はじめに

 南方熊楠によれば、変形菌の古い記録は、中国にあるという。彼は、秦時代の、呂不韋の、『呂氏春秋』第14巻(紀元前293年)の、「萇江死、蔵其血、三年而為碧」という文は、クダマキフクロホコリの、変形体ではないかと言う。彼は、「碧血」の例を、この他にも引用して、次のように書いている。「支那に、古来冤死の人の血が、碧に化すと言傳へしは、この異態の原形体が、不慮に、地より湧出しを、驚異しての迷信ならん」。この説はG・リスターが1921年に、『英国植物学雑誌』第59巻に紹介した。また南方自身は、1926年の、昭和天皇への「進献粘菌品彙」第18号の説明文で述べている(平野威馬雄1944)。
 また明時代の、段成式の『酉陽雑俎』第10巻(860年頃)の、「鬼矢生陰湿地、浅黄白色、或時見之、主瘡」にある「鬼矢」は、クダマキフクロホコリの、変形体ではないかと、推測している。この見解は、南方が、1908年、『植物学雑誌』第22巻の論文に発表したが、G・リスターも、1915年、『英国菌学会々報』第5巻に紹介している。しかし、白井光太郎は、1932年の、『考註大和本草』の中で、李時珍の『本草綱目』土部、第7巻(1596年)の、「鬼屎」(鬼矢と同じ)の集解(説明文)の、「制陰湿地、如屎、亦如地銭、黄白色」の文は、クダマキフクロホコリではなく、ススホコリの変形体を、指すものではないかと考えている。最近では、1979年の、アレクソポウロスとミムスの、『菌学入門』第3版にも、「鬼矢」が、変形菌の変形体である可能性が、述べられている。
 欧州では古くから、ススホコリが、「タンの花」として知られていた。これは、タン(カシの木の一種の樹皮)を、革なめしに使用した後、捨てた場所に、しばしば、この変形菌が発生したからであるという。この「タンの花」についての、最も古い記録は、イタリアのポルタ (Giambattista della Porta, 1535〜1615) のものであるという。彼は、1588年に、次のように書いているという。「・・・そして私は、しばしば菌(ススホコリ?)が、タンの洗い物や、タンそのものが、投げ捨てられている場所から、発生しているのを見たことがある」。1654年には、ドイツのパンコウ (T. Pankow) が、成書の中で、現在のマメホコリを、「すばやく成長する菌」と名付けて、図説しているという。南方熊楠は、これを「速成菌」と訳している。これが、変形菌の図による、最初の記録とされている。1700年には、フランスのトールヌフォール (Josef Pitton de Tournefort, 1656〜1708) が、成書の中で、「血のように赤い、球形のホコリタケ」と書いているという。これはマメホコリの、若い赤色の、着合子嚢体の記載だと考えられている。1727年、フランスのマルシャン (Jean Marchant, c. 1650〜1738) は、「一般にタンと呼ばれる、打たれ、粉にされた、カシの樹皮に発生する、顕著な生育物について」と題する論文で、タンの上に発生する、淡黄色で泡状の塊(ススホコリ)について記述した後、次のように書いているという。
 「数日後、発育が止まり、濃縮され、金色がかった、黄色の殻を形成する。その下には、ホコリタケのものに似た、見事な黒い粉がある。・・・それは根、葉、花、種子もないので、他のどの植物よりも、海綿に類縁関係がある」。そして彼は、次のように命名した。現在のような、二名法ではないので、非常に長い名である。「早落性の、柔らかい、黄色の、快い、タンの粉の上に生じる海綿」。

山本幸憲