産に勤め、石炭購入係次席などとして勤務した。大正7年、日本山岳会に入会。大正8年、35歳で女子大学生と結婚。大正11(1922)年、南方熊楠が上京した折、南方や上松蓊や平沼大三郎らと一緒に一週間ほど日光の変形菌を採集した。この頃三井物産を辞職した。大正12(1923)年9月1日の関東大震災の後は故郷の大分県長洲に帰郷する。同年長男と父が死去。この年以降南方に標本を送ることはなかった。これ以後は久住山などに登山したという。大正15年から昭和9年まで長洲町の郵便局長などを務めて、本草学、考古学、民俗学などを研究したと言われる(註1、2)。その間の昭和5年には妻が死去し、以後独身で過ごした。晩年には薬草などの研究をし、地元では有名だったと言われる。昭和30年12月27日、71歳で没した。

南方熊楠は昭和3(1928)年8月10日付けの宮武省三宛書簡で次のように書いている。「六鵜氏は今に当方へも(書留にて状出せしも)、小畔氏へも何の挨拶もなきことに御座候。この人は小生と十余年前(大正三年頃)より文通致し、大正六年にわざわざ当地へ尋ね来られ一夜泊まりしことあり。その後も大正十一年小生東上の折、第一番に旅館へ来たり、色々世話やかし、またその夏七、八月の交、上松、平沼、小生と四人打ちつれ日光諸地に遊び、色々採集致し、すなわち従前ブラジルのみに産せしDidymium intermediumをこの人が梵字石という所にて発見致して、リスターの図譜にものせおき候(次に上松氏も日光湯本にて発見、また平沼氏も駿河で発見)。その後小生東京出立の節も東京駅まで見送られたるに候。しかるに震災に続き長洲町に退き老父死亡(その前に大分銀行破綻のため財産大方失いしと伝聞致し候)。そのころ小生共へ一切音信なく、たまたま一昨年標品進献の節、貴下より承聞せしとて電信で祝われ候。その後今年の初め九州の粘菌のみどうも調わぬは残念ゆえ(筑前の黒崎、薩州の城山、門司との外に、ほとんど集まりおらず)、図譜を送るから集めくるべきや、これ小生が出すべき日本の『粘菌図譜』にとって大必要の件なりと申しやりしに、粘菌は小生に贈るべく多くとりあり、またこの上に集むべし。長洲町の郵便局長を勤め三十人ばかり使いおれど、自分は出局を必とせぬ、閑職なれば丁度よき仕事なりと申し来たりしゆえ、小畔氏に頼み英国より取り寄せ贈りもらいしに、再三聞き合わすも何の返事なきは読書せし人に似合わぬやり方と存じ申し候。思うに妻子に別れたとか(この人の妻は東京の女子大学校卒業せり)、何とか世を味けのう思うことありて、放佚気分になり、自体世間を死灰槁木、義理などは浮雲を見るごとき了簡となりおわりたることかと嘆息致し候。随分綺麗な生まれにて愛敬多き人、また話も面白く、至って好学の人なりしに惜しき至りにござ候。」

笠井清(1982)によれば、六鵜は昭和7年11月25日付けの『大分新聞』に掲載された「霧氷の話」の中に次のような文を書いているという。「山地に生ずる霧氷の特種な景観としては、腰雪の現象である。近くは祖母の腰雪、あるいは由布の腰雪である。雪とは言うが、実は山腰に揺曳する帯、一抹の白雲が冷気に会うて凍結したものの言いである。かつて祖母山麓の神原で<祖母には国に事変あるなどの前兆として、祖母の腰にのみ帯の如く雪降ることがある。実に不思議の現象だ>と村長から聞いたことがある。それは霧氷だと説明して、不思議は直ちに氷解したことがあった。久住の硫黄山では硫黄の蒸気を含んだ黄色い美しい霧氷も生ずる。浅間山では噴火口壁に酸味をおびた霧氷ができる。これは火口より発散する亜硫酸ガスが高温のため無水硫酸となり、水蒸気に触れて硫酸に変じ、これが霧氷中に含まるるがためである。なお樹梢に付着した霧氷が、気温の上昇により次第に溶解して、多量の水分を含みたるとき、急に気温が低下して透明に凍結するときは、霧氷の横断面が三角形なるがゆえに、これに投射する光線七色に分解せられて、満山虹色に映えることがある。」

笠井清(1982)によれば、工藤元平(1965)は『久住山志』重版の「植物編」の中で次のように書いているという。「薬草に関する造詣の深いことは専門学者といえども、氏(註:六鵜)の門を叩いて教えを受けたことでもわかり、今日、氏の右に出ずる人はあるまい。・・・あらゆる方面に真に該博なる科学知識、その他万般にわたる識見を有し、胸中に万巻の書を蔵しながら、自らは名利を求めず、栄達を追わず、大分県下の一隅に悠々自適の生涯を送りながらも、多年研究の薬草によって、幾多貴重な人命を救われている。一度氏の温容に接し、醇々として社会万般にわたる該博なる氏の意見を聞き、さらに烈々たる憂国の至情に耳を傾くるにおよんで、何人といえどもおそらく頭の下がらないものはあるまい。戦前戦後を通じ、薬の乏しかった際、氏が永年にわたり独自の研究をつづけられて、新薬草を調剤して、医薬の効のない難病に悩む人々に救いの神の出現のごとく敬仰されていた。」

笠井清(1982)は『南方熊楠−親しき人々−』の中で次のように書いている。「六鵜は粘菌採集の意義を認めなかったわけではなく、また南方の意も十分知っていたのであるが、その境遇から協力できなかったのであろう。六鵜は近親の人に<粘菌の研究は、天皇のような方が御政務の余暇になさることは結構であるが、一般庶民のなすべきことではない>と漏らしたそうで、それは日々の生活に追われている人々にとっては縁の遠い学問であった。」

和川仲治郎 (Wakawa Chujiro, 1879-1943)

[変形菌に関する業績] 大正時代に変形菌を採集し、安田篤などに送って研究を助けた。安田(1919)の「菌類雑記(93)」の記事にある「ススホコリカビ」には、「陸中国江刺郡羽田村の朽木上に生ず、大正六年七月十三日、和川仲治郎氏の採集に係る」とあり、同氏(1920)の「菌類雑記(97)」の中の「フシアミホコリカビ」や翌年の彼(1921)の「菌類雑記(111)」の中の「クダホコリカビ」は和川の採集品に基づいて記載されている。南方(1927)の変形菌リストにも彼のこの三採集品が掲載されている。
[略歴] 明治12年10月14日、岩手県江刺郡伊手松ノ木田26番地に和川金平の長男として生まれる。1902年、岩手県師範学校を卒業し、盛岡市仁王尋常小学校訓導となる。1905年、江刺郡上伊手尋常小学校訓導兼校長となる。1908年には江刺郡伊手尋常高等小学校、1909年には江刺郡横瀬尋常高等小学校、1912年には江刺郡伊手尋常高等小学校、1913年には盛岡市城南尋常高等小学校、1915年からは江刺郡羽田尋常高等小学校、1917年からは江刺郡人首尋常高等小学校の各校に勤務し、1918年に退職。昭和18年2月17日、63才で死去。熱心な岩手県産の高等植物の採集家として知られ、種子植物分類学の大家の牧野富太郎などと密接な交流があった。しかし、岩手県のみではなく日本各地で、またコケ類や地衣類や真菌類なども採集した。

小野寺弘(1973)は「和川標本録に寄せて」の中で次のように書いている。「明治、大正、昭和の三代にわたって、小学校教育に生涯を捧げると共に、植物学の研究にうちこまれた江刺市伊手の人、和川仲次郎先生のぼう大な植物標本が、永く埋もれてあったものを、今回その中から2700余点を江刺市教材センター運営委員の方々の協力で、同センターの運営委員長であり、市の理科教育研究会長の中田剛伊手中学校長先生が、教育100年記念事業として、その整理をはじめられ、その一部としてこの『和川標本録』をまとめられた。」

渡辺篤 (Watanabe Atsushi, 1901-?)

[変形菌に関する業績] 大正14年以降の東京帝大付属植物園での変形菌採集リストを江本義数に示し、それを江本(1928)が発表した。
[略歴] 不詳。京都市出身。大正14(1925)年、東大理学部植物学科を卒業。昭和3(1928)年には小畔四郎と共に南方熊楠を訪問した(註1、2、3)。昭和32(1957)年、東大農学部の応用微生物研究所に生合成第二講座が開設され、渡辺が担当教授となった。のち成城大学名誉教授などを勤めた。彼はおもに変形体の摂餌や原形質流動などの生理学的な研究を行ない、後には微小藻類をテーマに研究したと言われる。

渡辺(1942)は南方の思い出を次のように書いている。「昭和二年といえば南方翁が六十四、五歳の時で、私はその頃始めて翁から手紙を頂戴した。その二、三年前から、私は植物生理実験の材料として粘菌の変形体を用いる必要が起こったので、南方翁の粘菌学の高門小畔四郎氏に、小石川植物園で採集した粘菌の学名を聞いたが、その折に間接に南方翁のことを知るようになった。その頃南方翁は『植物学雑誌』に第四回目の粘菌に関する論文<現今本邦に産すと知れた粘菌種の目録>を掲載されることになり、小畔氏より私に原稿が送付されたので、掲載のお世話申し上げたが、後で別刷を送ったら、突然南方翁からえらいお叱りの手紙を頂戴した。それは『植物学雑誌』に出た原論文には誤りはないが、別刷の学名におびただしい誤植があるとのことで、私としては実に意外であった。」

南方熊楠は昭和3(1928)年10月29日付けの宮武省三宛書簡で次のように書いている。「9月上旬小畔四郎氏、東大の渡辺篤氏(有名なる植物生理学者)と田辺拙宅へ来られ、この妹尾国有林に遊び、粘菌新種Diderma koazei Minakataを再見され候。(三年ばかり前、武蔵国三峰にて発見され足るもの。天皇陛下へ献品中にも入れたり。)」

湯浅明(1968)は「那須産変形菌類図説の意義」の中で渡辺について次のように書いている。「筆者が1935年ごろ東京帝国大学の大学院学生であったころ、変形菌の細胞学に手を出して、まず種類の同定や採集に熱を入れたとき、まず分類学者としては、服部博士、江本博士などがあった。変形菌の生理学を主として研究しておられた渡辺博士が、先輩として大学院にも来ておられたので、種類の同定のことを同博士に御相談した。渡辺博士は、それなら小畔四郎氏がよいと教えて下さった。小畔氏は当時、近海郵船の支店長で、変形菌の分類にこり、南方熊楠翁の高弟であった。南方翁は変形菌の大家で、野にかくれた大学者といわれており、陛下に御進講をしたこともあった。・・・筆者の採集した標本は小畔氏に送られ、同氏の紹介で南方翁の鑑定を得た。翁は変形菌の新属Minakatellaを立てたことで名高く、また、小畔氏の変形菌の標品は二万余種といわれた。」

参考文献

 この論文は長期にわたって書き溜めたものである。全ての文献を列挙するとかなりの頁を要するので、参考文献は山本(1998)を参照されたい。これに掲載されていないおもな文献を下にあげる。

伊藤一雄 (1965) 日本における樹病学発達の展望−日本樹病学史−(T). 林試研報(174): 59-162.
伊藤一雄 (1965) 日本における樹病学発達の展望−日本樹病学史−(U). 林試研報(181): 1-196.
伊藤一雄 (1966) 日本における樹病学発達の展望−日本樹病学史−(V). 林試研報(193): 1-375.
蝦名賢造 (1997) 石館守三伝・勇ましい高尚なる生涯. 294pp. 新評論. 東京.
小原敬 (2003) 変形菌類 (粘菌類).茅ヶ崎自然の新聞15年1月号(第240号):6.
奥昌一郎 (1938) 変形菌雑記. 岩手県立福岡中学校友会誌?. (15): 1-13.
笠井清編 (1981) 南方熊楠−親しき人々−. 286pp. 吉川弘文館. 東京.
笠井清編 (1988) 南方熊楠書簡抄−宮武省三宛−. 242pp. 吉川弘文館. 東京.
狩山俊悟 (1987) 宇野植物コレクション.高梁川(45): 80-86.
紀南文化財研究会編 (1981) 紀南郷土叢書第十一輯・南方熊楠書簡集. 196pp. 紀南文化財研究会. 田辺.
Kurata Satoru [Ed.] (1966) A bibliography of forest botany in Japan. University of Tokyo Press. Tokyo.
出川洋介 (2000) 落合変形菌類コレクション. 自然科学のとびら6(3): 24.
根本曽代子 (1966) 朝比奈泰彦伝. 406pp. 広川書店. 東京.
張尾雅信 (1982) 小林勝先生と変形菌. 福島生物(25): 55-56.
原紺勇一 (1998) 天覧標本目録広島県産粘菌之部(昭和11年)に関して. 変形菌(16): 94-95.
福田廣一 (2000) 行幸啓日誌にみる昭和天皇と菊地理一. 変形菌(18): 29-30.
福田廣一編 (1999) 変形菌・菊地理一生誕100年記念(栃木県立博物館企画展図録). 14pp. 栃木県立博物館.宇都宮
無記名 (1972) 顧問猪熊泰三氏のご逝去. 林木の育種(75): 19.
村野宏守 (2000) 「森」からのメッセージ. 杉並区薬剤師会会報(222): 2-4.
山本幸憲 (1998) 図説日本の変形菌.700pp. 東洋書林. 東京.